比良坂 哀 Ⅶ(1999.7.1)「ヒーロー」

 血気けっきづいた腕で、押し倒されました。

 枯れ枝が肌にこすれ――痛みが走ります。


 目を開けると、覆いかぶさった男の後ろに、空が見えました。

 もうすぐ、夕暮れです。

 木々の葉々が影になり、がさがさと音を立てています。


 ここまで林の方まで来たら……ヒドラには聞こえないはずです。


 なんだか頭が、妙にえています。


 頬が、冷たい。

 濡れて、

 これは……?


 冴えているのに、冴えているはずなのに、わかりません。

 涙?


 どうして私は、泣いているのでしょう?


 これは私の涙?

 それとも、眼前の男の、汗?


 男。

 男が、

 男が!

 気持ちの悪い男が!


 声が出ない。気持ち悪い。怖い。

 どうして、どうして、私が――


 息がかかる。気持ち悪い。

 目が濁っている。気持ち悪い。

 黄色い前歯が汚らしい。気持ち悪い!


 ――私は、あの子が、理解できない……!


 これは、誰の声?

 わからない。


 ――気持ち悪かー


 男の指が左胸にめり込んで、痛い。


 ――普通じゃないくせに……


 担当が私の制服を破る。

 おばあちゃんに買ってもらった、白い制服。


 ――たまに、気味が悪いのよ……あの子……っ


 鎖骨を男の舌が回る。

 感覚がない。


 ――普通じゃないんよ!


 太ももに押し込むようにれられた男の脚が、動いてずれるたびに、肉を挟む。

 痛い。


 ――オマエ、どがしこ嫌われてっど?


 耳鳴りがする。

 何も聞こえない。


 ――アンタさえ、いなければ……!


 さっきから、うるさいのは、誰。


 ――本当、どうして、あんな子が……


 私は。


 私は、意味のない肉人形だ。

 それでも、不思議と、涙だけが頬を伝う。

 いらない、いらないのに!



 もう、どうでもいい……。

 ヒドラには、あのがいる……。

 死のう、

 一人で。

 もういい。

 今夜、

 死のう。



 でも、はやく、

 はやく、終わって!



「たす、け


   *   *   *


 金切り声。

 衝撃。赤い血。

 吹き出している、男の頭、

 に食い込む白い歯牙しが。ヒドラ、でした。



 「ヒドラ!」


 眼前の男は地を吹き出しながら、弧を描くように、そのまま真横に倒れ込みました。

 突如として飛び込んできたヒドラに、頭をのです。

 その瞬間は、まるでスローモーションのように私の網膜に映りました。

 男の右腕からは短刀が離れ、カン、と音を立てて地に落ちました。

 枯れ葉の中に埋もれていた石に当たったのでしょうか……その短くも高い音が、いつまでも耳の側で鳴り響きます。

 

「……うげェ!」

「なっ、なんね!?」


 他の二人の男は、突如現れたヒドラと、血を吹いた男にひるむように、二、三歩後ろに飛びのきました。しかし、当の倒れた男は目を上にいて、肩を立て……よろめきながらも泰然たいぜんと、立ち上がったのです。

 しっかりと、短刀をその手に握り直して――


「殺して、やんよ」


 瞳に血が入るのもいとわないかのように――まるでナニカが取り憑いたかのように――地を、ゆらりとヒドラに振りかざし、

 ヒドラの肉が、裂けました。


「ヒドラっ!」


 ヒドラの絶叫。

 男のナイフは未だヒドラの肉を断ち、白と赤の混じった体液が噴出しています。

 みるみるうちに中から繊維と骨のようなモノも飛び出してきて――



 


 なにが、起きたのでしょう。

 ヒドラの裂けた胎内からは、血にまみれた白い触手のようなモノが無数に突きで――男の顔という顔を、頭蓋ずがいという頭蓋を、眼窩がんかを、口を、貫いていました。

 男のから漏れている、白や黄色く濁った、どろりとしたモノは――ヒドラの体液なのか、それとも男の脳髄なのか――それは私にはわかりません。

 ただその瞬間、全ての音が止まって――そこにいた者全員、時が止まったように硬直していたことだけがわかりました。

 静止した時の中で、ヒドラだけがゆるりと動き、触手を男から抜き戻しました。

 触手にはまるでが付いているかのように、男の脳髄を引きり出します。


 頭の潰れた男の首は、その損壊そんかいに耐え切れず、ぐしゃりと潰れてしまいました。

 噴水のように、血を咲かせて。


 脳を失い、弛緩しかんした男の手からは短刀が落ち――再びカン、と音を立てました。

 その音で私たちは一度に我に返り――そのを、やっと把握したのです。


「あ、あ、」


 可哀相に――男たちは叫び声もロクにあげられず、ころげるように逃げ出しました。

 ヒドラの触手は血と脳髄をまき散らしながら、縄のようにヒドラのもとに戻ります。そして裂けた胎内に再び格納されると同時に――ヒドラの口元が、めりめりと裂け始めました。今まで見えていなかった奥の歯が、ぞろりとその姿を見せます。

 黒い血に、まみれていました。


 ――次の瞬間、ヒドラは物凄い勢いで転げる彼らに飛び突いて――それはまるで、バネ仕掛けのおもちゃのように――そして、凄まじい断裂音が響き渡りました。

 限界まで引き伸ばされた筋肉と皮膚が、弾け切れたような音でした。

 そしてヒドラはそのまま――二人の身体の上半分を、のです。


 

 ヒドラは何も言いません。

 顔も向けてくれません。

 ただ壁の方を向いたまま、と、どろどろになった男たちの肉塊を口からこぼしつつ、むさぼっていました。


 この時初めて、私はようやく気づいたのです。

 ヒドラは、

 ヒドラは私の、ヒーローだったのです。

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