御神木 往人 Ⅻ「大元帥明王」 ※写真あり
それはまるで、人の洪水だった。
土石流が
ある人はよろけ、手を宙に回す。バランスを崩し、転げ落ちる。踏み潰されて、蹴飛ばされる。
絶叫の渦。
どこからか赤子の泣き声が聞こえたかと思うと――
人々はやみくもに――しっちゃかめっちゃかに逃げ回っていた。誘導も、順路もあったものではないのだから、当然だ。
彼らはただ、ある一点から逃げているだけだ。
どこに逃げるのが正解なのか、それは誰にもわからない。
それでも僕は、その一点に向かって、進まねばならない。
人の流れに
進めど進めど押し返されて、まったく近づく気がしない。誰かの
視界の上の方で、
反射的に上を見ると――また一度、二度と――薄暗い空に、しばたくように稲妻が走る。鈍い音と共に――
電線を引きずりながら、電柱が折れかかっている――まさにその、最中だった。
迫りくるように、重低音を上げながら――
「あっ」
やがて重みに耐えられず――塊は、商店街に落下した。
ぐしゃり、と店先が潰れたのが見えた瞬間、ぼうっと光が膨らみ――暴発した。
どっ、と木造建築が吹き飛び、真っ白な炎の柱が吹き上がる。粉々になったチリが一気に降りかかる。目が開けられない。叫び声だけが、耳にへばりつく。
次に目を開けたときには、目の前の男の背中に、砕け散った鉄筋が突き刺さっていた。
ぶっ、と、後から遅れて血が吹き出す。
ドス黒い煙がもうもうと立ち
どおん、と再び大地が揺れた。人々は一斉によろめく。窓ガラスがばしゃばしゃと、波打つように割れていく。
――その混乱を見逃さないように、足を踏み抜いて、一気に奥へと進んだ。
ヒドラに――比良坂の元に、行くために。
ある一定のラインを超えると、途端に人が
もう、あらかた逃げ終わったのだろう。
きっと、奴が――ヒドラが、近いのだ。
まばらに残る人々が、ふらふらとさまよっている。一本の街灯が薄暗く明滅しているだけで、町は見事に停電していた。
現場の近くにしては、静かすぎる――そう思った瞬間、
ぐわら、と大地が揺れた。
同時に、轟音が
それに続くように、西の方で火の手が上がった。
人々のどよめき。
――いる。
――あそこに、ヒドラがいる。
――比良坂が、いる。
* * *
地揺れと共にヒドラが、その姿を山から現した時――
兄ちゃんは、「ヤマタノオロチの正体がわかった」と言って部屋に入ってきたことを、思い出した。
普段なら、どうでもいい兄ちゃんの仮説――特に今は、それどころではない。
――だが今は、その仮説が、自分にとって――いや、ヒドラにとって、重要なものであると直感したのだった。
だから僕はその時、ヒドラについてのすべてを、ついに兄ちゃんに打ち明けた。
比良坂のこと……洞窟のこと……土偶のこと……勾玉のこと……そして、山の中の死体のことを……。
そんな僕のおかしな話を、兄ちゃんは黙って真剣に聞いてくれた。ヒドラが起こしているのであろう、地鳴らしを聞きながら……。
一通り話し終えると、兄ちゃんは沈黙した。
「少し、考えさせてくれ……」と一言だけ残して。きっと、僕の話と、今までの兄ちゃんの仮説とをすり合わせているのだろう。
遠くから、サイレンと叫び声が聞こえた。
僕たちは、これからどうなるのだろう――そう考えたとき、兄ちゃんは立ち上がり、目を見開いて叫んだ。
「
それだけ聞くと、兄ちゃんは僕を連れて、急いで避難を開始した。
母さんは今どこにいるのだろう、買い物だろうか。父さんは今日は仕事で福岡に行っているはずだから、安心だ。
ドアを開けると、遠くに煙が上がっているのが見えた。
あそこに、ヒドラがいる――
「兄ちゃん……話してほしか」
一瞬僕の方を見ると、兄ちゃんは、歩きながら話し始めた。
* * *
「きっかけは、
「熊本からの
「福岡で気になっていたネタは、なんといっても
「今でこそ、本当に台風だったのか……鎌倉武士がどのように戦ったのか、いろんな議論が上がっているようだが……いずれにせよ、中国、そしてヨーロッパ全土を
「では、その神風は
「普通に考えれば、たまたま台風が発生したから……海がたまたま荒れていた……から――つまり、
「なぜか? それは、元軍襲来に対して
「大元帥明王法は、国家最高の密教秘術だ。その効果は、
「この秘術は、基本的には国家
「だがこの大元帥明王法は歴史上、正月以外にも何度か臨時で執り行われることがあった。記録として残っているのは三回。それはいずれも、
「そして二回目が、まさにその、元寇だ。元軍襲来時だ。
「時の権力者であった亀山上皇は未曾有の危機に対し、伊勢神宮や春日神社、日吉神社などに参拝し、大元帥明王法を執り行った……と、『増鏡』には書かれている。
「日本中で、敵国降伏の祈願が始まった。尾張の性海寺や阿蘇の宮原両神社など、当時の記録はいくつもの社寺に残されている……が、何と言ってもやはりその中心は決戦地であった福岡だ。福岡市の
「そして、神風は吹いた。日本軍は見事危機を乗り越えたというわけだ。
「元寇から六百年以上経った1904年――日露戦争が勃発した年に、福岡市の東公園に亀山上皇像が建てられたのは、彼がその時の神風……怨敵調伏を願ったからに他ならない。現代人が想像する以上に、大日本帝国が
「……そう。ピンときたんじゃないか? 三回目……日本において最後に大元帥明王法が執り行われたのは、太平洋戦争時だ。
「日本は敗戦したじゃないかって? いや、神風は……やっぱり吹いたんだ。米大統領ルーズヴェルトが終戦直前、突然死したのは有名だ。軍医の出した公式見解は病死だが……罹患中の病も持病もなにもなかったのに、誰も予期できない形で死んだことから、その死因は今に至るまで議論が起こっている。
「ルーズヴェルトは、呪殺された。これを単なる偶然と見ることは……兄ちゃんには難しかった。とはいえ当然、信じ難いのも事実だ。だが……その重要な記録を、ついに見つけたんだ。話が長くなっちまって
「名古屋の平和記念資料館で公開されていたある
「明王本尊
「
「これがその、和尚の写真と日誌のコピーだ。どうやらこの和尚は、修法に直接参加したわけではなく、視察かなにかに来たみたいだね。ここで注目してほしいのは、大元帥明王法は密教の術だが、その
「あの
「ヒドラは、全部で八体もいることになる。
「そしてヒドラは……俺には、
「整理する。大和には古代から、敵国を滅ぼすための呪術があった。それには三種の神器と、八つの土偶――
「九州にあった邪馬台国が、ライバルだった狗奴国を倒し……初代天皇であった
「
「熊本には、九頭八面の大竜が現れたという不可思議な
「八岐大蛇がその名の示す通り本当に八又だったなら、九本首になってしまう。つまり、九頭竜だ。九頭竜伝説は日本各地――いや世界各地に残っている。そして、九頭八面の大竜とは……九つの頭と八つの顔を持った竜という意味だ。だから俺は、八岐大蛇は、八つの又を持つ――九本首の竜だったと考えた。だが、熊本に現れた九頭竜には、八つの顔しかなかった――何かしらの理由で、八本首の姿で現れたんだろう――それが今に伝わる、八岐大蛇伝説だ。古事記等々には間違いなく、八本首だったと書かれているからね。
「世界各地で語られる九頭竜は、総じて不死身だった。ここからはさらに突飛な想像になるが……古代には本当に、九頭竜という不死身の化け物がいたと考えたらどうだ? つまりそれが、ドラゴンの正体だ。時代も国も違う人間が、ドラゴンや龍という、似たようなモンスターを生み出したのは……ドラゴンが――九頭竜が、実在したからだ。故に人は本能的にヘビを恐れ、あらゆる神話でヘビやドラゴンは悪の象徴――人類の敵とされた。
「あの土偶は……不死身の九頭竜を、古代縄文人が九つに分けて封印したものだ。縄文時代から畏怖されてきた
「しかし、
「今をもって不思議な
「卑弥呼の墓は、九州の宇佐神宮の地下にあるという説がある。それだけではなく、宇佐神宮は、裏伊勢神宮として古代から特別に信仰されてきた。……にも関わらず、祭神である
「封印された九頭竜のうちの八つは、今も皇室が所持しているのだろう。つまり、比良坂の娘が目覚めさせたアレは……ヒドラは……
「
* * *
揺れの中心地に近づいている――その実感が、心臓を打ち鳴らす。うるさいほどに――早鐘を打つように。
そこは、
レンガや焼き物の廃材が立ち並ぶ裏道。
学校と神社を結ぶ裏道。
坂道に差し掛かったとき、どん、と何かが肩にぶつかった。
「どけぇ!」
尻もちをついた僕は、自分を押しのけて走り去る、ヨレヨレの下着をまとった老人を見た。
血走った形相。
さらに、赤子を抱えた女が坂道を下ってくる。
坂道の上の方は、土煙が酷くて何も見えない。その中から、「逃げろ逃げろぉ!」と叫ぶ声だけが聞こえる。
真っ白な炎の柱が、爆発するように立ち昇る。
まだ、こんなに人が残っていたのか。
もう、近いのに。
すぐそこに、ヒドラがいるのに。
白煙が濃い――
その中に、何かがちらと見え、目を
黒い影が――大きな黒いナニカが、
瞬間、ふっと煙が
その姿が見えた。
坂の上からは、大きな
家屋や山より、ずっと大きい。
はるか天より首をもたげ、村を
大きい……大きすぎる!
一体どんな速度で成長すれば……これほどに……!
これは……化け物……化け物だ……っ!
いびつにそびえる灰色の角。
白い外殻は町を砕き、ひび割れ、中身が見えている。
赤黒く
その頭頂部に
勾玉が、燃えるように光を放つ。
――その姿を認めた瞬間、僕の口は考えるより早く叫んでいた。
「比良坂ぁ!」
ヒドラと比良坂が、僕を見ていた。
ヒドラの目は昏く、比良坂の瞳は冷たかった。
ぞくり、と全身を寒気が貫く。
半歩、右足が下がる――だがそこで、ぐっ、と脚を踏みしめた。
靴が砂利を鳴らす。
――もう、逃げない!
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