比良坂 哀 Ⅴ(1999.6.28)「かんざしと傷痕」※挿絵あり
ばちっ、と音が響いたと同時に、右の頬から乾いた熱さが
……痛い。
床についた手の辺りに、かんざしが転がっていました。きっと、ナミに殴られた拍子に、髪から抜けてしまったのでしょう。
私がかんざしを見ていることに気がついたのか、次の瞬間、ナミはかんざしに向かって足を振り下ろし――べきりと折ったのです!
「フン。普通じゃないくせに……色気づいてんじゃないよ!」
耐えられず、私は口を開きました。
「なして……なして、私ばっかり……私が、なんかしとっと!?」
ナミは表情を変えずしばらく黙っていましたが、左の眉が一瞬、ぴくりと動いたかと思うと、急に
「……うっさいんだよ! アンタさえ、いなければ……! どうして私に、って? そんなの、アンタが気持ち悪いからに決まってんでしょ!」
そう言い残すと、ナミは戸の方にひるがえり、廊下へ消えていきました。
私はなにもできなくて――ただ、右手で爪を立て、床を傷めることしかできませんでした。
――本当、どうして、あんな子が……。
ナミの言葉を聞いてから、どうしてか頭をかすめたその言葉は……いつかの夜に聞いた、母の言葉でした。
――本当、どうして、あんな子が……。
――アンタさえ、いなければ……!
二人の言葉がぐるぐる、ぐるぐると、頭の中に居座っていました。
かんざしの先がかすめたのか、頬には一条の擦り傷ができていて、そこから血がにじんでいたことに気がついたのは……トイレに行って、手を洗っていた時でした。
ただただみじめで、悔しくて……痛みも、感じませんでした。
* * *
「生首蛇!?」
ヒドラと出会って、1週間くらいが過ぎた日のことです。
授業の終わりを告げるチャイムが響いた教室に、女子の大声が被さりました。
女子は噂話が好きとは言いますが、あの娘は毎日毎日、友達がああしただの、先生がああなっただのの話を毎日しています。今日もきっと、似たような話なのでしょう……が、もう少し、声の大きさを抑えてほしいといつも思います。
なにしろ、かんざしを折られて、ただでさえ気持ちがじくじくと塞がっているのですから……そういう時に耳に入ってくる、遠慮のない大声ほど、神経に障るものはありません。
そう思い、廊下に出ようとした瞬間――私の足はぴたりと止まりました。
とんでもない話が、耳に入ってきたからです。
「そう! タエが神社で見たらしかよ!」
「なによ、生首蛇って……」
「お、おおお、お化け?」
「蛇なんでなか?」
「えっと……ろくろ首みたいな長ぁい生首なんだけど……白い体で、首の下は蛇みたいだったって……。人では、なかったって……」
なんということでしょう。
ヒドラが、クラスの誰かに見つかってしまいました……!
ヒドラは……ヒドラは、無事なんでしょうか?
「だから……生首蛇?」
「そう……。人では、なかったって……ばってん、おばけとも違う……見たことんない、気持ち悪い生き物……」
「UMAってやったい? ネッシーみたいな……」
「そんな化け物が熊本におるけ!?」
「こえ〜」
「そ、それで、タエは……!?」
「怖なって、大急ぎで神社から逃げたげな……」
彼女の話が終わると、教室には一瞬の静寂が訪れました。クラス中の皆が、彼女たちの話に耳を傾けていたのがわかります。
どうやら、ヒドラはまだ無事のようです。
でも、なにか手を打たないと……次は、どうなるか……。
「もしかして……それが、恐怖の大王だったりしてね……」
教室の後ろの方から、ぼそりと呟きが聞こえました。
その瞬間です――彼女の叫び声が聞こえてきたのは。
「……いるわけないでしょ! そんなの……普通に考えて、新種か錯覚か……見間違えに決まってる! そんなんだから、いつまでも田舎のままなのよ、ここは!」
なにがそこまで、ナミの気に障ったのかは私にはわかりませんが……ナミの
* * *
授業が終わり、速足で学校を出た時のことです。
「比良坂! 今日も行くと!?」
「目立つけん、ついてこんで」
この辺りはかつては焼き物で栄えていたようですが、今や職人のほとんどは出払って、すっかり陽の当らない通りとなっています。
レンガや陶器の廃材を埋めて作った坂。車一大がやっと通れるような細い路地。そして赤茶けたバラック小屋が並ぶだけの
人に見られて、ヒドラのことを感づかれでもしたら、たまらないからです。
そうです。とにかく早くヒドラの元へ行って、無事を確認して、人目につくことのないよう、隠してやらないといけないのです。
今はまだ、一人の生徒が語る噂話にすぎませんが、いずれクラスの男子の何人かは、冒険心や度胸試しに神社を訪ねることでしょう。そして本当に見つかって、〈生首蛇〉なんて騒ぎになってしまえば、どうなってしまうかわかりません。
ヒドラはこの世界に、いてはいけない存在だから……。
御神木くんがヒドラのことを話してはいないと思いますが……今は、邪魔でした。
――御神木くんを払おうと、後ろを見やった時です。私の目に、おかしなものが見えたのは。
――ナミが、こちらを見ていたのです。
一段上の坂道の、焼窯跡の鉄階段から、手すりに乗り出して、私を見ていたのです!
私と目が合った瞬間、見ていないかのように彼女は目を逸らし、後ろに消えていきました。彼女はいったい、何を見ていたのでしょう……。
なんとなく、普段私を見ている瞳とは違ったように見えました。私ではない、何かを……別の何かを、見ていたのでしょうか?
……御神木くん?
――いえ、どうでも、いいことです。
ただ、ナミを見て、今日のナミの叫びが思い出されました。
いつまでも田舎のまま……その言葉はまるで呪いのように、私の頭にこびりついて、離れようとしませんでした。
その刷新の標語が、村役場の掲示板にでかでかと貼りだされていたのを私は思い出しました。
『脱、田舎』
その標語の持つ力――文字からにじみ出ている暴力的なまでの信念と宣伝に、ある種の恐ろしさを感じたのは、きっと私だけではないと思っています。
ナミも同じように、この村に漂っている田舎らしさのようなものを忌み嫌っているのでしょうか。
ナミたちの目指す村を作るには、ヒドラや、私のような存在はあってはならないのです。……
* * *
洞窟内は相変わらず薄暗く、静まり返っていて、一条の光はおろか、人の気配一つしませんでした。
しかし、かといって油断はできません。
「ヒドラー」
私の呼びかけが、洞窟内にこだましました。
返事は、ありません。
まさか… と思い、歩を進めた――その時です。
ばぁ、と、私の目の前に、黒いモノが覆いかぶさりました。
「キャッ」と小さな叫びを上げると同時にのけぞったとき、 私の提灯が、ぶら下がってきたモノを――その正体を、白く照らしました。
「……ヒドラ!」
ヒドラは、天井から器用にぶら下がり、顔をこちらに向けていました。その顔は、母親にイタズラを仕掛けて喜んでいる子供のように見えました。
「もう……びっくりさせんでよ!」
驚かせたことを言葉では否定しつつも、ヒドラのそんないじらしさに、私の口元は思わず緩んでしまう……はずなのに。
「うっ」
どうしてでしょう。
涙が。
何かしら、みじめな思いが胸の中に満ち溢れて、涙が溢れて止まらないのです。
ヒドラと無事に会えたことで、緊張の糸が切れてしまったからでしょうか。
ぽたぽたと地に落ちる涙に、びっくりしてしまったのでしょう。ヒドラは口をすぼめておろおろと震え、動揺が目に見えるようでした。
きっと、自分が驚かしたことが原因だと思っているのでしょう。
「……違うの。おばあちゃんの作っちくりたかんざし……ナミたちに、折られて……。あ、ナミってーのは、同じクラスの――」
「きゅぅぅぅううううう」
おどけた声を漏らしながら、ヒドラが私にもたれかかってきました。
思わず、後ろに腰をついてしまいます。
どうしたのでしょう。また、イタズラでしょうか……?
――いや。ヒドラは、きっと……。
頬にすりつけられたヒドラの首元は温かく、ずっと触れていると、お互いの体温や感覚が溶け合って、その境界がわからなくなってしまうようで――その感覚が心地よくて、ずっとこうして、身をゆだねていたい……そう思わずにはいられませんでした。
そして私はその時ようやく、今まで麻痺していた頬の擦り傷の痛みを――乾いた熱さを、認識したのです。
「慰めて……くれるんね……」
私の言葉に応えるように、ヒドラは舌で私の頬を撫でました。
まるで、
「あんがとーね……」
ヒドラの舌は人の持つそれより遥かに分厚い、
一見不気味なそれも、今の私には、
「いい? おまえは今ね……生首蛇って、ちっと噂になっとうたい。だけん、他ん人からは隠れて……もし見つかっても、絶対に反抗しちゃあ、いかんばい」
私の腕に抱かれたヒドラは、首だけをもたげ、不思議そうな
無理はありません。そんな理不尽に、世間から隠されて……。
でも、今は、見つかってはいけないのです。
ヒドラは私と同じように……皆から、嫌われているのですから……。
「森林開発……鳥獣・害獣駆除……都市の生活水準をスタンダードに……画一的な、21世紀の村づくり……。
ヒドラは変わらず、こちらを見つめ続けています。
「私たちは……おっちゃいかん存在けん」
学校には話し相手はいませんし、ナミたちには虐められます。
おばあちゃんがいなくなって、家にも居場所はありません。
つまらない、毎日です。
きっと、これからも……。
ああ、ヒドラが学校に……家に、いてくれたらいいのに……そう願わずにはいられません。
……いや、いけません。ヒドラが他の人に見つかったら、きっと殺されてしまいます。ヒドラも私と同じように、嫌われているのですから……。
ああ、いっそ、ヒドラが人間だったらいいのに……。
ねえ、ヒドラ……? あなたがもし、人間だったら……あなたは変わらず、私と接してくれますか?
それとも……他の人と同じように、私を避けますか……?
私はきっと……あなたを避けません。
きっと、間違いなく……。
* * *
普段は懐中電灯なしには前も進めない程暗い洞窟ですが、今日は妙に明るいことに気がつきました。洞窟入り口に仄かな光が見えます。
洞窟を出ると、もう月が上がっていました。
満月でした。
満月に照らされた岩屋は、不思議な明るさを漂わせていました。
夜空には月の光が拡散し、淡い黒色が広がっています。対して眼前にそびえる山々は、夜空より濃い真っ黒色をしていました。
静かな、夜でした。
初夏とは思えない冷たい風が頬を撫でたとき――
ふと、頬の痛みが失くなっていることに気がつきました。
時間が経って、痛みが治まったのでしょう……そう思い、掌で撫でてみると――
ナミにつけれたはずの切り傷……その傷痕……。
間違いなく、つけられたはずの――その痛みも……さっきヒドラに舐められたことも、間違いなく、覚えているのに――
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