第4章
比良坂 恵 「母と」※挿絵あり
村役場の前を通るたびに、どうしても、考えてしまう。
この村を出て、自由に暮らしたい――と。
屋根にはトタンが打たれ、壁は白く塗られているが、木造の庁舎だ。
裏側に回ると、所々のペンキは禿げ、腐った木目が見えている。
舎内にはエアコンもなく、天井から架けられた扇風機がかたかたと震えているだけ。
見ているだけでも暑苦しくて、息が詰まりそうになる。
村の中心ですらこれなのだから、どうしようもない。
最近では自然のぬくもりや、風通しの良さを求めて、わざわざ都会に木造の住宅を建てたがる人もいるようだけど、私には、正気の沙汰とは思えない。
ただ、
それとも、最新の技術で建てられる木造住宅は、私の認識しているそれとは、似て非なるものなのだろうか。
物心ついた時からずっとこの村にいた私は知らなかった。
この村が、どれだけ異常なのか――外の世界が、どれだけ自由なのかを。
この村に、「個」はない。
あるのは「ムラ」という共同体――つまりはくだらないしがらみや伝統、家柄、血……だけだ。そこに、個人の「自由」は存在しない。
ヒトは、ムラを存続させるための生贄なのだ。
生きるか死ぬかの昔の時代ならば、それもわかる。そうしなくては、ヒト共々滅んでしまうのだから――有効な機能だったのだろう。
だけど、今は戦後も戦後――平成の世だ。来年は、21世紀だ。
そんな
監獄だ。
魔物だ。
ヒトを食って、意地汚く生き延びようとしている――旧時代の怪物だ。
哀を母に預けて、夫と二人で村を出ようと――何度、考えたことだろう。
そうこうしている内に、母は死んでしまった。さすがに未成年のあの娘を放っておくことはできないし――どうあれ、自分の娘だ。それは、できない。
どれだけ哀と、相性が悪くても――
不思議だ。頭の中で考えると、相性が悪い――その程度にしか、思えないのに。
いざ会うと――その姿を見ると――やることなすこと全てが
私は、異常なのだろうか――母親として、人として、異常なのだろうか……。
――いや、異常なのは、あの子だ。
――いや、もしかしたら……もっと早く3人で村を出て、外で暮らしていたら――あの子も、普通に育っていたのかもしれない。
あの子が異常に育ったのは――この村が、異常だから。
私が異常な母親になったのも――私たち家族が、普通になれなかったのも――すべて、この村が、おかしいから――
あったはずの幸せな未来は、この村に食われたんだ。
魔物……。
こんな村、潰れてしまえばいいのに……。
潰れて、壊れて、死んでしまえばいい。
この村は――魔物は、21世紀にはふさわしくない。
今すぐに、途絶えるべきなんだ――
庁舎の奥に、山が見える。
黒々とそびえる、邪悪な山々が。
あの山は、塀だ。檻だ。
私たち家族を閉じ込める――監獄だ。
――その時、地面が揺れた。
山が、揺れている。
塀が、崩れようとしている――
地震――?
地鳴りの中に、サイレンが響く。
庁舎に停めてあった一台の広報車の、ランプが赤白く明滅する。
スピーカーはけたたましく、何かを告げている。
震度? 震源地? 被害?
「こ、これは、訓練ではありません――」
広報車はうなりをあげながら、庁舎前の道路に出る。
スピーカーが叫んでいる。
「謎の巨大生物が移動中――」
山が、割れた気がした。
音が――揺れが近づいている。
膝が崩れる。バランスが取れない。
「ただちに屋内に避難し――」
庁舎の中央部が、歪んでいる。
みるみるうちにそれは膨らみ――亀裂を生じ――限界に達し――
庁舎が、弾け飛んだ。
「巨大生物が――」
爆風に、叩きつけられる。
目が、開けられない。
ストッキングを履いた脚に、つぶてが当たる。痛い。
叫び声が聞こえる。
轟音とサイレンの間を
指先が震えている。
喉はカラカラで、声も出ない。口だけが、ぱくぱくと動く。
――でも、
――目を開けなくては――死ぬ。
そう確信した私は、眉根に力を入れ、薄目を開いた……。
……煙の中からだんだんと、庁舎の影が見えてくる。
窓ガラスは粉々に砕け落ち、アスファルトがきらめいている。
トタンの屋根はひしゃげ、大きく折れた木材が、壁から突き出ていた。
剥き出しになった土壁は崩れ、砂煙を吹いている。
骨組みはばきばきに砕け、今にも潰れそうだ。
中心部の煙が
それは、ゆらゆらと、うごめいていた。
土煙の中から……朱い、光が見える。
山を崩しながら現れ――
庁舎を、その裏側から横断し、潰したそれは――
魔物だった……。
大きな、
庁舎を軽々と超えた高みから――その首をもたげ、私を見下ろしていた。
そう、その魔物は、私を見ていた。
――その頭頂部に、
そこにいたのは間違いなく――私の娘だった。
魔物の頭に、哀が埋もれていた。
その胸元には、勾玉が見えた。それは間違いなく、死んだ母のものだった。
勾玉は輝いて、揺れていた。
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