比良坂 哀 Ⅰ(1999.6.21)「死と復活」※挿絵あり

 いつものように、水槽前にしゃがみこむ。

 放課後の第二理科室。ここは私の特等席です。

 第二理科室は旧館にあって、今はほとんど使われません。実験用の大きな机は白い塗装が剥げ、ところどころが欠けています。黒板に留めてあるプリントは、いつのものかわかりません。水槽のフタにはうっすらとほこりが積もっていて――そういった古ぼけた感じが、私の心を落ち着かせます。

 おばあちゃんの家に、どことなく、似ているからかもしれません。


「ねぇヒドラ……昨日な、お婆ちゃんが死んだったい……」


 いつものように、ヒドラに話しかけます。

 水槽の中のヒドラは、窓からすり抜けた夕日を受けてきらきらと光っていました。電気を点けていないので、そのきらめきがよくわかります。ヒドラは小さく踊るように、動きます。そのふよふよとした動きが、とてもとてもかわいいのです。

 水槽に、人差し指をくっつけます。ひんやりとしていて、でも、ほんの少しだけ温かい。

 ヒドラの温度が、指を通して身体の芯にまで染みわたってくるようです。


「お父さんとお母さんは、私んことが好かんけん。話し相手は……ヒドラだけになっちゃった……」


 ふよふよ。ふよふよ。

 ヒドラが何を考えているのか、私の言葉に反応しているのかは、わかりません。

 それでもヒドラを見ていると、なんだかとても、落ち着くのです。この不思議ないきものに、どうしてか心が惹かれて、やまないのです。

 だからヒドラは、私の唯一のお友達なのです。

 お婆ちゃんも死んでしまったから、もう私には、話し相手はヒドラしかいないのです。


 その時、教室の引き戸が荒っぽく開けられました。廊下の光が薄暗い教室に――私と水槽に差し込みます。私とヒドラの空間は、乱暴に壊されたのです。

 理科の先生かしら――という疑問は、騒々しい声にふっと消され――


「今日のバスケもこいつのせいで負けてさァ……ったく、協調性ねぇ奴にチームプレイさせんなって、話よねェ」


 わざとらしくて嫌みったらしい、ナミの台詞。

 後ろに連れている二人が、下品に笑います。


「ねェ、毎回毎回――」


 こういう時は、無視を決め込むに限ります。どうせ、まともに会話も通じないのですから。

 でも、そんな私の態度が気にくわなかったのか、ナミは声をさらに荒げ、そして――


「いつもいつも変なことばっかり……気持ち悪ィーんだよ!」


 許せないことに、ナミは!

 水槽を――ヒドラの水槽を――机から引きずり落したのです!


 けたたましい音が――ガラスの砕ける音が、教室に響き渡りました。中の水はあふれ、床やイスに打ち付けられました。床に広がった水たまりに、夕日がきらきらと映り込みます。

 ヒドラの屍体が、きらめいていました。

「ちょ……ちょっとナミ! 先生に聞こえちゃうよ!」

 一瞬訪れた静寂を、ナミの連れが駆け寄り、かき消しました。

 その時私は、初めてナミに目をりました。


 ……猫を、思わせました。

 不必要に明るい茶髪が、綺麗にカールした長髪が、くるくるとよく動く、その大きな瞳が、口の奥から覗かせる八重歯が――猫を、おばあちゃんの飼っていた猫を思わせて――そのことが、ひどく不快でした。きっと、にらんでいたと思います。

 ナミは、私のそんな反応が愉快だったのか満足げに鼻で笑い、「行くよ」と、二人を連れて教室から出ていきました。


 水槽のあった机からは未だ水が垂れていて――ぽたぽたと、たくたくと、静かに音を響かせています。

 ガラスが飛び散り、きらきらと光る床の水たまりに、指先を浸けました。冷たくて、ただただ冷たくて――人差し指からは、赤い血がぷっつりと浮かんでいました。

 スカートの端は、みるみるうちに水に染まっていきます。

 ヒドラはもう、見つかりませんでした。


   *   *   *


 それから何秒かして、扉が再び開けられました。


「な、なんの音……比良坂! 大丈夫と!?」


 知らない人……だけど、なんとなく、見覚えがあります。たしか、同じクラスの……御神木おかもと往人ゆきと……君。


「また、ナミ達だな……まったく、なしてこんなことを……」


 どうして御神木おかもとくんが、ここにいるのでしょう。旧館に用事があったのでしょうか。

 御神木くんが何をしに来たのかはわかりませんが、私には、もう、どうでもいいことでした。だって、ヒドラはもう、いないのですから。

 御神木くんはなにか言っていましたが、よく、わかりません。たぶん、どうでもいいことです。だけど、御神木くんしかいなかったので、私は彼に言う体で、呟きました。

「知っちょる? ……ヒドラってな、不死身の生物なんよ……。ヒドラを構成しちょる幹細胞は……無限に増え続けるらしいけん……。つまり……老化が起こらんと……寿命を持たん生物らしいんよ……」

 詳しい意味は私にもよくわかりません。ただ、理科の資料集に載っていたのです。

「だから、必ず……私ん元に戻ってくると……」

 目の奥の方が熱くなり、えられずに涙をこぼしてしまったのは、自分の発言が叶わないことを知っていたからでしょうか。

 わかりません。

 ただただ、わからず、悔しいぐらいに涙があふれました。

 スカートの端が、水に濡れて、暗くなって――

 その時ふと、一昨日のことを思い出したのです。

 お婆ちゃんが死んだ、その瞬間のことを――


   *   *   *

 

 言葉が、出ませんでした。お婆ちゃんは、哀れなほどにやつれていました。

 落ちくぼんだ眼窩がんか。青白い静脈と骨、関節の浮き出た、薄く乾いた肌。唇は色を失い、つやを失った白髪はまるで濡れているかのように肌に張り付いていて……幾筋いくすじかはほつれて目にかかっていました。

〈お婆ちゃん〉とはとても認めがたく……老婆とでも言ったほうが正しいような風貌……

 鼻にはチューブが押し挿れられ、腕には点滴が射され――一人ではまともに生きることのできないその姿が、ただただ、哀れでした。

 ――それは、直視し難いほどに――目を、背けたくなるほどに――


 救急病室のいやに白いベッドの上に、お婆ちゃんは寝かされていました。今までに見たことがないくらい、胸が苛烈かれつに上下しています。痩せこけて、肋骨が強調されているからでしょうか。だけどその動きは不規則で、痙攣しているようにも見えました。

 喉からは時々、呼吸が詰まったような、とても人の声とは言えない、苦しそうな音が聞こえます。


「今、右の肺が真っ白でね……片方の肺だけで呼吸しよっと……」

 年に一度会うか会わないかの親戚の人が、理由を教えてくれました。


 入院中の人にお見舞いをしたことは今までにもありますし、亡くなった人の顔を見たこともあります。それでも、こんな危機的な――いわゆる危篤状態の人を目前にしたのは、初めてのことでした。

 もちろん、映画なんかでは見たことはあります。ですがそれは、これほどまでに目を背けたくなるような、見難いものではありませんでした。

 ……それでもこれが、なのでしょう。目を背けては、ならないのです。

「ほら、お婆ちゃん、哀が来てくれらしたよ……」

 その瞬間、祖母のあごががくんと傾き――そして――声にならない声を、上げたような気がしたのです。

「お婆ちゃん……?」

「え!? 意識……なかったとに……」

 まぶたが、僅かに開きました。

「お婆ちゃん! 目が! 目が、開いちょるよ!」


 閉じられたまぶたを、無理矢理開いているような感じでした。ずっと目をつむっていたからでしょうか、目やにが酷くて、まぶたが癒着しているようでした。

 黒目が、私を捉えます。瞳孔は、濁っていました。

 顔も、少しだけ私の方を向いた……そんな気がしました。

 顔を近づけると、赤ん坊のような匂いが鼻につきました。……蒸れた乳の匂い。

 そしてすぐに、瞳は他所よそへいきました……。


「おばあちゃん! わかる!? ここ、病院なの、わかる?」

「びょ……ん……」

「哀が……哀が来てくれたんよ! それで、目が覚めたんね……!」

「おばあちゃん……!」

 ようやく、私は口を開くことができました。


「…………あい……」


 哀。

 私の名前。

 私の名前を呼んだのです!

 瞬間、瞳の奥から、何かが溢れ出そうになりました。でも、まだ!

 まだ、流してはいけないと言い聞かせ……こらえ、私は目を見開きました。


 無意識のうちに、祖母の手を握っていました。

 暖かく、そして、力強い。痩せこけて、自分一人の力では生きられない人の手とは、とても思えませんでした。

「凄い……! 反応が……さっきまで、こぎゃんことなかったんに……哀が、来てくれたからたいね……! 私、ちょっと、先生呼んでくるけん……っ」


 叔母さんが病室を出たと同時に、お婆ちゃんは痩せこけた腕をあげ、しわがれた声で、「哀や……」と私を呼びました。わずかにしか開いてなかったまぶたが、半開きになって――顎は上を向けたまま、焦点の合わないまま、精一杯、言葉を紡ぎだしました。


「こん鍵ゃ……岩屋ん中の祠んたい……」

 右手には、びかけた小さな鍵がつままれていました。私はを、その右手ごと、両のてのひらで強く握りました。


「うちら…熊襲くまそは、昔っから迫害されてきた……きっと、こんからも……」

 酸素マスクが白く蒸気する。語尾は今にも消え入りそうです。

「死にたけりゃあ、死ねばええ……ばってん、生きたきゃあ……生きれぇ。な事も壊して、他者を喰らってでも、生きりゃあ、ええ……」

 本当に、回復したのでしょうか……いや、そうではないのでしょう。私は、わかっていました。なんとなく。

「だけん、今日まで生きててん……」

 これは、いわゆる小康しょうこう状態。蝋燭ろうそくの日が消える前の、一瞬のともしび。

 つまりこれは、遺言なのです。

「だけん、哀……あーた、も……」

 もたげられていたお婆ちゃんの右手が、落ちました。支えを失った建物のように。

 手首にくくられていた勾玉が手すりにあたり、音を立てました。かつんと、小さな音を。

 私の手にはもう、はなく――

 ただ、が――が残されているだけでした。


 瞬間、抑えていた涙が、こぼれました。


   *   *   *


 ――神社へ、行こう。

 お婆ちゃんが残してくれた、神社に――

 私には、お婆ちゃんが残してくれた、が、あるのだから――

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