比良坂 哀 Ⅱ(1999.6.22)「家」

 ――ふと、目が覚めました。

 横に目をると、月明かりに照らされた時計は二時ぴったりを示していました。予定通りです。

 この時間に起きる、と強く念じてから眠れば、目覚し時計なんかなくったって、私は時間ぴったりに起きることができます。もっとも、この起床法はお婆ちゃんに教えてもらったのですが。


 部屋を出て、こっそりと、冷蔵庫のある方へ向かいます。

 ひとあしひとあし進むごとに、木造りの床は小さな音をきしませます。しかし、外からはカエルや虫の声が入ってくるので、きっと、大丈夫でしょう。

 バレることは、ありません。


 今日は本当に、色々なことがありました。洞窟から帰ってからも、しばらく胸がそわそわしていました。宝物を見つけたようなわくわくと同時に、いけないことをしているような、どきどき。


 ヒドラは、私だけの秘密です。

 私とヒドラの、二人だけの秘密です。


 ……いえ、正確には、御神木おかもとくんを入れた三人の秘密でした。

 御神木くんには、人に言わないようにと伝えましたが、守ってくれる保証はありません。それでも、今は信じる他ありません。

 そういえば、結局、御神木くんはどうしてついてきたのでしょうか。「神社が見たかった」と言っていましたが……もしかして、御神木くんはヒドラのことを、何か知っていたのでしょうか……?


 ――いや、なんにせよ、ヒドラは、私が守らなければならないのです。

 そのためにも、まずはご飯です。

 ヒドラは、何を食べるのでしょうか。

 肉食でしょうか、草食でしょうか……口周りは人のそれそっくりなので、案外、人間と同じものを食べるのかもしれません。でももしも、昆虫とか、生きが好物だったらどうしましょう。

 熱帯魚屋さんに行けばいいのでしょうか。確か、隣町に一軒あると、聞いたことがあります。

 とりあえず、できるだけたくさんの種類の食べ物を詰めて――そう思いつつ、冷蔵庫に手を伸ばした時のことです。


「伝統や風習は、もう、うんざり!」

 ――母の、声でした。

「今日も神社や祭りの人が来て……断るにしても全部書類が要るみたいで……しかも無責任、冷たいみたいな顔されるのよ!? どうして私が……っ」

「ちょっと、声が大きいよ……」

 驚いたことに、私の両親はまだ起きていたようです。起きて愚痴やそしりを、吐いていたようです。

 寝室からはわずかに暖色系の光が漏れていました。


「だから私、あなたの町に住みたいって言ったのよ! お母さんが亡くなって、やっと解放されると思ったのに……。あの子さえ……哀さえ、いなければ……!」

「おい、言いすぎだって……」

「だいたいあの神社、ヘビが多くて近寄るのも嫌なのよ! 知ってる!? あの子、そのヘビが弱ってたか知らないけど、家に持って帰ってきたのよ!? それで、ヘビのエサのために深夜に冷蔵庫を漁ってたの……本当、思い出しただけでも気持ち悪い!」

「あぁ、なんか怒ってた日、あったね」

「それで、ヘビを触った手でそのまま食材に触れてんのよ……? 信じられない! しばらくあの冷蔵庫、触りたくもなかったわ……」


 動くことが、できませんでした。


「私は、あの子が、理解できない……!」


 とりあえず、冷蔵庫からは手を離しました。


「可愛げもないし……ただ、不気味なだけ! たまに、気味が悪いのよ……あの子……っ」


 仕方ありません。ヒドラには、明日の自分の弁当をわけることにしました。


「成長するにつれて、あの子のやること為すこと、全部が目について、イライラすんの……。きっとあの子、私の一番嫌いなタイプの人間なのよ……」


 明日の弁当は、いつもよりちょっとだけおかずの種類を増やそう。そう、思いました。


「お母さんも、あの子に変なことばかり吹き込んで……。本当、どうして、あんな子が……」


   *   *   *


 私は再び床に就き、目をつむりました。

 カエルや鳥の鳴き声はもうほとんど聞こえないのに、両親の声が、なんとなく耳に届いて……うるさくて、眠れませんでした。距離があるのでなんと言っているかはわかりませんが、ただ、あのわめき散らすような声の調子が、ひどく耳障みみざわりでした。

 目をつむることはできても、耳を閉じることができないのですから。


 それから10分経っても眠れず、強くつむった目が少し疲れた頃のことです。

 私は、今日あったことを――ヒドラのことを、思い返すことにしました。

 何かに集中していれば、外の音も気にならなくなり、きっとその内眠れると、思ったからです。

 ヒドラと出会った、あの時のことを――


   *   *   *


 その生物は、今までに見たことがないものでした。

 昆虫のような節もなく、爬虫類のような鱗もなく、哺乳類のような体毛もなく、鳥類のような翼もなく、両生類のような手足もなく、魚類のようなエラもない。

 まして人間とはかけ離れた姿……。どちらかというと、深海にでもいそうな奇体。

 ですが、ここは森の中です。それに私の目が確かならば、そもそもこの生物は神社の御神体の、土偶の中から出てきたのです。

 御神木おかもとくんが、尻もちをついて驚いたのにも頷けます。


「こん化け物がおること知れたら……村中、大騒ぎばい!」


 ですが私にはなんとなく……不気味とも、恐ろしくとも、思えなかったのです。

 むしろどことなく哀れで、愛おしさすら感じました。

 ……きっと、大昔から避けられて、こんな神社の中に封じられてきたのでしょう。

 私と、同じように……。

 今、御神木くんが気味悪がっているように――


 だってほら、体液を散らすのなんてお構いなしに、しきりに首を振って辺りを確かめようとする様は――まるで、未知の世界に放り込まれて、周りを右往左往する子どものようではないですか。大きな瞳を輝かせて、世界を知ろうとする、かわいいかわいい幼子のように――

 その時、気づいたのです。この生物には眼球がない。鼻もない。およそ感覚器官と呼べるものが、ほとんどないのかもしれません。

 そんな生物にとって、今の状況は〈恐怖〉そのものなのではないでしょうか。

 私たちだって暗闇に突然放り込まれたら、あわてふためくに違いありません。もしかしたら、怖くって、へたりこんでしまうかもしれません!


「目が…… 見えてないんよ!」

 そのことに気づいた時には、うに駆け出していました。

「ひっ……比良坂!?」

 太い首を、後ろ手にやさしく包み込みます。

 一瞬、びくりと驚いたようですが、当然でしょう。向こうからは、何も見えていないのですから。

 両手の中から逃れようと、首を振ります。粘ついた体液が飛び散り、目や口にかかりました。しかし、ここでこちらが驚いてはいけません。こちらの動揺や恐れは、動物にも伝わるものなのでです。


 白い体液がつたう左目をつむって、だまって相手が落ち着くのを待ちました。

 ずっと抱いていると、動きが安らいできた様子が伺えました。

「よしよし……」

 首から頭部にかけてを、ゆっくりと撫でてみます。

 体液で濡れているからでしょうか、表面はひんやりと冷たい。ですがずっと手を当てていると、その芯は暖かいのがわかります。

 てのひらを通して、この子の体温がじんわりと伝わってくるようです。

 次に、胴体の裏側に手を回してみました。もう困惑の様子は見られません。

 重力で体液が下側に垂れるからなのか、いやにぬるぬるしていました。ですがそこには動脈のようなものが集まっており、 どくどくと、時折びくりと、うごめいているのが分かります。

 その不思議な感覚が、なんだか妙に心地よかったことを、覚えています。


 ああ、この子はきっと、神様の贈り物なのでしょう。

 いや、お婆ちゃんの贈り物か――もしくは遺産……忘れ形見なのかもしれません。

 お婆ちゃんが死んで、ヒドラが殺されて――拠り所のない私に、お婆ちゃんが渡してくれた。その二つに導かれるようにあらわれた、この子は――


「かわいいなーー」


 思い至るより先に、口から言葉が出ていました。


 ヒドラ。

 そう、この子は、ヒドラなのです。

 ヒドラが、私のもとに帰ってきたのです。

 ヒドラはやっぱり、不死身だったのです!


「この子は……ヒドラは……、私が…… 育てるたい」


 ヒドラはすっかり、私に身体を預けきっていました。体重がかかっているのがわかります。

 安心しているのか、もしかしたら、微睡まどろんでいるのかもしれません。

 かわいいかわいい、私のヒドラ……。


   *   *   *


 はやく、はやく、ヒドラに会いたい……。

 私にはもう、ヒドラしか――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る