比良坂 哀 Ⅸ(1999.7.1)「死」※挿絵あり


 耳に残るはげしい音――それを認識した瞬間、私の視界は赤白く反転しました。


 ヒドラの頭が――白い仮面が裂けて、割れて――赤い、血が――


 


 を、直観的に振り向きました。


 ――ナミが、

 ナミがいました。


 いや、ナミと、猟銃を持った男――そして、警官――

 ナミが指を振り上げ、何事か、叫んでいます。

 なんだか時が止まったようで――ひどく、に見えます。


 その叫びが、「殺して」と言っていることに気づいた時、弾丸は既に私とヒドラを捉えていました。


 警官が、なにか叫んでいます。


「待っ――」


 死、ぬ。



 私は、跳ね飛ばされていました。

 弾丸に?

 ――いや、ヒドラに。

 ヒドラの首に!


 だって、弾丸は――ヒドラの脳髄を正確に、射抜いていたのですから――

 狙ったのは、きっと、その腹だったのです。

 ヒドラは腹から放たれた私を守るために、私を、その頭で――


 そこから先は、よく、わかりません。

 草の上に投げ出されて、月夜しか、見えなくなってしまったので……。


 もう一発、はげしい音がしました。

 そんな、気がします。


 ――ちょっ、ちょっと! あんた、なに勝手に……

 ――問題になりますよ!

 ――うるせぇ! 人ば殺されちょるんやぞ! ありゃ紛れもねぇ、害獣たい!


 誰かの、声が聞こえます。

 うるさい、声です。

 ナミの声は、聞こえません。

 いったい、誰なのでしょう。

 ああ、さっきの猟銃を持った……きっと猟師でしょう。似たような服装の猟師とすれ違った覚えがあります。

 もう一人は、警官です。眼鏡をかけた……西のバス停の前にある交番の人です。

 ナミの声は、聞こえません。

 

 星一つない夜空。

 真円の白い月。

 白い炎。

 ゆらゆら、ゆらゆらと――


 ヒドラの声が、聞こえません。



 ヒドラ?


 くっ、と首だけを引いて、自分の胸と脚の間に、私はようやくヒドラの姿を認めることができました。


 動かない体躯たいく。吐き出された黒い血。あふれ、流れ出たその胎内たいない

 私の身体くらいもある、ふさ状の内臓器官が、血にまみれ、草地にこぼれ出ていて――


 瞬間、時間の感覚が、元に戻りました。

 全身の血の気が、退いたようでした。


「ヒドラ」


 網膜に張り付いた、ヒドラの屍体。


「ヒドラぁ!」



 しがみつくように駆け寄ったヒドラの身体は、うなだれたように黙っていました。

 その時、ゆっくりと、首がわずかに持ち上がり――私の方を見返しました。


 


 言葉はなく、えぐれるように裂けた口からは、ただただその血が溢れるばかり。


「なして……なして……」


 首を支えていた力は、無くなり、


「一緒にいたかっただけなのに……一緒に生きたかっただけなのに……やっと、やっと気づいたのに……」


 視界が涙でうずもれて、ヒドラの姿が見えません。


「全部、全部……私んせいで……ごめんね、ごめんね……! ヒドラ……!」


 身体の脈動は見る見る間に弱くなり、その間隔は、どんどん遠ざかって、


 ヒドラが、ヒドラが、死んでしまう……。

 早く、お医者さんに……、ヒドラが、死んでしまいます……!

 ああ、

 

 指先が、チリチリします。指と指とを合わせると、血で滑っていました。

 ヒドラはもう、動きません。

 舌先が、ピリピリします。痛い。喉の奥も乾いています。

 もう、動かないのに。身体に空いたあなからは、未だとどまることがなく、体液が、流れ出ています。

 目の奥が熱くて、ヒドラの身体が熱くて、眼の前が真っ暗で――私の世界は、終わったのです。



 月の高い、静かな夜。

 あおい、蒼い夜でした。

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