比良坂 哀 Ⅳ(1999.6.24)「お弁当」※挿絵あり

 どこからともなく流れてきた冷気が、足首をそろりと撫でました。洞窟の中は相変わらず薄暗く、奥に行くほど視界は失われていきます。

 心細さをかき消すように、おばあちゃんの家から持ってきたマッチ箱と、提灯ちょうちんを取り出しました。

 じめじめしているのでマッチがくかは不安でしたが、2、3回擦ったところで、青白い閃光がまたたきました。

 提灯にともすと洞窟の中はほの白い明かりに包まれました。この瞬間は心がふっと暖まるようで、何度見ても私の気持ちを落ち着かせます。

 時折、しずくの落つる音が響いてくるほど洞窟内は静けさで満ちていて、生き物の気配一つしませんでした。


「ヒドラー」


 小さく名前を呼んだ瞬間、ぬうと、岩陰から何かが覗いた気配を感じ、私は提灯を向けました。

 ゆらめくに照らされたヒドラは、昨日と変わらない姿で私を見つめてきました。目は、ありませんが……きっと私を見つめている――そんな気がするのです。

 そして、ヒドラの顔を見た瞬間、昨夜からの緊張でり固まった私の心が、ゆっくりとほぐれていくのを感じました。


   *   *   *


 今日のお弁当は卵焼きとほうれん草のごまあえ、ぶりの照り焼き、そしてご飯と漬物です。

 どれも幼い頃、おばあちゃんに教えてもらった私の得意料理です。ただ、最近はこういう料理はババ臭いとか言われて、好かれないみたいで……ちょっぴり寂しかったりします。

 ヒドラは、どう思うのでしょうか。


いとうご飯があるといいけど……」


 弁当箱の蓋を取ると、ヒドラは首をもたげて興味深そうにのぞき込んできました。匂いを嗅いで、いるのでしょうか?

 一品一品確かめるように顔を向けていましたが、漬物のところでぴた、と首を止め、口から垂れた体液が漬物にしたたりました。どうやら、食べる品を決めたみたいです。


「そいでいいたい? 食べる前にゃ、いただきますって言うんよ? あ……でも、お前は話せんけん、心ん中でね……」


 そういって、私は胸の前で手を合わせ、いただきますの手振りを見せました。

 その時、おばあちゃんに初めはこうして教えてもらったことを思い出し、心がきゅっと――


「きゅぅ」


 ヒドラが、手を合わせていました。

 おなかのあたりから白い二片がにゅにゅと伸ばし――私の目の前で合わせたではありませんか!


「みゃぁ」


 変わった鳴き声を上げながら、手をふるふると合わせるヒドラ……その動きはやっぱり簡単ではないみたいで、ちょっとだけ、苦労しているように見えました。

 なんて……なんて、お利口さんなんでしょう! こんなにかわいいヒドラを、不気味がる人の気持ちが、私にはわかりませんでした。

 こんなに素直で、純粋で……愛しい愛しい、私のヒドラ……。


「いい子なーお前、よーしよし……」


 気づくと、私はヒドラを抱き寄せていました。

 頭を撫でると、相変わらず粘液のようなものが薄く伸びていきます。初めはあまりいい気がしなかったその感覚も、慣れてしまうと――ぬるぬるとして、案外、気持ちのいいものです。


「きゅぅ」


 ヒドラの鳴き声がどういった感情を表しているのかはわかりませんが、嫌がる様子には見えなかったので、安心して、にゅるにゅると撫で続けていたのですが――急にばちん、と首を振り跳ねられ、私はびっくりしました。


 私の腕から放たれたヒドラは、こっちをじい、と見つめてきました。

 初めはなにが起こったのかわかりませんでしたが、首を跳ねる直前の自分の行動を思い返すと……思い当たる節がありました。


そこは……ダメ……?」


「きゅぅ」


 ヒドラの顔には口以外、目も耳も鼻もありませんが、両側頭部に位置する辺りから、唯一やわらかな突起が伸びています。突起といっても2センチくらいのもので、浅い角と言った方が正しいのかもしれません。私は撫でるのに夢中になるあまり、その角にまで手を伸ばしていたようで――ヒドラをそこを触れられるのが、どうやらとっても嫌みたいです。

 人間でいうところの、わきの下や足裏みたいに、触れられるとくすぐったい箇所なのかもしれません。


「ごめんね……もー触れんけん、さしより、弁当食べてー」


 今まで以上に人間らしさを感じ、ちょっとだけ顔がほころんでしまった気はしますが、とりあえずしっかり謝り、お弁当を差し出しました。


 気に入って、くれるでしょうか?


   *   *   *


 初めは、びっくりしました。

 もしや、体に合わなかったんじゃないか……と。

 甲殻類アレルギーの人がエビを食べて、体を痙攣させるように、ヒドラになにかあったのではないか、と――



 ヒドラは漬物から口に入れると、火がついたように勢いよく他の料理にもかぶりついていきました。きっと、お腹が減っていたのでしょう。どれも気に入ってくれたようで、安心しました。


 しかし、八割方食べたあたりで、ヒドラの様子に変化が現れました。

 初めはふらりふらりと首を揺らしたかと思うと、急にぐねぐねと首が伸び縮みしだしたのです!

 びっくりして手を伸ばしましたが、ぶるぶると振るう口からよだれのように体液を垂らしたかと思うと――私の両手を目指してぐでん、と倒れこんできました。


「……ヒドラ!」


 びっくりして思わず名前を叫んでしまいましたが、その時ヒドラの口元からすうすうと――まるで寝息を立てるように――息が漏れていることに気づいた時、私はようやく、ヒドラが酔っ払っていたことに気づいたのです。


 確かに、私がおばあちゃんから教えてもらった漬物は酒粕を使って作るので、若干のアルコールを含んでいるとは思います。それでも私は毎日食べていますし、もちろん、酔っぱらったこともありません。

 まさかヒドラが、ここまでお酒に弱いとは……。



 ヒドラの穏やかな寝息をじっと聞いていると、その微かな音が胸にしみいってくるようで……私はヒドラを起こすことも、その場から離れることもできませんでした。

 だって、息を立てるのと同時に、お腹の辺りが無防備に膨らんだり収まったりしているのを見ると……まるで、無邪気に眠る赤ん坊のようで……ずっと、見ていたくなるのです。リラックスしているのに、目が、離せないのです。

 胸の奥の方から、今までに感じたことのない、なんともいえない温かさがにじんでくるのがわかります。胸をなでおろす……というのでしょうか。はらはらするけれど、気づいた時には、今日一日の疲れや緊張が、どこかに洗い流されていることに気がつきました。


 今日、ここにきて、本当によかった。

 ヒドラに会えて、本当によかった。


「ありがとーね、ヒドラ……」


 ヒドラがいれば、学校もお家も、耐えられる……。

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