第二話:「あ」の世界の中心で Part Ⅰ

「…………」

 休日の日、僕は「阿吽」の店の目の前にいた。

 昨日の雪化粧は後も形も残っていなくって、すっかり晴空になってしまった。  でも本格的な冬はまだもうちょっとだけ続くから、また雪の予報が出るかもしれない。

 少し寂しい気持ちのまま家を飛び出して、僕は地元の御留美駅から在来線を乗り継いで、湯島までやって来た。

「さて……と」

 立ち止まり、正面の建物を睨みつけてから、回れ右をする。

 店の前にやって来たのはいいけれど、店の中には入らない。本当は喉から手が出るほど目の前の店に入りたくて仕方が無い。それじゃあ我慢なんてしなければいいじゃない……。と、チャットで吉祥が返して来た。


「分かってないな……分かってない」


 敢えて言わせていただく、それは野暮であると。

 野暮であると同時に――不躾であると。

 この問題が解決するまで、僕は担々麺を一切口に入れないことを誓った。

 吉祥と尾方に言質をワザワザ取らせ、家にあったカップ担々麺を安価で譲った。二人も担々麺に目が無い野郎だから、「この恩は必ず仇で返す」と言ってくれた。

 おいふざけんな。そこは仇じゃなくって、恩で返してくれよ。頼むよ。

 後にこれを僕らは「担々の誓い」と名付け、文化祭の時にまで語り継がれるのであった。短い。それに、担々の誓いってなんだよ。意味分かんないよ。

 湯島に着くまでは、尾方や吉祥とチャットでやり取りをしていた。

「灯台下暗し……って言うだろ?」

 湯島で何者かに「あ」を取られたっていうのなら、今度は僕が「あ」を取った人物を湯島で探し出せばいい。

 それだけの話だ、と尾方は言った。

「それだけの話だったら……苦労なんてしないっての」

 とにっちもさっちも動こうに動けなかった僕に、どうやって「あ」を取った人を探せばいいんだろう。

 警察に相談するなんてもっての外だ。「あー君さ、都市伝説とか信じちゃうタイプ?」とか若い警官に鼻で笑われそう。

 手っ取り早いのが探偵さんに大枚叩いて居所を突き止めていただいて、後は自分で奴さんと示談なり何なりして、解決の糸口を紐解いていくのが一番手っ取り早いしかつ安全な方法で、「あ」を取り返すことができる……。

 のだけれど、その解決策で行くとしたら、お金と時間が否応無しに掛かってしまう。金無しクラゲとまではいかないモノの――まだ新居に移って来たばっかり。貯金も潤沢とは言えないし――――

 と思考が堂々巡りなってしまう。これじゃあ、いつまでたっても考えたまんま、行動なんかに移せやしない。

 なんで僕が、湯島に来たのかを考えろ。考えるんだ……。


「なーにが灯台下暗しじゃーい!!」と人気のいないところで尾方から借りたベレー帽をぺちん、と叩き付けた。ベレー帽は、「ぷぎゃ」と断末魔とも人様の屁とも似つかない非常に間抜けな音を漏らして、その場に突っ伏してしまった。

「何やってんだがな……こんなところで」

 地面に落ちている借り物のベレー帽をよいしょ、と声を出して拾い上げてから「くるりんぱ」と〇チョウ俱楽部の〇島〇兵さながらの動きで、帽子を回し頭に被る――我ながら流れるような動き、「上手くできた」と心の中でがっつガッツポーズを決めた。よっしゃ……。

「きゃっ!」

 と僕の隣で、黄色い悲鳴がこだました。あまりにも突然過ぎるできごとに僕は「のおお!?」と芸人でも出さないような間抜けなリアクションを取ってしまっていた。

「あの……」

 突然の短い悲鳴の後に、「いたた……」と言葉通り痛がる声に、僕は思わず身を翻す。下から小さい声が掛かる。

 思わぬところで転んでしまい、声が上擦ってしまったからか――――声を抑えているのか、どちらにせよ、転んでしまったことには変わりない。

「大丈夫ですか?」と優しく声を上げた後に、中腰になって、右手を差し伸べる。

「ごめんなさい」と控え目に言った後、僕を見上げた。

 視線がこっつんこする……。

 僕よりも小さくって、僕よりも落ち着いている――それがその子の第一印象だった。紺のブレザーを着ていて、チェックのミニスカートをやや短めに履いていた。

 女の子だ――

「あの……すいません」

「はい。なんでひょうか」

「昨日かおとといに、ここで、落とし物しちゃって……何かご存知ですか」

 見ず知らずの女の子が――真面目そうな口調で、僕に話しかけて来たのである。

 これに、僕は思わずびっくらこいて、言葉に変な抑揚を付けてしまった。

「ごめん……知らないんだ。僕もおとといくらいに、湯島で忘れ物をしちゃってね。警察に届けは出しているんだけど、どうしても探さなくちゃいけないもので」

 町中で制服姿の女子に話を掛けられただけで大袈裟な――と思うかもしれない。 地元ならとにかく、僕は「あ」を探すためにゆし湯島にやって来た。傍から見れば僕は担々麺屋に並んでいる一般人に過ぎない。

 そんな最中に突然女の子に声を掛けられたら、ビックリするに決まっている。

 そして――――

「奇遇ですね。私も……なんです!」と明るい声を掛けられたら、もっともっと

 ビックリするに決まっている。

「落とし物?」僕の声に「ハイっ!」と制服の女の子は首を縦に振った。

 落ち着いた顔付きとは裏腹に――女の子の声は随分と透き通るような声色をしていて、かつよく響く声をしていた。

「どんな落とし物? 財布? 定期券?」

「それはですね……」と、制服の女の子は、ブレザーの制服からスマホを取り出して、僕の目の前まで両手で上げてくれた。どうやら落とし物を探してくれってことらしい。

「怪我……してない? 大丈夫」

「はい……大丈夫です。ですので、少しだけ……落とし物を探すのに、協力してくれませんか?」と少女は希うような眼差しで、僕を見つめて来る――――

 気がした。

 このまま店の前で待ってても、正直言って埒が明かない。時間を浪費して――ふぅ、と溜め息を吐いて、このまま何事も無く明日がやって来てしまうんだろう。それを考えただけでも、なんだか気分が萎んでいく気がしてならない。

「一緒に手伝うよ……」

 どうせだったら、人助けとか、いいことに時間を使った方が――――気持ち的にも有意義だ。

「ありがとうございます!」と言って、少しだけおぼつかない足取りで、歩みを進めようとする。おっととと……。と慌てて僕が彼女の手を取った、

 その瞬間。

 僕の腕をぎゅっと掴んでから――――

 その少女は、思いっ切り駆け出した。

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