御神本 往人 Ⅸ(1999.7.1)「ヒドラ」

 耳に聞こえた微かな叫び。それだけを頼りに、奥へと進む。

 寄り分けた枝が腕を引っく。

 固い茂みが足を遅れさせる。

 それでも、

 それでも、前へ。


 

 神社には――洞窟には、比良坂は、いなかった。ヒドラもいなかった。

 

 いや、正確には小さな女の子が一人――迷子だったのだろう、泣いていて困っていたのだが――母親とおぼしき人がちょうど現れ、事なきを得た。

 だが、こちらの問題はなにも解決してはいない。

 今日は洞窟に――ヒドラに会いに、行かなかった?

 家に帰ったなら……きっと無事だろうし、それでいいのだが……。

 だが、ヒドラも居なかったというのはおかしい!


 ヒドラの居場所は、にしかないのだから……。


 あてもなく、数分間ふらふらと洞窟の周りをうろついていた時のことだった。

 森の奥の方から……かすかな、叫び声のようなものが聞こえたのだ。

 

 それが僕に残された、最後の手がかりだった。


   *   *   *


 「ひっ」という短い叫びが後ろから聞こえ、ふっと顔を向けた。


 ナミだ。

 足が止まり、顔が引きつっている。

 おおかた、茂みか何かにスカートを引っ掛かったのだろう。道の整理されていない山中は女子には辛い道程だ。僕だって辛い。

 若干の同情を感じつつも、元はと言えばナミの差し金なのであり――手を貸す義理も、心を寄せる必要すらなかったのだが……。

 そもそも彼女は、何を目的に、ここまでついてきたのだろう……。


「お、かも、と、くん……」


 ナミの声は、風のようにかぼそかった。

 ――その目は開ききっている。


 なにか、だ。


 を、見ていた。


 つられるように、僕も横を向く。

 木々が乱立していて、目が滑る。焦点が合わない。遠近感がつかめない。

 まるで錯覚を起こさせるイラストを見ているようだった。


 だがそれでも、そのは、一目でわかった。


 僕の足は自然と地を蹴り、に向かっていた。



 ――赤黒い血が、枯草の上に広がっているのが見える。

 瞬間、生暖かい空気が地肌に触れる。それはまるで人肌で、温めたような……。


 独特の鉄臭さと腐臭が鼻につき、即座に息を止めた。

 。これは、吸ってはいけないものだ!

 本能で、そう感じた。


 そしてそのまま、一歩ずつ、歩を、進める。

 仰向けに転がっていたのであろう――何人分のものなのかも分からない、その死体は――やたらめったら食い散らかされたように――皮は裂け、肉ははじけ、骨は突き出で、腸は流れ出していた。

 切断面からは未だ絶えることなく、血がき出ている。

 どくどく、どくどくと。

 

 正視に耐えぬ惨状。地獄絵図。

 それでも僕の眼は釘付けにされ、から、らす事ができなかった。

 肉片と肉片の間に転がる靴や衣服から、自分と同じ学生だとわかったからだ。


 ――そう、彼らは、比良坂を襲おうとした上級生だった。

 間違いない……そう確信した瞬間、僕の脳裏で白黒が反転し、時は百分の一まで圧縮された。

 今までのあらゆる記憶が――ヒドラに関する記憶が――ここ数週間の記憶が、濁流のように渦巻いて、立ち昇り、そして、消えてゆく……。


 ――この子は……ヒドラは……、私が…… 育てるたい

 ――恐怖の大王って本当に来るんかなぁ?

 ――ヘビと喋っちょる!

 ――比良坂は……日本最古の血を継いでる一族ってこったいね?

 ――俺は、大分県の宇佐神宮の地下にあるとされる古墳こそ、卑弥呼の墓だと睨んでいる。

 ――生首蛇!?

 ――九州にはナニカがある!

 ――かわいいなーヒドラー

 ――神武東征は……知っているか?

 ――ギリシア神話のヒュドラも九頭竜の一種と言えるだろう

 ――ノストラダムスの大予言!

 ――ヤマタノオロチの首は……何又だ?

 ――ここ神瀬村は、熊本の……球磨郡の……熊襲の……狗奴国の……いや、原日本人の……聖地なのかもしれない

 ――1999年に人類は滅亡する!

 ――九頭八面の大竜が現れたというんだ

 ――ヒドラってな、不死身の生物なんよ……

 ――だから……必ず……私ん元に戻ってくると……


 記憶が、洗い出されてゆく。


 自分の意識が、思考が、認識が、把握できない。

 まるで、自分の頭ではないみたいだ……。


 ――だから、

 自分でも知らないうちに、口から言葉が漏れていた。


「まさか……、


 ナミがゆっくりと、僕の方を向く。


「……? なによ、それ……」


「例の……生首蛇たい……!」


 ナミの目の色が、変わった。

 口を小さく開くも、声はしばらく出ていなかった。舌がもつれてしまったのだろう。


「……そ、」


 はじめの一音を絞りだし、声を荒げる。


「そんなの! いるわけ、ないでしょ……! クマか何かに決まってる……」


 その目は下を向いている。

 僕は、何も応えられなかった。


 頭がくらくらする。目眩がする。

 気持ち悪い。耳鳴りがする。

 血の匂いに、酔ったようだ。


「わ、私は、猟友会の人に連絡してくるから……! 御神木くんは――



 ――だから、彼女の言葉は、途中から耳に届いていなかった。

 ただ、気づいた時には、視界からナミの姿は消えていた。



 そして、僕は――

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