転章
転(1999.7.1)
「一人、一万円……」
「一人一万円出すから、今日、あいつをやってほしいのよ……」
今は使われていない旧館の教室では、机は窓際にまとめて並べられ、その上に椅子が積まれている。その椅子の上に、奈美は脚を組んで
背中からは真っ赤な西日が差し、机の足と奈美の影を教室に伸ばす。綺麗にカールされたブラウンの毛先は、夕日の粒子が溶け込んだようにきらめいた。顔は逆光に晒されて、その表情には深い影を落としている。
その姿はさながら、旧館の女王と言えた。
女王にひれ伏すように、奈美の眼下には三人の男子生徒が
彼らは一様に口角をヒクつかせ、不気味な笑みを浮かべていた。夕日を受けて、濁った瞳が妖しくギラつく。
「放課後、つけていけば……きっと、神社か洞窟に向かうと思うわ。そこなら人目もないから」
怖いくらいに真っ赤な夕日だった。
溶岩の赤を、そのまま流し込んだような空だった。
* * *
「ママー……」
返事はない。時折、鍾乳石から雫の垂れる音がするだけである。
「どこぉ……」
真子とその母親は、
拝殿に
「いい子だから、少しの間、待っていておいでよ」
そう言って自分の頬を真子の頬へこすりつけ、鳥居の方へ向かった。鳥居を出て、また再び鳥居の奥へ進み、拝殿で詣でる。これを百回繰り返すのである。
あらゆる頼みの綱を絶たれた彼女には、あるかもわからぬ神仏に頼る他なかったのだ。
だから、無我夢中で神社を行ったり来たりした。お百度参りに専心した。
だから、いつの間にかいなくなった真子に気がつかなかったのも、仕方がないことなのである。
真子は拝殿の奥に続く洞窟を、奥へ奥へと進んでいった。
それは、闇の中に消えた父親の影を見たからなのかもしれないし、子供らしい好奇心によるものなのかもしれなかった。
そして深奥の少し
「パパ……パパぁ……」
真子は、自分を置いていった父親を呼んだ。
恐怖と心寂しさで、真子の胸はきゅぅと縮んだ。
足は一歩も動かない。
――瞬間、足首をぬるいナニカが触った。
全身を、貫くようなおぞけが走った。喉は詰まり、声は出ない。
それは、生暖かい空気だった。
ぬるい空気の流れてきた方に、顔を向ける。
そこには岩壁があるばかりで、何もいないはずだったが……目を
――ナニカが、いる。
それは間違いなく、生きているものの気配だった。
「……パパ?」
真子は手を伸ばす。小さい小さい、無邪気な手のひらを……。
――ナニカは、濡れていた。
表面はどろりとしていた。
それは、今までに感じたことのないおぞましい手触りで――こんなのが、父親であるわけがなかった。
ナニカの顔が、ぼんやりと見える。
だがその顔には、ぞろりと並ぶ歯と口があるだけで、他には、何もなかった。
目も、鼻も、耳もなかった……。
「ひっ」
真子の心は、張り裂けた。
* * *
「どこ行くの?
呼び止められたことに気づき、御神木は足を止めた。
奈美だった。
白いガードレールに腰を掛けていた。紺のミニスカートが擦れて、白い粉と鉄粉がついている。奈美は気にしていないようだった。
ガードレールの
その瞳に
「ど、どこって……ひ、比良坂んところたい……!」
「……率直に言うわ。今日はやめてくれない?」
「……ハァ!? なして!?」
御神木の声は震えていた。
喉が妙に乾いている。背中に
奈美は表情一つ変えず、まばたき一つせず、御神木を捉え続けていた。
御神木は、自分がどうしてこんなにも奈美に
「邪魔だからよ」
声色一つ変えずに、奈美は
「……邪魔?」
「何の!?」と御神木が
そして御神木を捉え続けていた目を一瞬伏せ、ちらと上方を覗いた。
目線の先には、カーブミラーがあった。
雨跡や埃でくすぶられていたが、確かに奈美と御神木が一つの丸の中に映っている。
それを確かに見たのちに、奈美は小さく口を開いた。
「あいつは今日、3年の男たちに潰されるのよ」
* * *
――弾かれるように、御神木は駆け出した。
今までの硬直が嘘のように――マンホールの蓋を蹴っとんだ。
奈美の言っている言葉の意味はわからなかった。
だが、身体が勝手に動いていた。
心臓が勢いよく血を回す。脚はみるみるうちに駆動した。
御神木のそんな応えは予想外だったようで、奈美は3秒ほど事態に追い付けず、止まっていた。
そしてカーブミラーから御神木の姿がいなくなり、自分一人しか映っていないことに気づいた時、やっと状況を把握した。
「お……御神木くん!」
奈美は走り出した。
目はうろたえ、走るのに慣れていない鞄は激しく振れた。
カーブミラーには、いよいよ誰も映らなかった。
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