第一話:教室の中心で「あ」と叫べ……ない!?
僕の名前は宮川健人! 何処にでもいる高校二年生!!
不思議なことと、おかしなことが起きた。
吉祥と三鷹さんに指摘されてからようやく気が付いた。五十音順を逆から言ってみて初めて気が付いた。いや……訂正。気が付くことができた、と言った方が良いのかもしれない。
「あ」という文字が喋れなくなった。
「『〇』りがとう」
「『〇』室奈美恵」
「『〇ムロ・レイ』」
「シャ〇・〇ズナブル」
「『〇』イ『〇』ンマン」
「『〇』ーノルド・シュワルツェネッガー」
「『〇』澤ゆりな」
とあの付く言葉だったりキャラクターだったりをひとまず例として挙げてみた――のだけれど。
「聞こえない」とひとりでにぼやき、
「聞こえないよ?」とひとりでに声を荒げ――
「聞こえへんがな」と髪をくっしゃあと掻きむしった。
翌日、寝て起きたら、「あ」が喋れているのでは、と期待した僕が浅はかだった。
鏡の前で「あ……あ」と呟いているはずなのだけれど、その声色は全く僕の耳に届いていない。それならと「あー」と声を伸ばしてみるも、鼻が詰まった時に出る間抜けな声が、洗面所に響き渡った。カオナシか僕は。
もう一度目の前の鏡を見やって、今度は「あぁー」とさっきよりも間延びした声を出してみる。その間延びした声をスマホの録音機能で声を録音して、停めて、すぐさま再生ボタンをポチっと押す。
「なんだ……この間抜けすぎる声」
鏡は、その間抜けすぎる声色を聞いた――間抜けすぎる顔をした僕が、ポカンとして大きく口を開けていた。
朝から、何をやっているんだろうな……。僕は。
どうするんだよ、これ……。
「どうするんだよ……これ!」
好きなAV女優の言い合いっこをするときに「あ」行の付くAV女優が言えないじゃないか。
僕は「あ」を言葉にしているつもりなのだけれど、どうも相手には全く聞こえてないみたいだ。最後の人は普通にAV女優だし、グレーゾーンを攻めてみたから怖かったけど、向こうに一切聞こえてないのなら万事オーケーだ。
「『あ』が喉から出てねぇって……もっと喉から『あ』を出せ!」なんて他人事をかましながら「ヒャハハハ」とクソ汚い笑い声を教室中に響かせ晒している尾方。おい、尾方。お前そんな上品な格好してるのにそんな下品な笑い方をするから――彼女ができないんだぞ。
そういうことだぞ!!
「って、そうじゃなくって!!」と尾方に対して突っ込んだのと時を同じくして、「そうだ。いいことを思いついた」と吉祥は僕の方を見て席から立ち上がった。
僕が「何が」と短く訊くと、吉祥はワザワザ僕の席にまで歩み寄って来る。飲みかけのペットボトルをビックリするくらい器用にくるくると回しながら、どんな答えを出そうが、僕の返しは決まっている。
はいはい、と僕は吉祥の提案を受け流すだけだ。
「これ……嗅いでみて」
「…………」
飲みかけのペットボトルに、鼻を近付けてみると……。
腐ったドブを煮詰めたような臭いが、思いっ切り鼻孔を燻ぶった。ヒクっと、危険を察知してか本能が身体を無理矢理にも飲みかけのペットボトルから距離を置く――――その後に、もう一度勇気を出して、もう一度臭いを嗅いでみる。
「ぎゃああああああああああああああああッ!!」
今度は、風邪薬を飲んだときのおしっこの臭いが、ペットボトルから立ち込めて来たのである。
「原材料に、……猫山皇(マオシャンフワン)って書かれてるぞ!」
「えっ、猫?」と僕の驚いた声色に釣られて、「何処? ネコ何処?」とキョロキョロと教室を見回している。
「説明しよう! 猫山皇(マオシャンフワン)とは……!」
マレーシア産のドリアンのブランドのひとつで、ドリアンの中でもかなり味が良いらしい。嫌な臭いも苦味もほとんどない。
ドリアンを愛する一部の愛好家は、ドリアンは普通、カスタードのような味とか言われているような、言われていないような――――
だが、この猫山王はクリーミーというより蜜の様な味がするという。
僕の目の前で、猫山皇ドリアンサイダーを般若二十面相の形相でちょっとずつ飲んでいる目の前の吉祥。
「で……味は?」
「臭くて分かんねぇ」
今日は面白いことに、ダテ眼鏡の下にコンタクトを付けている。コンタクトを付けている理由は、言わずもがな……目が悪いからであるのは間違いないのだけれど、その上から眼鏡を掛けているのである。
しかも、週末の放課後だけ。理由を訊くと「なんとなくだ」とワザとらしく眼鏡と口角を上げて、インテリキャラっぽくしょうもないことを答えてくれた。
なんだそれ、意味分かんない。
丸刈りマルガリータの上から毎日髪型の変わるカツラを着用し、コンタクトの上から眼鏡を掛ける。これを変人と呼ばずしてなんと呼ぶか。
「変態という名の紳士って……呼んでくれよ」
「嫌だわ」
と言って吉祥は自分のカツラをじょりじょりと触っている。
今日のカツラのコンセプトは、「はにわ」。
サラサラヘアーの上には見事な埴輪が、根っこから生えている。もちろん、髪で造形されているはにわだから、ポカンと空いた口とか、楕円にひん曲がった眉とか、「1」と目元に刻まれた「目」を再現することはできないから、必然的にのっぺらぼうの「はにわ」がちょこんと吉祥の髪の根元から生えているような感じになっている。
もう、意味分かんない。
「なぁ、吉祥」
「なんだ」
「やっぱ……駄目だったか。これじゃあ」
そんなファッショナブルな吉祥が、僕にうってつけの「あ」を使える手段を教えてくれるというのだ。うん……最初っから吉祥の手段とか提案とか「わたしにいい考えがある」とかは信用していない。どうせ、またいつものロクでもないことだ。
「いいことを思いついたって、なんだよ」
「さっきの?」
「ドリアンジュースを僕に嗅がせてビックリした衝撃で『〇』が喋れるようになるかもしれない作戦のことか?」
「あれは前座だよ」
あんなのが前座で来るんだから、後釜はどんなに恐ろしい作戦がやってくるのだろうか……。心配でならない。
「手旗信号だ」
「手旗信号?」
「手旗信号」
旗は何処で買うんだよ……。と呆れながら訊くと「便利なアマゾンにでも紅白旗くらい売ってるでしょ」となんとも無責任なことを言い出した。制服のポッケからスマホを取り出し、「手旗信号」と検索を掛けてみて、二度、三度とスクロールを重ねていく。
「あった?」
ホントだ……しかも紅白旗で調べただけなのに、紅白幕とか紅白のぼりとかいらんものまで検索に引っ掛かるんですがそれは。
「しかも……思ったより安価ってワケにはいかないんだな」
「吉祥さ」
「ん?」
「カンパしてくれないのかよ」
「えっ」と吉祥は素っ頓狂な声色で反応する。
手旗信号の動作を始める前に、右手に赤旗、左手に白旗を持つ。基本姿勢からの原画と呼ばれる動作に移る。
原画を一種類から三種組ほどみ合わせて、文字をつくるらしい。文字を動作で示すって、結構難しいイメージがあるのだけれど、果たして大丈夫なのだろうか。
ちなみに「ア」という文字は9→3、つまり「フ」と「ノ」の順で信号を出すことによって「ア」になるらしい。
「どういうことだってばよ……」
「どうもこうも、フとノが合わさって最強のアになるんだよぉ。分かれよぉ」
あれなのか、1+1が2ではなく田んぼの「田」になるのと同じように、フ+ノがアになるのか。
「考えるな……感じるんだ。手旗信号は、言葉じゃない。だから、まずは身体に染み付けさせるんだ。『ア』の動作を……!!」
意味分かんねぇよ。分かれねぇよ……。
目の前の吉祥と分かり合うことができなかったので、僕はひとまず考えることをやめた。年頃の野郎同士の会話なんて最初からアッパラパー全開の方が良いと言うけれど、少しは意思の疎通を真面目にやってほしい。
「どいうか、何で知ってんの?」
「ボーイスカウトに入ってた頃、覚えたんだよ。滝の上から双眼鏡使って、救難信号の訓練とか、笛を使っての信号とかね」
「で、これやるとして……どうすんの」
「仕方ない……昔使ってたのを倉庫から引っ張り出してみるか」
「いらんわ」
「いらないのか」
そんなすこぶる面倒くさい動作を、なんで「あ」だけを伝える手段として旗持って伝えなきゃいけないんだ。
普通に面倒臭いし、それだったらノートとか使って必要な時だけ、ノートの切れ端とかメモ帳に書いて渡せばいい話。
しかも、僕らは文明の利器であるスマホを持っているんだから、チャットを使ってやり取りをすればいいじゃないか。
あほくさ。
「それで……万事解決だろ」
僕は、ポケットの中からスマホを取り出して、チャットのアプリを開いて立ち上げ、試しに尾方と吉祥に「あ」と意味のカケラも無いメッセージを送ってみる。
それにほとんど同じタイミングで気が付いた二人は、数秒遅れて、返事がやって来た。
「あはんうふんえへん」「いうえお」と、これまた意味不明な言葉を返してきやがりましたよぉ……。意味分かんない。
「普通に病院に行ったら?」と一番まともな打診をしてくれたのは、常識人の三鷹さんだ。最初からあんなアッパラパーな馬鹿共に相談するんじゃなくって、良識のある人に相談すればよかったんだ。まる。
行ったところで、「病院舐めてるの?」と言われるのがオチだ。それに、問診票に「『あ』の言葉が、出すことができません」なんて書くのは恥ずかしい。すこぶる恥ずかしい。
「いや……普通にチャット使ってやり取りすればいいじゃん。ね?」とあどけない表情で、三鷹さんは笑顔をこぼしてから、今日もさっさかさーと教室を後にした。
なんだ。なんだよこの女の子。天使かよ……。
「アルファルファもやし」
「なんだそれ……」
三鷹さんに「じゃねー」と手を振っていると、吉祥が呪文のようなもやしを、突然口にした。ほんと、なんでも、なんでコイツはいつもいきなりなんだよ。
アとフとルが随分と名前に多く含まれているもやしだ。と吉祥はドヤ顔で右手の親指を立てる。
聞くだけでスーパーで売られている一個二十円ほどのもやしとは一線を画していることが分かる。
いや、分かんない。全然分かんない。普通のもやしと何が違うのか、字面だけじゃなにひとつ分からないぞ……。
説明しよう! アルファルファもやしとは――――
せんでいい、尾方。
「説明していい? アルファルファもやしとは――」
しなくていいって言ってんだろ。尾方。
「しかし、これ……本当にどうすりゃあいいんだ」
実のところ、どうすればいいのか僕には分からなかった。
いつの間にか「あ」の言葉が喋れなくなってたし、まず友人と出逢って言う言葉は「おはよう」だ。「あ」って思えば真っ先に出てくる言葉じゃない。
真っ先に「あ」が出てくる人は、〇村けんくらいだろう。アイーンって、よく言うじゃないですか、あの人。
「エンドレスしりとりだったら、ずっと『あ』を使うから……宮川は参加できないな。残念だ」
「なにそれ。僕知らない」
「今考えた。『あ』しか使っちゃいけないしりとりのことだよ☆」
くっそくだらない。
なんて、なんて頭の悪い会話が、自称進学校を名乗る高校の校舎の教室の一角の一隅の中で、繰り広げられているんだろう。
「このしりとりに決着が付くまで、俺たちは帰らないからよぉ……お前らも帰るんじゃね――――」
「帰るからな!」
「なんでさぁ!!」
「そもそも……エンドレスしりとりって、なにさ」
「『あ』行でしりとりすんの」
「お前ら馬鹿じゃねえの!?」
目の前に「あ」が喋れない人間がいるってのに――――もう本当この子たちったら人の嫌がることを平然とやってのけれるんだからッ!
最悪!!
僕は、「ふぅ……」と溜め息を吐いて、机にゴロンと突っ伏した。
「あ」が無くなって不便かと言われたら、まだ……僕はすぐには答えることができないだろう。気持ちの整理だってしてないし、具体的な解決方法もあやふやなままで、というより――悩んでいたら、他の言葉まで喋れなくなると思うと、空元気でもいいから元気を出せば、これ以上言葉を奪われることは、きっとないんじゃなかろうか。知らんけど……。
「あ」が喋れなくっても、別に人間関係が壊れるワケじゃない……。
「…………」
と、まるで黄昏るように、窓の景色をぼうっと眺めると――――
白い粉のようなものが、空から降って来た。
「雪だ……」
今見たものが、雪であると、僕は自分に言い聞かせる。教室の窓を開けると、ブワっと寒空に相応しい、少し冷える風が教室を一周する。ほんの十秒ほど白い風を浴びていると。吉祥や尾方に「寒い!」と吠えられてしまったので、ゆっくりと引き窓に手を掛けて、「よいしょ」と引く。
「ふぅ」と空を見上げてから息を吐いてみると、僕が吐いた息は、すっかり白で覆われていた。
予報にはまるでなかった雪が、しんしんと降り始めている。これには人っ気のない教室で騒ぎ散らしていた吉祥たちも意外だったようで、僕が窓を閉めた後に、
エンドレスしりとりを一時中断してまで雪に魅入っていた。
「見ろよ……どんどん降ってくるぜ」
「明日には、もしかしたら積もってるかもな」
尾方の一言に、なんだかワクワクしてしまう。今年に入って確かに雪は何度か降ったけれど、ここまで多く降り注いでいるのは、初めてかもしれない。
これには二馬鹿二人も、「雪だぁあああああああ!」と大はしゃぎだ。
「これじゃ……直ぐには帰れないじゃないかよ」
早めに帰るのも悪くはないけれど、こっちに来た時期が時期だから、期末テストは無いし家に帰っても荷物の紐解きに時間を費やすだけだ。一人暮らしにしてはまぁまぁ量があるから、一気に引っ越しの荷物を片付けたとて、どうせ読書に耽ったり、見つけたBlu-rayディスクをそのままノーパソにインして映画鑑賞が始まるのが――目に見える。
「…………」
もしかすると、もしかすると……。
今から帰るより、教室でエンドレスしりとりの決着の行く末を見守ってか家路に付くのも、案外悪くないかもしれない……。
ストーブの周りに集まって暖を取りながらエンドレスしりとりを静かに白熱させている二人の隣で、同じく暖を取りながら観戦した。
決め手は222手の尾方選手で、外野が輪唱で〇ンパンマンのマーチを唄っていたのが勝利への道が見えた瞬間だと語った。
長期戦の末に敗北をしてしまったお相手の吉祥選手は、「アトモスフィア」と二回言ったことが、なんと吉祥選手自身の告発によって明らかになった。
ってそれ完全に吉祥自身のの落ち度の所為じゃねぇか。
というか、「あ」のしりとりだけで222手も続いたのか……。
この二人、もしかしなくても、正真正銘の馬鹿だ。
長らく(三十分ほど)続いた「エンドレスしりとり」の観戦記をメモ帳に付けてから、僕はそそくさと教室を後にした。階段を駆け足で下って、そのまま下駄箱へと躍り出る。
「うお……やっぱ案外、寒いな」
外の空気は思ったよりも冷たくって、吐いた息が白く染まるほどには気温が下がっていた。
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