御神本 往人 Ⅴ(1999.6.23)「ヤマタノオロチ」
「なぁ、弟よ」
机に向かっていた兄ちゃんは、ワークチェアをくるりと回転させ、座ったまま僕に
「ヤマタノオロチの首は……何又だ?」
「え? そりゃあ、8又じゃ……」
「
「えっ……」
そう問われると、思わず答えを変えたくなるが……8又以外の答えは思いつかなかった。
「これを見て、もう一度ようく考えてみてくれ」
兄ちゃんは、読み途中らしい学術本の表紙を僕に向けた。
八つの首をもった怪物の絵だった。
ヤマタノオロチ。日本神話を詳しく知らない僕でも知っている、有名なモンスターだ。
「1、2、3、4……」
人差し指を順にヤマタノオロチの”又”にあて、その数を数えていく。
「5、6……あっ」
7又だった。
「That's right」
兄ちゃんはやけに流暢な英語で、正解を知らせた。
――なんて、単純な勘違い。確かに、首が八つなら又の数は七つだ。
つい、言葉の印象に引っ張られてしまった。
「ヤマタノオロチの7又問題は昔から議論されていて、今は主に二つの
7又問題というワイドショーで騒がれそうな語感に、思わず口を挟みそうになったが、止めた。
「一つはヤマタノオロチは円環状の生物だったという説だ。ヒトデをイメージしてもらうと分かりやすいが……輪になって首が生えていた場合、八つの首で八つの又という、
確かに、6本腕のヒトデは6又になる。
「ただまぁ、そんな姿だったならば、どこかの文献の一つにでも残ってそうなもんだがな……」
「じゃあ、もう一つの方は?」
「まぁ、ほとんどこっちが主流なんだが……。ヤマタノオロチは『日本書紀』では〈八岐大蛇〉と書かれている。漢字では〈八岐〉だから……頭が8つに別れたという意味になり、問題はなくなるってわけだ」
「なら、それでよかない?」
だが兄ちゃんは、どこか納得していないふうに見えた。
「『日本書紀』の原文はね、漢文で書かれているんだよ。当時はまだ仮名が生まれてなかったからね……中国で使われていた漢字に、意味を無視して音のみを、日本語をあてたんだ。例えば、〈ア〉は〈阿〉といった具合にね。
これは、国語か歴史の授業で習った気がする。確か、万葉仮名……と教わった。そしてその通りなら、当時の漢字には意味がないことになる。
「例えば、これまたヤマタノオロチを討伐したことで有名なスサノオノミコトは、『日本書紀』では〈素戔男尊〉、もしくは〈素戔嗚尊〉と記されている。その神名は、スサの男神……という意味になるんだが、では、スサとはなんぞや。それにはいくつかの説がある」
兄ちゃんは、今まで見たことがないような漢字をノートに書きながら、熱心に教えてくれた。その目はどこか楽しそうで、きっと、こういったことを人に教えるのが好きなのだろう、と思った。僕も兄ちゃんから、こうした学校では習わないようなことを教えてもらう時間が楽しみの一つではあった。意味が完全にわかるわけではないし、どこで役に立つのかもわからないが……。
「凄まじく、荒れすさぶ、嵐、暴風雨……。スサノオはアマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコトととの三兄弟でね、まとめて三貴神なんて呼んだりもするんだが……アマテラスが太陽を、ツクヨミが月、もしくは夜を表すように、スサノオもなにかしらの天体現象の神格化である、という考え方だね。他にも、
そう言いながら、再び漢字を書いたノートを指さした。
「しかし、『日本書紀』の〈素戔〉にはね、そのどの意味も含まれないんだよ。素は、白い、ありのまま、はじまり……といった意味を表し、戔は、少しの、損なう……といった意味を表す。嵐とも、須佐郷とも関係がないのは明白だろう? だからね、ヤマタノオロチが八岐大蛇と書かれていたとしても、必ずしもその意味通りに受け取ってはいけないんだよ。まぁ、マタは二音だから、少なくとも万葉仮名ではないんだが……」
なんとなくこじつけくさい感じもしたが、言いたいこともわかる気がした。
「そっすと……ヤマタノオロチって名前が変なくない? ハチクビノオロチとかのが、わかりやすいたいね」
「そうなんだよ。わざわざマタで表現したところに、俺は
「でも、そんなら……兄ちゃんはヤマタを、どういう意味と思うと?」
「そのままだよ」
「そのまま?」
「そう、八つの又があったら、ヤマタノオロチは九本首になってしまうと、さっき言っただろう? そのままだよ、ヤマタノオロチは本当は九本首だったんだよ」
「えぇ⁉」
「
兄ちゃんがなにを言っているのか、僕にはさっぱりわからなかった。
「九本首の竜と言えば……
九頭竜……確かになんとなく、聞き覚えがある気がする。
そうだ、『るろうに剣心』に出てきたんだ。〈九頭竜閃〉という技名があった!
「九頭竜伝説は日本各地に残っている。福井、長野、箱根、千葉……。いや日本各地と言わず、インド神話のラゴウや、ギリシア神話のヒュドラも九頭竜の一種と言えるだろう」
ヒュドラ……その名前に、思わず引っかかる。ヒドラと名前がそっくりなのは、偶然だろうか。
「もちろん、ここ熊本、阿蘇山にもあるんだが……ここに残る九頭竜伝説は、チョイ特殊でな……」
「特殊?」
「ああ。九頭八面の大竜が現れたというんだ」
九頭八面……意味がよく、わからない。
「直訳すると、九つの頭と八つの顔を持った竜ってことさ」
「ど、どういうことと……?」
「九頭竜は当然、その名の通り九つの頭を持っている。だが、熊本に現れた九頭竜には八つの顔しかなかったってことさ」
ますます、わからない。
「八つの顔……つまり、ヤマタノオロチさ。熊本に現れた九頭竜は、ヤマタノオロチだったのかもしれない。さっきも言った通り、俺は、ヤマタノオロチは八つの又を持つ……九本首の竜だったと考えている」
「ヤマタノオロチは本当は九本首の……九頭竜で……だけど、何かしらの理由で、八本首の姿で現れたってこったい?」
「そうだ。その証拠が、熊本の九頭竜伝説ってことだ」
ヤマタノオロチは八つの又を持つ九本首の竜、乃ち九頭竜だった。だが、なにかしらの理由で首の一つを失い、八つの顔になった。それこそが、日本神話に登場するヤマタノオロチの真相……。そして、その真相の名残がここ熊本の九頭八面の九頭竜伝説にあらわれている……。
証拠というほど、確たる根拠にはならないとは思うけれど……なるほど、ヤマタノオロチは本当は九本首だったという話と、繋がった気がする。
「あれ? でもたしか……ヤマタノオロチ伝説って、島根の話よね?」
「ああ、日本書紀では、出雲……つまり島根の話とされている。姉神であるアマテラスに歯向かい、高天原で暴れまわったスサノオはその天上世界を追放され、地上世界に
名前だけは聞いたことのある神様の名前が次々と登場し、神話のピースが埋まっていく。つまり、出雲の神々の祖はスサノオにあるということなのか。
「だが俺は……ヤマタノオロチ伝説の本当の舞台は、熊本だったと考えている。出雲はフェイクだ」
「えぇ!?」
「学校で、『
『風土記』……。
確かに、『古事記』、『日本書紀』とともに日本で最も古い年代に成立した書物だと習った覚えがある。
「そしてこの『出雲国風土記』には、ヤマタノオロチの話は一切載っていない。言ったように、風土記はその土地の歴史や由緒をまとめたものだ。ヤマタノオロチ伝説は、出雲国成立譚といっても過言ではない、超重要なエピソードなのに、だ」
「それは……ヤマタノオロチの話はしょせん神話の、フィクションだからじゃ……?」
「いや、『出雲国風土記』には同じく神話の登場人物であるスサノオやクシナダは登場するんだ。スサノオが須佐郷を命名するくだりなんかは、日本神話のまんまだ。そりゃそうだ。だって、出雲国の祖神はスサノオなのだから」
……なるほど。
完本であるはずの『出雲国風土記』に、出雲国成立の超重要エピソードであるヤマタノオロチ伝説がなぜか載っていない。……それこそが、ヤマタノオロチ伝説の舞台が実は出雲――乃ち島根ではなかった証拠だと、兄ちゃんはそう言いたいのか。そしてさらに、ヤマタノオロチ伝説の真相の名残が見られる〈九頭八面の九頭竜伝説〉が残るここ熊本こそが、ヤマタノオロチ伝説の本当の舞台だったと、そう言いたいのか。
兄ちゃんは「よくぞ見抜いた」と言わんばかりのしたり顔を浮かべながら、言葉を続けた。
「邪馬台国の比定地……日本神話の舞台……神風が起こった元寇の地……そしてオロチ! 九州にはナニカがある! それを解くのが
日本神話の舞台のほとんどが九州にあるというのは、熊本に住んでいる身にとってはよく聞かされた話だし、それに由来する観光地も多い。特に宮崎の高千穂は神々が降り立った〈天孫降臨〉の舞台として、僕でも覚えているほどだ。
元寇は……確か福岡の話か。
鎌倉時代に恐ろしい武力を持ったモンゴル軍が二度に渡り攻めてきたが、なぜか二度とも台風が起こり、退散したという。その神がかりっぷりから、その台風は〈神風〉とも呼ばれた。
確かにこの二つを並べると、九州は神々の息吹を感じる地なのかもしれない。今まで意識したことはまったくなかったけれど……。
――だが。
「邪馬台国って…未だにどこにあったかはっきりしないんよね?」
「ああ。邪馬台国は倭国30あまりのクニを統治していたとされる日本最古の連合国家だ。だが、そのスケールにも関わらず、邪馬台国がどこにあったのかは未だに結論が出ておらず、江戸時代から現代まで学者たちの間で論争が続いている」
江戸時代から論争があったとは知らなかった。思った以上に、日本の歴史というのはまだまだ謎だらけなのか。
「四国説や出雲説なんかもあるが……主流は九州説と
そこで僕は、前々からの疑問を兄ちゃんにぶつけた。
「なぁ兄ちゃん、前から思ってたんけど……邪馬台国と大和朝廷って、名前が似とっけど、何か関係あると?」
その瞬間、兄ちゃんの目は大きく見開かれ、右の人差し指は僕に向けられた。
「いい質問だ
「へ?」
「ズバリ! 邪馬台国は大和朝廷と同一……、
その時、乾いた風が肌を撫でた。
あと数時間で日没だ。網戸の奥に見える雑木林が、風にさざめいているのがわかる。
あの林の中の洞窟に、あの化け物は……ヒドラは、今も潜んでいるのだろうか。
ヒドラとは、一体……なんなのだろうか……。
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