第3章
比良坂 哀 Ⅵ(1999.7.1)「独り」
忘れ物がないかを確認して、洞窟に入りました。忘れ物とは、お手玉と竹とんぼ、それに今日のお弁当のことです。
これらはお祖母ちゃんの家を整理していた時に出てきた、お手玉に竹とんぼ、それに
だから一旦、私の部屋に置いておいたのですが……今朝、ふと思ったのです。
ヒドラと一緒に遊べるのではないか、と。
もちろん、器用にお手玉を回したり、竹とんぼを飛ばすことはできないでしょうが――ほら、犬を飼っている人はボールでよく遊んでいますし、空を舞う竹とんぼは、猫にとっての猫じゃらしのようなものになるかもしれないと――そう、思ったのです。
外で遊ばせてやることができればいいのですが……それは今のところ、叶いそうにもありません。ならばせめて、洞窟の中でのヒドラにとっての楽しみを用意してあげないと、可哀想ではありませんか。
そうして見ると、毎日の生活に新たな視点が加わったような気がします。
ヒドラと一緒に遊べるモノは、まだまだそこら中にあると思います。
例えばご飯だって、何ならヒドラが喜んでくれるのか、どんな栄養が必要なのか……といったことを考えながら作るようになりました。
そして、夏です。
夏休みです。
私にとって、夏休みというのは今まで全く嬉しくもないものでした。一緒に遊ぶ友達もいませんし、家にも居場所はないからです。
ですが、ヒドラと一緒なら……なにか、なにか楽しみが見つかるかも、しれません。
そういえば、ヒドラは暑さや冷たさは感じるのでしょうか。もし感じるのなら、真夏にアイスを持っていったら、喜んでくれるかもしれません。なにせ、今までに食べたことのない食べ物のはずですから。
アイスに初めて口をつけるヒドラは、どんな反応をするのでしょう……。
それを考えるだけで、今から夏が少しだけ、楽しみになってきました。
――そしてその時、私は気づいたのです。
朝から晩まで、ヒドラのことを考えていることを。
寝ても覚めても、ヒドラのことばかり考えていることを。
* * *
――
人工の光!
なんということでしょう!
ついに、誰かが! 洞窟の奥に!
確かにあそこには、ヒドラと一緒にいるときのために、小さな灯り――
ですが、ヒドラはそのスイッチを入れることはできません。
つまり、少なくともあそこに誰か人がいることは、確実なのです。
ついにこの時が、来てしまったのです。
……どうしましょう。
……いや、もしかしたら、ただ人がいるだけで、ヒドラはまだ見つかっていないのかもしれません。
……とにかくできるだけ近づいて、様子を――誰が、何をしているのかを――見極める。それが、先決です。
歩を進めるにつれ、人の声――と、ヒドラの声が聞こえてきます。
やっぱり、誰かいる。ヒドラがいる!
――そこにいたのは、一人の、女の子でした。
小学生……低学年……くらいでしょうか。
小さい、女の子……と、ヒドラ……。
女の子は……ヒドラの首を、抱きしめるように密着しています。その顔は、笑顔で……、ヒドラも、とくに嫌がっている様子は見えません。
むしろ、楽しんで、喜んでいる、ような……。
どういうこと、なんでしょう……いったい、これは……。
とても、幸せそうな……二人だけの、空間。
二人は互いに、お互いに夢中なようで……私に気づく様子はありません。二人の空間という空間は、お互いで満たされて……きっと隙間がないのでしょう。
いえ、距離のある、岩陰から覗くように見ているので……当然といえば、当然なのですが……。
その時ふと、思ったのです。
今ここで、ヒドラの名前を呼んだら……ヒドラは、どんな顔を見せるのでしょう。
ねぇ、ヒドラ……私は、どうしたら……。
――ああ、女の子が、小さい手のひらでヒドラの頭を撫でて……温かくぬめる、その肌を……。
ああ、なんということでしょう……。女の子は、ヒドラの頭の、角を……、私が触ったときは、とても嫌がっていた、あの、角を……。
ヒドラは、柔らかく表情を崩し……嫌がる素振り一つ、見せる様子はありません。
――ああ、そういうことだったのですね……。
視界が、くらくらします。
――そうです。ヒドラが私に懐いていたのは、お弁当を……エサをくれるからに過ぎなかったのです。
視野の端が、だんだんと暗くなって……何も、見えなくなるようです。
――ヒドラにとっては、私は。私なんて、
息が、
声が、
出ません!
誰かの、手! ……が、大きな、手が……私の口元を、後ろから、突然……!
肩からも大きな腕が伸びていて、まるで、締め上げられているようです!
いったい、誰が――何が――!
足が、引き
ヒドラ、ヒドラが……離れて、
* * *
私は、三人の男子生徒に
一人は後ろから両手を伸ばし、脇から締め上げ……もう一人は片手で口を抑え、もう片方の手で手首を固く握っています。
逃げられる気配はありません。
手前の男が主犯格……いや、リーダー的人物なのでしょうか。折り畳み式の短刀を携え、ニヤニヤと
「おい、けっこーかわいかね?」
「えぇ、そっかァ?」
口元を覆われた手は汗をかいているのか、いやに酸っぱい臭いがします。
口を開こうとすると、そのぬめった汗が口中に触れ……それは不快な味がしました。
「しっかしオマエ……どがしこ嫌われてっど?」
――嫌われている?
面識は……ないはずですが、制服――だいぶ着崩してはいますが――から察するに、きっと、同じ学校のはずです。
そしてもちろん、こんなことをされる
「ナミもありがてぇぜェ」
……ナミ。
私はいったい、彼女に何をしたというのでしょう。
何がここまで、彼女の気に触れたのでしょうか。
おねがいします。
誰か、教えてください。
私はただ、もう、ヒドラとさえ、一緒にいられれば……。
――いや、ヒドラも、本当は、私のことなんて……。
ひとりぼっちは、私だけ――
「騒いだら殺すぞ」
リーダー格の男が、ナイフの刃を喉元に突きつけます。
ひんやりとした刃の感触が、薄い首の皮膚を
それと同時に、一人が口を覆っていた手を外しました。
洞窟内のひんやりとした空気が、肺に吹き込まれます。
そして男は……黄色い不揃いな歯を
目は、濁っています。
……気持ち悪い。
「それじゃあ……!」
声とともに、動き――
一人が両腕を抑え、片足を股に通し――バランスが崩れ、背中がふっと宙に浮きました。
顔が、恐ろしく、気持ちの悪い、獣のような顔に、変貌して、
――ああ!
「まっ」
――私は今から……!
「待って!」
気づいた時には、口から声が漏れていました。
突き付けらえた短刀は、まだ、肉に入ってはいませんでした。
男が、無言で私に問いかけます。
私は一瞬目をつむり、
「さ……騒がんから、場所を……変えてほしいの」
声が、全く出ないのは……短刀が怖いからでしょうか。
いいえ、きっと、違います。本当に怖いのは、短刀ではなくて……。
「ここは、好かんと……」
男は一瞬固まったように目を丸くしていましたが、すぐに今までの座った目つきに戻り――黄色く汚れた歯茎を再び見せ、気持ちの悪い笑みを浮かべ、こう言いました。
「クック……良いねぇ、ノリノリじゃねェの……」
屈辱と恥辱。
恐怖。
ナミから受けた、様々な仕打ち……。
それでも、こんなことは……!
それでも、この、少し奥には、ヒドラが、いるのです。
何も知らず、女の子と
そして彼らも、何も知らないのです。
そして何より、ヒドラには、絶対に……こんなこと、知られたくはないのです!
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