御神木 往人 XIII 「告白」

 地揺れに爆発……、人の声。舞う、火の粉。

 怒号に包まれているはずなのに、妙に静かに感じる。

 耳に、水が入っているようだ。

 それに、ひどく時間の間隔が狂ったように……視界が、スローモーションに映っている。

 それらはすべて、彼女と目が合ってからのことだった。


 比良坂を見つけた時、時間が止まった気がした。


 顎が震えて声が出ない。

 口だけがぱくぱくと動いて声が出ない。

 指も足も硬直している――


 ダメだ!


 僕は、今までたゆんでいた時間を取り戻すように――一歩前へ進み、声を張り上げた。


「比良坂ぁ!」


 ――遥か高みで僕を見下ろす、比良坂に、聞こえるように。


 比良坂はしばらく、口をつぐんでいた。

 そのかん、ヒドラは動きを止める。

 遠くでとどろいた爆風が、比良坂の黒髪を撫でた。

 ――そして、


「どいて、御神木おかもとくん」


 ――角のない、冷たい声色だった。

 それはまるで、黒いガラス珠のように。


 だが、止まるわけには――もう、諦めるわけには、いかない。

 ――だから、


「待って……待ってくれ! ヒドラの正体は……ヤマタノオロチなんたい!」


 違う、こんな説得じゃだめだ。

 僕は、何を言っているんだ。

 何を言えば、比良坂は――


「ヤマタノオロチや世界中で恐れられるドラゴン……ヘビに対する本能的な恐怖……そん正体は……原始人類の宿敵――いや、だった九頭竜ヒドラの記憶!

 無限の命を持つヒドラを殺すことができんかった縄文人は、ヒドラの魂を九つにわけて封印することで、それをたおした!

 ヒドラ……いや、ヤマタノオロチは本来、八つの又を持つ――九本首の竜……」


 何を言えば響く?

 どうすれば届く!?


 何を言えば――どうすれば、比良坂を止められる!?


「そん一首がそいつ! ヒドラは……知恵の実科学を手にした人類に

対して、生命の実不死を手にいれた……人類の天敵!

 それが、聖書の〈失楽園〉に隠された真実――

 ヒドラは……じゃでありじゃである、闇の存在たい!」


「そっで?」


 黙っていた比良坂が、やっと言葉を発する。

 でもそれは、本当に、ただの一言で――


「ヒドラが九つの首を――全ての魂を取り戻したとき――きっと人類は、滅亡する!」


 ――比良坂を止めて……僕は、何をしたいんだ? 比良坂を、どうしたいんだ?

 ――世界を、守りたいのか? 人類を、救いたいのか?


「そがんこと……どうでもよか」


 比良坂は極めて落ち着いた――しかし、きっぱりとした語調で、口を少しだけ開いて――表情一つ変えずに、訣別けつべつの言葉を吐いた。


 ヒドラと一体化した彼女を見たとき、死んだ祖父を思い出した。

 映画や漫画で見て、死んだ時に人は勝手に目を閉じるものだと思っていた。だけど、本当の死は――で、目は死ぬのだ。


「ヒドラと一緒におれんなら……そがん世界、いらんばい」


 虚ろな目。生きていない目。輝きを永遠に失った目。

 彼女は、祖父と同じ目をしていた。

 虚ろで、暗い目。輝きを失った、生きていない目。

 その瞳は生物の器官とは思えず――まるでビー玉か何かのように思えた。


 僕にはもう、ただただ、声を振り絞ることしかできなかった。


「ち……違う! 比良坂は、騙されちょる!」


 だから、


「半覚醒状態のヒドラは……君を依代よりしろ顕在けんざいしとるけん。

 だから――自分を守るために、比良坂を守っとるに過ぎんのたい!

 全ての首を――魂を取り戻し、完全に覚醒したら……君は不要になって……きっと間違いなく殺される!」


 僕は、何をしたいのだろうか。

 世界を守りたいのか?

 比良坂を守りたいのか?

 比良坂はいま、幸せなのか?

 僕は、何をすればいい?


 いや、僕はただ、比良坂と――


「き……君んことはこっから……ぼ、僕が、守っから!」


 わからない。

 わからない、わからない、わからない、


 だから、


「僕……本当はずっと……、ひ……比良坂のこと…」


 振り絞って、振り絞って、振り絞って振り絞って振り絞って――


「す……好いて……っ」










「あなたは一度でも……私を守ってくれたと?」



 その時僕は初めて――比良坂の、を見た気がした。

 とても寂しそうな――だけど、だった。

 とても暗く、冷たかったけれど――をしていた。


 僕はもう、なにも何も言うことができなかった。

 その答えを聞いた瞬間、文字通り、世界が真っ暗になったからだ。

 視界は暗闇に包み込まれ――足を立てた地面は滑り落ちた。


「私んヒーローは、ヒドラだけだけん……他には、何もいらんと」


 失われゆく世界の中で、比良坂の言葉だけが響く。


 ヒドラの外郭がひび割れ、破裂する。

 その破片が砕け散り、バラバラに舞う。

 凄まじい光の奔流ほんりゅうが、暴発するように広がった。

 ――まるで、翼のように。

 夜闇が真っ赤に燃えている。


 そして、空高く、昇る――


 光が、一つ。

 それは月のように見えた。

 闇夜にひとりぽっかりと浮かぶ、冷たい月の輝き。

 何者も寄せ付けない、誰の手の届かない、遠い月の光。


 比良坂の姿はもう、見えなかった。


 ――それが、僕がに見た光景の、すべてだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る