御神本 往人 Ⅶ(1999.6.28)「熊襲と聖地」

「比良坂っ」


 学校の裏道を早足で歩く比良坂を止めようと声をかけたが、応えはなかった。振り返ることもなかった。


 耐えきれず、「比良坂!」とさっきより大きな声で呼んだ途端、比良坂はきゅっと足を止め、僕を振り返りこう言った。


「目立つけん、ついてこんで」


 その時の比良坂の目つきに――冷たいガラス玉のような真っ黒なその瞳に気押され――唇は強張こわばり、舌はもつれ、僕は言葉を返せなかった。

 それは、今までに見たことのない目の色だった。

 僕たちとは違う目。

 僕たちの見ている世界とは、別の世界を見ている目。

 

 〈扉〉を開いた者の目……。


 比良坂は、僕とは違う。

 そんなこと、わかっていたはずなのに。いや、むしろ自分たちとは違った……そんな比良坂に、惹かれたはずなのに。

 僕は何もできず、ただ、神社へ向かうその後ろ姿を眺めることしかできなかった。


 ついに、あの化け物が……ヒドラが、見つかってしまった。きっと噂はすぐに広まり、ヒドラは捕獲されてしまうだろう。

 その時、一緒に比良坂も見つかってしまったら……今度こそ、学校や村でどんな扱いを受けるか、わかったものではない。

 ……いや、一番恐ろしいのは、ヒドラが捕らえられて……あまつさえ、殺されでもした時の、比良坂の反応かもしれない。

 もちろん、人並みに悲しみ、怒るのはわかる。だが、そうでは済まないような、をしてしまうような力が、さっきの比良坂の目には宿っていた。……


 だからこそ、今ここで、絶対に比良坂を行かせてはいけない。

 追いかけて、止めなくてはならない――そう、わかっているのに……言葉は喉元のどもとでつっかえて、口に出てきやしなかった。


 比良坂にとってヒドラは、いったいどんな存在なのだろうか。


   *   *   *


 「なぁ、兄ちゃん……比良坂のばあちゃんってどういう人と?」


 ヒドラという存在が気にかかり始めた時、改めて思い出したのは、あのヒドラはそもそも比良坂の祖母からもたらされたものである……ということだ。


 いや、正確には祖母自身はなにも知らなかったのかもしれないが……ともかく、ヒドラが出てきたあの土偶を封じていた神社の鍵を、祖母が死に際に渡した。そして、祖母の持っていた勾玉は、まるでヒドラに呼応するように妖しく光っていた……。

 比良坂の祖母について、僕は何も知らなかった。

 

「比良坂のばあちゃん……最近死んじまった人だよな。母方の……」


 兄ちゃんは、「うぅむ」と少しうなってから、口を開いた。


「旧姓は菊池きくち熊襲クマソの民の末裔……と聞いている」

「クマソ……?」

「古代日本において、蝦夷えみしと並び、大和朝廷に最後まで抗い続けたの一つだ。蝦夷は……学校でも習っただろう? 東北で大きな力を振るっていたが、大和朝廷に倒され、北の果てに追いやられた一族だ。エゾとも呼ばれ、やがてはアイヌと一体となったとも言われている。ホラ、その蝦夷を征伐するための役職が、征夷大将軍だ。坂上田村麻呂。今じゃ幕府の将軍トップという意味合いに変わってしまったが、元は夷を征する将軍という意味だ」


 確かに坂上田村麻呂は習ったけど……あまり詳しいことは覚えていない。蝦夷というのにも、名前に聞き覚えがある程度だ。あまり、歴史においては重要ではなかったのだろうか……?


「身近なとこだと……アレだ。『もののけ姫』の主人公ヒーロー、アシタカ。あいつは蝦夷の末裔のはずだ」


 いまいち把握しきれてない僕の顔を見てか、兄ちゃんは豆知識を教えてくれた。


「いや、蝦夷エミシはどうでもよくて……。ようするに、当時大和朝廷に抗った民族の二大巨頭ツートップが、蝦夷と熊襲クマソなんだ。東北の蝦夷に対し、熊襲は九州に居を構えていた。『熊本』の語源の一つとも言われてるんだぞ。

 その熊襲のルーツは、狗奴国くなこくにあると言われている。狗奴国は、古代九州に存在した……邪馬台国にとって最大の敵対国ライバルだ」


 邪馬台国……また、邪馬台国だ。

 比良坂の家系は、邪馬台国と関係があるというのか……?


「邪馬台国と狗奴国の因縁は、単なる国家同士の覇権争いバトルではない。その根底に流れていたのは……としての生存戦争サバイバルだ。

 邪馬台国は弥生人の国家だった。弥生人は、朝鮮半島含む中国大陸出身者……稲作文化を持った農耕民……乃ち、渡来人チャイニーズだ。

 対して狗奴国の民は原日本人ネイティブジャパニーズとも言うべき狩猟採集民……縄文人だった。……まぁ、とは言っても縄文人だって、元は日本列島がまだ地続きだった頃に他所よそから移住してきた、古モンゴロイドなんだけどね」


 テレビかなんかで見たことがある。日本人は、その顔や体つきの特徴から、弥生系と縄文系にわけることができるって。

 今ではほとんど混血が進んでいるが……ともかく縄文人と弥生人は、遺伝子的に全く別の種族なのだという。


「まぁ、そんな農耕民ヤヨイ狩猟採集民ジョウモンの争いがどうなったかは、今を見て明らかだね。人口と鉄器の力マンパワー渡来人ヤヨイは日本を統一し、大和朝廷を開いた。その皇族の系譜は、21世紀に至る今も続いている。

 対して蝦夷エミシ熊襲クマソ、そして隼人ハヤトといった原日本人ジョウモンは争いに敗れ、北と南の果てに追いやられた。

 日本神話は、そんな勝者の栄光の記録なんだよ。高天原たかまがはらに住まう天上の神々が、九州の高千穂に降臨した〈天孫降臨〉は、そのまま皇族の祖先が大陸から九州にやってきたことを表すのだろう。そして日本土着の神々である国津神クニツカミは、高天原からやってきた天津神アマツカミに日本の統治権を譲り渡す……〈出雲の国譲り〉は、渡来系弥生人が、縄文人からこの国を奪い取った事件エポックを描いたものだ。天津神タケミナカタと国津神タケミカヅチの戦いは、弥生人と縄文人の最初の戦争だろう。

 初代天皇である神武天皇が、土蜘蛛つちぐもと呼ぶを討伐しながら日本を統一していく様子は、まさに蝦夷エミシ熊襲クマソといった、朝廷に屈しなかった原日本人の残党レジスタンスを制圧していく軍記だ。そして前にも述べた〈神武東征〉が完了した時……ついに奈良で大和朝廷が開かれた。ここに中央主権天皇主権国家が始まったというわけだね」


 そうして兄ちゃんは、やっと話を切った。

 熱が加速したのだろう、早口で進んだ後半はよくわからなかったが……とにかく、わかったことがある。


「つまり、比良坂は……日本最古の血を継いでる一族ってこったいね?」


 兄ちゃんの話が正しいなら、原日本人である縄文人によって作られた狗奴国くなこくは、やがて熊襲クマソと呼ばれるようになり、今の熊本に繋がったということになる。

 その中でもここ球磨くま郡は……熊襲の血を、最も色濃く継いだ、熊本の核とも言うべき地域なのかもしれない。


その通りエサクタ! 故に比良坂の祖母はここ、狗奴野座くなのざ神社の管理権を持ってたってわけだ。

 僕は、狗奴野座神社というのは……狗奴国に由来する名前だと思っている。つまりここ神瀬こうのせ村は、熊本の……球磨郡の……熊襲の……狗奴国の……いや、原日本人の……聖地エルサレムなのかもしれない」


 聖地……。こんな田舎が……。自分の住む、神瀬村が……。

 とても信じられないと思うかたわら、僕の頭を今支配しているものは、ヒドラだった。

 ヒドラは……聖地だからこそ、現れた……?

 ヒドラは……聖地に封印されていた……?

 比良坂は……聖地で何をしたんだ……?

 

「まぁもっとも、比良坂の母親はそういった伝統やしきたりが嫌いで……よく衝突してたって噂だけどね。だから、祖母を慕う比良坂とも仲が良くなかった」


 それは、初めて知ったことだった。

 比良坂と両親の仲が悪く、孤独であるということはなんとなく察してしたが……比良坂のことを嫌っているというよりは、祖母への嫌悪に端を発していたというのか。

 ……でも、それだけで……、一人しかいない我が子に、ああも酷い仕打ちができるものだろうか。


 家の中でも、学校でも、比良坂は孤立していた。

 そして祖母を失った比良坂は、ついに孤独になった。

 では、今は……?

 

 比良坂にとって、ヒドラとは、いったい……。


 もし僕が、もっと早くに比良坂に声をかけていたら、全ては変わっていたのだろうか……?

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