第三話:「あ」の世界の中心で Part Ⅱ

 目の前の女の子が僕の腕を取ってから、ここに入るまでの間の記憶が――どうにもこうにも、ぼんやりとしている。

 記憶にもやが掛かっている感じで、思い出そうとするとふわっとその記憶が宙に浮いて、何処かへ行ってしまう。

 そんな不思議な感覚に見舞われながら、僕は喫茶店に連れ込まれていた。

 今この瞬間の状況が理解できず、ぽかんと口を開けたまま脱力していた僕を見て、目の前の少女からは、「あわわ……」とまるでなにかをやって……いや、やらかしてしまったかのような、青ざめた顔色をしている。

 良く分からないけど、一言で例えるなら、すっごい脱力感。

「あれ……」

「気が付きましたか?」

「うん……はい……ですけど」

 漏れた一言は、僕が予想していた言葉とは二百七十度くらい異なった――――謝罪の言葉だった。

「ごめんなさいッ!!」

 少女は言った。

「ちょっと……待って」

 何故あやまる必要があるんだろう。

 まさか、これからあなたのことをキャッチに引っ掛けますので、その前にあらかじめ謝辞を述べようって言うのだろうか……。

 そんなことはない。そんなことはないはずだ。と目を擦って、僕は目の前の制服女子を見やる。

 だってこの女の子は、怪我をしているんだ。そうじゃないって本人は言ってても、おぼつかない足取りだった。

 目の前でちょこんと座っている女の子はこの状況に耐えられなくなったのか――

「ごめんなさいッ!!」ともう一度、声を張って謝っていた。

「待って待て……話が見えない。話が見えないって」

 落とし物を探していたんじゃないの……。

 紡ごうとした言葉を喉元で抑え、ぐっと堪えてから、ひとまずは深呼吸。

「ごめん……ごめんね。んん……ごめんなさい」

「どうして、あなたが謝るんですか?」

 状況を整理したかった。僕はどうして有無を言わさず喫茶店に連れ込まれ、彼女の第一声である「ごめんなさい」を聞かなければならなかったのか、

「どうか、どうか……しましたか?」

 押し黙っている僕を目前にして、目の前の少女は「んー」と利き手であろう右手の人差し指を顎先にちょんと当てた。

「さて……と」

 僕は口を開く。大丈夫、これから彼女にすることは、詰問じゃない。質問だ。だから、声を落ち着かせて、抑揚を言葉になるべく付けるようにして、ゆっくりとした口調で喋るんだ。いいな、分かったな、宮川健人。

「はい」

 ゆっくりと少女の方に視線を上げると――


「どうして、突然人の腕を掴んで、喫茶店に連れ込んだのかな?」

「そそそそ、それは……あ、あなたに聞いてもらって欲しいことがあって」


「どうしても?」と訊くと、目の前の少女はどうしても……。と透き通った声でそう言った。


「それは、どんなことなの?」


 その質問に、少女は言葉を一瞬だけ詰まらせる。迷いから来る言葉の詰まりか、この緊張感が漂う中で

「あの、肩――ぶつかりませんでしたか?」

 今日の話だろうか……。

「もしかして、さっきのこと? ごめん……気が付かなかった。ちょうど帽子を取ろうとして――」

「違うんです」と少女は否定する。

「丁度、湯島にある担々麺屋さんで」

 それって、さっきの話じゃないのか……。ますます、話が見えなくなっている。

「もしかして……湯島で?」

 念のため確認すると、彼女はさっきよりも小さい声色で「はい……」と頷く。

 僕がここ最近で湯島に行ったのは、今日と――――先週の二回だけだ。


「そう、そこです……阿吽っていう看板が立てられてた場所です。そこでスマホいじってましたよね」

「だったかなぁ……どうだろ」


 覚えていない。阿吽にいた時間帯は昼前だったから、その時は行列の真っただ中に居て、まだかまだかと担々麺を待ち侘びていた気がする。だから正直、湯島での出来事は担々麺しか覚えてない。

 僕がその時覚えているのは、あの時間帯に湯島で「阿吽」に並んでいたことと、何故か「阿吽」で担々麺を食べなかったこと。

 並んでいた最中に、誰かと肩が当たったかさえ、そんな些細なことは――覚えていない。さっきから曖昧な返しを繰り返している僕を見てか、一瞬、女の子の表情が変わった気がする。僕は朧ながら、それを見逃さなかった。

 あーだこーだと考えていると、「それじゃあ」と少女は話を仕切りなおす。

 制服少女は、少し陰りを帯びた笑顔を浮かべてから、口を開いた。

「ここ最近で、言葉が喋れなくなったことって……ありませんか?」

「えっ」

 時間が止まった。それと同時に、僕の心臓がドクン、と高鳴った。

 少しの静寂の間、目の前の少女は、ついさっきにも出した、少し陰りを帯びた笑顔を浮かべている。

 比喩表現じゃない――――ほんの少し、ほんの少しだけ時間が止まった。

 出そうとした言葉が、声が急に出なくなる。驚いた、声に出して驚いたつもりなのだけれど、それさえも声色に乗せられない。

 口を大きく開けている、なんとも間抜けな格好を目の前の少女に披露してしまっていた。

 言葉にできない――じゃなくて、声が出ないヤツだ。コレ。

「言葉が喋れなくなったこと?」と僕は少女が言った言葉を振り絞って復唱する。「そうです」と切り出した。僕が驚愕の二文字を前面に押し出した面を、驚いた声色を聞いても、特に表情を変えることも無く、淡々と言葉を紡ぐ。

 どうしてだ……。

 どうしてこの子が、目の前の女の子が、僕が言葉を喋れなくなったことを知っているんだ。

「僕が湯島で担々麺を食べたことと、言葉を喋れなくなったことの、何が関係してるんだ」

「すっごいワクワクしていた顔だったんですよ?」

 少し陰りを帯びた笑顔を崩し、今度は悪戯っぽく微笑んだ目の前の女の子に、心が狼狽えてしまう。

 湯島に来て、担々麺を今か今かと待ち侘びていた僕の顔は――他人から見てもそんなにワクワクしていた顔だったのか。って、そうじゃない。そうじゃないだろ。


 少女はコーラフロートの中でストローをくるくると回している。

 しゅわしゅわと炭酸の音を鳴らしながら――っていつの間に頼んだの!?

 檜のテーブルからなにやらしゅわしゅわ、と音がするもんだから、なにかこの檜のテーブルに仕掛けがあるのか、と真下に視線を向けると、そこには僕が一切頼んだ覚えのない「ずんだサイダーフロート」がしゅわしゅわしゅわ、と目の前で

「こんにちは!」と元気よく炭酸を吹かしながら挨拶をして来た。

「喫茶店に入った時から、私が注文しましたけど?」

「気が付かなかった……もしかして、それも、僕の言葉を奪ったのと、何か関係があったりする?」

 人差し指を立てて、だろう? と語気を少しだけ強めてみると、

「御明察です――――」と落ち着いた、抑揚を調節した声色が僕の耳をつついた。


「それはそれとして……どうして、僕が言葉を喋れないって分かったんだ?」

「そ、それは……」

 急に切り出した僕に、あたふたと戸惑いながらも、ストローをくるくるとするのを止めようとはしない。次第にそのくるくるのスピードは速くなり、少女が手を離したとき、くるくると渦を巻いたまま、ストローは支点を失い、渦の中に飲み込まれていく。頃合を見計らっていたのか、自分の気持ちを落ち着かせるための、時間稼ぎだったのか―――ふぅ、と短く息を吐いてから、

「いいですか、驚かないで……くださいね」と少女は、小さく宣言した。

 彼女の声色が、一拍だけ喫茶店の空気から消えたのを見計らってから――

「それは、あなたの言葉を奪ったのは……私で、私が言霊使いだから……です」

 目の前の少女の声のトーンを少しだけ下げて、その顔からスッと優しい笑みを消した瞬間――――

 もう一度、時間が止まった。

 喫茶店はちょうどお昼前の時間帯で、少し遅めの朝食を食べている人や、コーヒーを啜りながらパソコンを叩いているサラリーマン、耳にイヤホンを指しながら、ハードカバーの本を目を閉じながら読んでいた大学生風の青年、ペチャクチャと店の端っこで面接をしている男女がいたはずだ。ゴクリと唾を飲み込んだ後に、ゆっくりと周囲を確認してみる。

 大学生風の青年は、どうやら会計を済ませて店から出たようだ。

 それに――店に入ったと同時に聞こえて来た、有線ラジオから流れて来る

「あの頃流行った」曲さえも、今の僕には聴こえてこない……。

 目の前で渦を巻いていたコーラフロート君は、どうなっているだろうかと、制服少女から目を離したとき――――

 今度は、時間じゃなくて、心臓が止まりかけた。

 彼女が手を放してから、程々の時間が経っているはずだ。くるくると回して、手を放して、時間が止まった。そう、時間が止まったんだ。

 それだというのに、コーラフロートの中でストローは、ずっと同じ速度でくるくると回ったままだった。

 有り得ないことが――――僕の目の前で積み重なっていく。ゴクリと唾を飲んで震えた吐息が漏れ出てしまう、そのとき、カラン、と音が鳴った。

 制服少女が、もう一度、ストローを手にした音だ。

 聞こえて来るのは、目の前でコーラフロート時たまくるくると回しながら、美味しそうに啜っている女の子がする仕草の音と、彼女の声色だけ。

 有り得ないことが――――現在進行形で、積み重なっている。

 あれ……。おかしいな。

 喫茶店の中はこの時期だから冷房は絶対に付けていないはずだ。だと言うのに、寒気がする。

 足のつま先からゾゾゾッと身体中を一気に駆け抜けている気がする。これは、ただの寒気なんかじゃない。悪寒――悪寒だ。

「…………」

 言霊使い。

 まさか、こんなにも早く邂逅を果たせるとは思っていなかった。

「君は、本当に……言霊使いなのか?」

「はい!」と元気よく頷いた。

「と言っても……まだ見習い言霊使いですが、師匠からは一応は言霊使いって

名乗っていいって言われています」

 それじゃあ――――と僕は前のめりになる。

「どうして、僕の言葉を、奪ったんだ」

 単刀直入に聞いた。

「どうしてもです! だから、その……ちょっと、手荒なことをしました」

「手荒なこと?」

「はい」

「手荒なことって……どんなこと?」

「はい……あなたの『いしき』を、ほんのちょっとだけ、ぼかしました」

 なんてことを、目の前の女の子はぽつりと言う。

「僕の意識を、ちょっとだけぼかした?」

「はい。ほんの少しの間だけ、『い』と『し』と『き』をあなたから取ったんです……スマホに気を取られている間、私が」

「どうして……そんなことをしたんだよ」

 とんとん、と僕は机を叩いた。マスターが「ご注文?」と勘違いしてしまって、こちらに来ようとする。「聞かれたくないんでしょ?」と小さい声色で呟いてから――――掌を水平に立てて、ブンブン、と横に二回振った。

「だって……あの場所で、私が言霊使いだってことを話ししても、信じてくれないと思ったから……どうしても、だったんです」

目の前にいる言霊使いの女の子は、とある文字を、とある理由でちょこっとだけ拝借しているらしい。

 その所為で僕はわざわざ湯島まで赴いたのに担々麺が食べれず、そのまま

「目的地」に行く目的を失ってしまった。その原因が、僕の目の前にちょこんと座って――美味しそうにフロートを食べている。僕が頼んだわけじゃないコーラフロートをじっと、もの欲しそうに見つめていた。今は飲み物どころか甘いモノさえ口に入らないから、スッと、コースターごと引きずって、制服女子の方にフロートを寄せた。

 静かに安堵し、小さな笑顔を零す制服女子。

「まぁ……こっちとしても、君と逢えたことは好都合だったかな」

「どうして、ですか?」

 と真っ直ぐな瞳で僕を見つめて来る女の子に、これから僕が言うことは口が滑ってでも話せまい。喉元で今でも暴れ続けている物騒な思考はそっと端に追いやってしまおう。探偵に君のことを探して貰おうと思っていたとか、示談のこととか、口が裂けても言えない……。

「探していたんだ。言葉を奪われてから、君のことを」

 喫茶店でやり取りを交わす、高校生と女子学生――壮年の威厳を漂わせているマスターは、これから始まる二人の馴れ初めの、一人目の立会人だ。檜のテーブルを隔てて、互いにちょこんと鎮座している様は、傍から見たら、初々しいやり取りだろうか、それとも――ものすっごい間抜けチックなものに見えるだろうか。

 しかし実際に繰り広げられている会話は、完全にファンタジーのそれ。僕と目の前で今度はコーラフロートを美味しそうに頂いて、顔を綻ばせている制服女子は、それぞれ「被害者」と「容疑者」だ。

 それも傍から見れば、絶対そんな風には見えないだろう……。

 ただのお昼デートだ。

「コホン……」と僕はワザとらしく咳払いをして、ちらりと横目でマスターのことを窺う。僕の視線に気が付いたマスターはつかつかとこちらまで歩いて来て、

「ご注文は……?」とワザとらしく訊いて来た。

「もっとちょうだい……もっともっと、そういうのちょうだい!!」と言わんばかりの、威厳ある壮年の顔付き――眉がぴくぴく、と動いている。

「ウィンナーコーヒーを、ひとつ」

「当店のウィンナーコーヒーは、ご提供いたしますのにお時間を頂戴しておりますが……それでも、それでも……よろしいですか」

「はい、お願いすます」とお辞儀をする。グッと握りこぶしをつくっていたのを、僕は見逃さなかった――――

 この喫茶店のマスターは、実はこのぼくらは同じ学校に通っている演劇部所属の、ごくごく普通の生徒だとでも考えているのだろうか、言霊使い――言葉を奪われた。なんと奇怪な関係をシナリオの中に組み込もうとしているのだろう、と胸を躍らせているに違いない。

 始まりはいつも突然――――どうせなら素っ頓狂な声を出してドラマが始まってしまうよりかは、飛び回ったりして狂騒感を出した方が、ドラマを見る方もおったまげるだろう……。

 一見ロマンチックや派手目な展開に見えるが、もう一度だけ補足しておこう。

 僕は被害者で、言霊使いの彼女は容疑者だ――――

「奇遇ですね。私も……わたしもあなたのことを探していたんです!」

 喫茶店の中で、一人の女の子の言葉が、透き通るようにこだました。その声色はあまりにも透明感あふれる特徴的な声色で、聞いた人は誰しもがその声の主は誰か、と振り向くに違いない。ほら、リーマンだって、面接をしている男女だって、その声色にぽかん、と口を開けている――――と、周囲を見渡してみると。

「…………?」

 いつの間にか、誰もいなくなっていた……。

「どうして?」としばらくの沈黙を破って、僕は訊く。

 どうやら僕の問いかけは百点満点だったのか、カウンターの奥からカツン、とグラスの音が鳴る。

 なにがなんだか分からないけれど、どうやら原因は、目の前の女の子じゃなくって、カウンターの奥でウキウキしているマスターが関係しているらしい。

 ということは、次の言葉は、僕はなにも臆せず、なにも気にせずに――――どんと構えてればいいわけで、

 人の言葉で妄想を無限に奏でる威厳ある壮年の男の人の妄想通りの結末に――


「あなたの『あ』を返す方法を一緒に……一緒に探して欲しいからです!」

 ガシャンッ!!

 カウンターの奥で、何かに蹴躓いて盛大にズッコケた音がした。

 

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