宗像奈美 Ⅱ(1999.7.1)「変な女」※挿絵あり

 血が、垂れている。

 その血は、猟友会の人のものだ。


 


 高く持ち上げられた化け物の――その口から、人がぶら下がっている。

 頭は潰れ、その顔は見えない。


 さっきまでのうめき声は、もう聞こえない。

 絶命したのだろうか。それとも、意識はあるのだろうか。

 頭蓋ずがいから溢れた黄色い体液が、首をつたい、血と混ざり、身体を流れている。

 月の光に照らされて、てらてらと怪しく輝いている。

 静かな、光景だった。


 私は、動けなかった。

 声も、出なかった。


 沈黙を破ったのは、警官だった。

 叫びながら、手を震わせ、ピストルを連撃する。

 空気が揺れ、はらの底に響くような銃撃も、化け物はまるでいとうことなく、捕食を続けていた。


 そして、


 猟友会の人を食い終わった途端、その鈍重な姿に見合わぬ素早さで警官を


 血が、頬にかかる。

 妙に、温かかった。



 化け物は、成長していた。

 いや、これは……成長なんて表現は似つかわしくない。


 、そう。大きくなっていた。

 大きく、巨きく、おおきく――

 高く、首を高く。空まで、月が見えなくなるまで――


 恐ろしいかたちの、真っ黒い影が、みるみるうちに私を覆っていく。

 


 こんなこと、あるわけない。

 


 でも、それなら、


「な……なして――」


  *   *   *


「熊本から来た、宗像奈美むなかたなみって言うばい! よろしく頼んばい!」


 教壇の上に立っている。

 隣には先生がいる。小学校の時の……そう、六年生の担任だ。

 教壇の前では、新しいものを見るような目で、生徒たちが私を見つめている。


 そう、私は六年前、父さんの転勤の都合で、東京の小学校に転校した。

 東京という都会への期待と、上手くやっていけるだろうかという不安で胸が高鳴っていた、転校初日。今でもよく覚えている。

 だって――



「ねぇ先生ー、熊本ってどこー?」


 手前の男子の質問に、隣の男子が「ガイジン? ガイジン?」とささやいている。

 何がおかしいのか、そのやりとりに周りがくすくすと笑いだす。

 連鎖するように、笑いだす。


「外国~?」

「アメリカ? アメリカ?」


 他の生徒も質問しだす。連鎖するように質問する。

 でもそれは、決して本当に疑問だから聞いたわけではない。ただ面白そうな流れに、その輪に、入りたかっただけだ。


「熊本は日本です! 九州! ほら、ちゃんと習ったでしょう?」

「でも言葉がヘンだよー」


 先生のフォローも、その連鎖には叶わない。


「普通じゃないもん!」

「変! 変!」


 東京での私は、だった。

 だった。


 私はそれが、その目が怖かった。

 その言葉が許せなかった。


 だから、私は――


  *   *   *


 さっきから――これは一体、何なのだろう。

 私は一体、何を見ているのだろう。



 校舎裏のヘチマ畑の影に、二人の生徒の影を認める。

 目が合ったと思うと、私のもとに駆け寄ってきた。


 真希まき八江やえだ。

 三年ぶりの、真希と八江だ。


 二人は私と家が近く、幼い頃から転校するまで、ずっと一緒に遊んできた。

 一番の仲良しだったから、転校した後もしばらくは手紙を送り合ったりもした。でもだんだんと間隔は開き……気づいた時にはやめていた。最後の手紙は誰だったのかも、覚えていない。

 だから、父さんの転勤が終わって、三年ぶりに熊本に帰ってきてから……ずっと不安だった。


 でもその心配も、杞憂だった。

 二人は三年前と変わらない顔で、表情で、話しかけ方で、私のもとに来てくれた。

 


 でも、


「わー、ナミ、久しぶりなー! 三年ぶりたい!」

「久しぶり、二人とも……」

「わぁ! 東京弁たい!」

「違うよ八江、標準語って言うたい」

「でも凄かぁ! 髪も染めちょる!」

安室あむろちゃんみたーい! 東京帰りの女は凄かねー、なんて!」


 私は――

 きっと、笑っていた。

 きっと少しだけ、顔をしかめながら――それを悟られないように、嘘くさく口角を歪め上げて――


「アンタたちも……いつまでもそんな、ダサい……変な方言使ってんじゃないわよ!」


 二人の顔は見ずに。

 三年前と変わらず、この村を囲うように――閉じ込めるように居座っている――黒い山々の影を臨んで言った。


「この村は……再来年から変わるのよ!」


  *   *   *


 今度は、なんだろう。

 いつだろう。


 ああ、やめてよ……。

 どうして、こんなものを……。

 つい、じゃない。

 見せられなくても、覚えてるわよ……。


 こんなものを私に見させようとしているのは、いったい、誰……?

 神様?

 いや、神様なんて、いるわけない。

 そんなバカなこと、あるわけない。



 「どこ行くの? 御神木おかもとくん」


 御神木くんを見つけて、声をかけた。

 校門から、神社への裏道に向かうには必ずここを通る。だから私はガードレールに座って彼を待っていたのだ。

 15分くらいは待っていたから、スカートが擦れて、白い粉と鉄粉がついている。

 それでも、構わなかった。


「ど、どこって……ひ、比良坂んところたい……!」

「……率直に言うわ。今日はやめてくれない?」

「……ハァ!? なして!?」

「邪魔だからよ」


 感情を出さないように……努めて声色を変えずに答える。


「……邪魔? 何の!?」


 御神木くんが声を荒げる。

 どうしてそんなに、怒っているのだろう。


 彼に向けていた目を一瞬伏せ、ちらと上方を覗く。


 カーブミラーがあった。

 雨跡やほこりでくすぶられているけれど、確かに私と御神木くんが一つの丸の中に映っている。

 それを確かに見たのちに、私は小さく口を開いた。

 今にも震えそうな声を押し静めて……。


「あいつは今日、三年の男たちに潰されるのよ」


 瞬間、御神木くんの目の色が変わったのがわかった。

 瞳孔が、針で打たれたように収縮して――怒っているのか、慌てているのか、驚いているのか……具体的にはわからないが――とにかく彼は、はげしく心を乱されていた。


 その反応が、私は恐ろしくて――一瞬、目を逸らし、

 カーブミラーを三度見て、

 でもやっぱりその反応が許せなくて――三度、彼の瞳を強く見据えた。

 そしてなにより、あの女が――比良坂が、一番許せなかった。

 

「どうして……御神木くん……」


 これを尋いたら最期ということは、わかっていた。

 それでも私は、もう我慢ならなかった。


「どうしてあんな、普通じゃない奴に構うのよ……」


 きっと、語尾は震えて……はっきりと、聞こえていなかったかもしれない。

 いや、むしろ聞こえていないでほしい。


 怖い。

 その答えを聞くのが。

 

 御神木くんは答えない。

 その沈黙がさらに怖くて、ついに、目を逸らす。

 思えば、こんなに長い間、彼の目を見て――いや、目を合わせ合っていたことは、今までなかったと思う。目が合っても、すぐに目を逸らしてしまっていたから。


 彼が私に、たまにおびえたように接することがあったのは、きっと私のそうした態度が、彼に不信感を与えていたのだと思う。

 ……でも、仕方ないじゃない。目がった瞬間に、怖いくらいに恥ずかしくなっちゃうんだから。


 御神木くんはその優れた家柄にふさわしい、文武両道の生徒だった。

 でも、ずば抜けたはなかった。だから、不思議とクラスで目立ってはいなかった。もっと、目立っていいはずなのに。


 それでも、それはそれでよかったのだ。

 私だけが、彼の魅力に気づいている……そんな歪んだ優越感が、少しだけ、心地よかったから。

 それになにより、もし彼にずば抜けた何かがあって、クラスで目立つ人物であったのなら……私はここまで、彼に惹かれてはいなかっただろうから。


 一度に気づいてしまうと、それはもう、大変だった。

 気づくと、目で彼を追っている。

 朝起きた瞬間から、夜、寝る前まで、頭から離れてくれないのだ。

 どうしたら彼と会えるだろうか……接点を持てるだろうか……自然に話せるだろうか……そんなことばかり、考えてしまう。


 彼は、だった。

 そして、私のだった。


 でも、あのヘビ事件――比良坂が起こした気持ち悪い事件があったあの日から、彼は変わってしまった。

 それはきっと、私ぐらいしか気づいていない、小さな変化。でも、毎日彼を見ていた私なら、すぐにわかる変化だった。


 御神木くんは、どうして、あんな奴を――



「普通じゃないとこに……惹かれたからたい……」



 御神木くんの答えを聞いて、

 私の世界は終わった。



 風が、強く吹いている。

 カーブミラーから、やがて、御神木くんの姿が消え――

 ミラーには、私だけが残っていた。


  *   *   *


「なして――」


 風が、強く吹いている。

 化け物が――大きなおおきな化け物が、

 星も、月も、夜空もすべてが化け物で、覆いつくされて――


……? 御神木くん……」


 不思議と、怖くはなかった。

 だって、もう、私の世界は終わっていたから――

 ただ、最後に――最期に、もう一度、御神木くんを、

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