御神本 往人 Ⅹ(1999.7.1)「オロチ」※図版あり

 逃げてしまった。

 逃げてしまった。

 逃げてしまった逃げてしまった逃げてしまった!


 まだ、手が震えている。

 頭が痛い。

 血の匂いが鼻腔びくうに残っている。

 気持ち悪い。


 家の中はエアコンも扇風機もついていなくて、蒸し暑かった。

 兄ちゃんもいない。みんな、どこかに出かけたのだろうか。


 じんわりと暑くて、汗が背中をつたうのがわかる。

 それなのに、震えが、鳥肌が止まらない。

 寒い。


 やっぱりヒドラは……蘇らせてはならなかった!

 ヒドラ……あの、……。

 !?


 兄ちゃんの言ってたヤマタノオロチ……いや、九頭竜と関係があるのか?

 兄ちゃんは、ヤマタノオロチ伝説の本拠地はここ九州にあると言っていた……。

 ……?


 その時、一冊の本が目についた。

 天井まで届きそうなほどにうず高く並んだ本棚。兄ちゃんの蔵書の一つ。

 普段なら、目にもとめない、何気ない学術本の一冊。

 だが、そのタイトルが――僕の目を惹きつけてやまなかった。


 『オロチを巡る対立』


 気がついた時、僕はその本を既に手に取っていた。

 レーベルは、〈ワイド版 民明文庫〉。B6判の高価な文庫。兄ちゃんが何冊か持っている学術本のシリーズの一つだ。

 上辺にほこりがかかっていない。最近、読んだ本なのだろうか。

 表紙には、宗教画のようなイラスト――たしか、聖書のアダムとイブだ。

 ヘビがイブをそそのかし、禁断の知恵の実を食べさせようとしている――〈失楽園〉の一枚だ。


 著者名は……稗田礼次郎……。知らない名前だ。

 カバーの著者近影を見ると、考古学者のようだ。なんとなく、歌手の沢田研二に似ている。


 適当に、ページをめくってみる。


 に、目がとまる。


 それは、ヤマタノオロチだった。

 いや、キャプションを見るとどうも違うらしい。

 仏教における、ナーガという蛇神らしいのだが……その姿は、まるでヤマタノオロチのように何本もの首を持っている。

 見出しには、「多頭竜について」とある。

 適当に、目を走らせる。



 ――欧米における〈ドラゴン〉、中国における〈リュウ〉や〈タツ〉、日本における〈大蛇オロチ〉……

 ――最古の文明 シュメールの時代から、世界中で語られる、空想上のモンスター。

 ――どうして時代も国も違う人間が、ドラゴンや龍という、似たようなモンスターを生み出したのだろうか?

 ――ドラゴンの正体は、いったいなんなのか? それとも太古に実在したのか?

 ――その謎に挑んでみようと思う。


 ――ここでは総称してその存在を、〈オロチ〉と呼ぶことにする。

 ――オロチは、基本的に人類と敵対し、神話などでは恐るべき討伐対象とされた。

 ――この扱いは、今のテレビゲームでも同様である。

 ――さらにキリスト教では、悪魔デーモンの姿そのものとされた。

 ――オロチは、人類の敵である。

 ――だが、その強大さ故におそれられ、多神教国家や非善悪二元論の宗教においては、信仰の対象となることもあった。


 ――例えば、インド神話における最大のアスラ……ブリトラは大蛇の怪物だが、仏教では蛇神〈ナーガ〉として神聖視された。

 ――南インドやラオスでは、七つの頭を持ったコブラのようなナーガ像をいたるところで見ることができる。

 ――また縄文時代から続くと言われる、日本のアラハバキ信仰も、蛇神信仰の一種とされる。

 ――だが、ここで興味深いのは、唯一与えられたアラハバキの姿が、縄文土偶そっくりであるということである。


 ――なぜ蛇神が、人型の縄文土偶で描かれたのか? それは大いなる謎である。

 ――ただし、アラハバキを縄文土偶で描いたとされる、現状の初出稿本は、その出自に怪しい点がある。そのためアラハバキ=縄文土偶とただちに認識するのは危険である。



 縄文土偶が、蛇神……?

 縄文土偶は、たしか豊穣を祈った女性の人形だと、授業で習った。

 だが、今思えば……ヒドラは、土偶に封印されていた。

 間違いない。遮光器土偶のようだと、印象を抱いた覚えがある。

 そして、比良坂が――いや、比良坂の祖母が持っていた勾玉が光り、それに共鳴するように、土偶が割れ……中からヒドラが現れたのだ!



 ――オロチ……その正体は、ヘビが神格化されたものと言われている。

 ――大蛇は言わずもがな、ドラゴンも、龍も、竜も、元はヘビである。


 ――人類は古来より、本能的にヘビを恐れてきた。

 ――これは今まで、単純に見た目が不気味だから、毒を持っているかもしれないから、経験的に恐れるのだと言われてきた。

 ――だが、京都大学の正高信男教授の実験により、奇妙な結果が得られた。


 ――なんと、ヘビを見たことがない幼児でも、複数の写真の中からヘビだけは素早く恐怖の反応を示したのだ。これは、ヘビへの恐怖心が、本能に基づくことを示すという。

 ――知識も経験もない赤ん坊ですら反射的に恐怖する存在。それがヘビである。このような例は他にはない。


 ――では、なぜ人間はヘビを恐れるのだろうか?

 ――一番に言われるのは、毒である。毒を避けるため、ヘビを避ける本能がある、という。

 ――だが、実は毒ヘビは世界中に3000種ほど生息するとされているヘビ亜目のうち、約25%ほどの種に過ぎない。

 ――これならハチやクマだって本能的に恐れてよいはずである。だが、そういったデータは得られない。

 ――ヘビは、古代の人類にとってな恐怖の対象だったのだろうか。


 ――聖書においてヘビは、人類が知恵の実を食べるようにそそのかし、楽園から追放させた、悪魔の使いである。

 ――ヘビは古代の人類に、いったい何をしたというのだろうか。



 ――そして神話や伝説で語られるオロチやヘビの能力といえば、毒よりも、その生命力に特筆すべき点がある。


 ――ヘビが自らの尻尾をくわえた〈ウロボロスの輪〉は、無限大記号〈∞〉の由来になったともいわれる有名な図案である。

 ――無限のとおり、ウロボロスは不滅を表す。


 ――ギリシア神話における医術の神〈アスクレピオス〉の杖には、ヘビが絡み合っている。

 ――この杖の図案も、欧米では医のシンボルとして世界保健機関や米国医師会等のマークに使われている。

 ――以上からもわかるように、蛇は古来より生命力の象徴とされてきた。


 ――だが、今回特に注目したいのは、多頭竜である。

 ――多頭竜とは、その名の通り、多くの頭(首)を持つオロチのことである。

 ――多頭竜もまた、ドラゴンや龍同様に、世界中で生み出されたモンスターである。



 ――インド神話における千本首の原初の蛇〈アナンタ〉が、無限を顕し、


 ――無数の蛇を頭髪とするギリシア神話のメドゥーサの血は、死者を蘇らせ、


 ――旧約聖書に登場する7本首のレヴィアタンは、不死身にされたように、


 ――インド神話で災いを成す暗黒星〈ラゴウ〉が、不死となった9本首の蛇神であるように、


 ――ギリシア神話の9本首の竜〈ヒュドラ〉が、不死身であったように、



 ――



 ――頭から生えた無数の触手が、まるで多頭竜のように見えることから、ギリシア神話のヒュドラを想像させ、〈ヒドラ〉と名付けられた淡水産の小さな無脊椎動物がある。

 ――このヒドラは近年、強力な再生能力をもっていることが研究によって明らかにされた。

 ――体をいくつに切っても、それぞれが完全なヒドラとして再生するのだという。


 ――この一致は、偶然なのだろうか?

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