第1章
御神本 往人 Ⅰ(1999.4.24)「ヘビと比良坂」
その時、教室にヘビが現れたのだ。
とはいえ、それほど珍しいことではない。
僕たちの学校では、一年に一回くらいの頻度で、教室にヘビが紛れ込む。ずいぶんと古く、その上校舎の裏側には深い山が広がっているからだ。
とはいえ動揺しないわけにもいかず、教室には叫び声が響き渡った。
授業が中断される。
女子たちは机を倒し、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ヘビ! ヘビ!」
「なして教室に……」
「どっ、どこ……!?」
気持ち悪いし、もしかしたら毒を有している可能性もある。逃げるのは、極めて普通の反応だ。
しかしヘビというのは、後ろから頭をつかむように持てば、身体の構造上、噛みつかれることはないという。兄ちゃんの本か何かで、読んだ気がする。
授業を混乱に
恐れることはない! 自分ならできる!
……いや、このことを知っている、自分にしかできないんだ!
――そう意気込んだものの、足は一歩も動かなかった。
だって、仕方がないじゃないか。もし毒ヘビだったら……万が一失敗して噛まれでもしたら、生死にかかわることにでもなったら……きっと学校にだって、迷惑がかかる――なんて、そんなのは、いいわけだ。
本当は、ただ怖くて、気持ち悪いから。
だって、仕方がないじゃないか。僕は、普通の人なのだから。
勇気も実行力もない、凡人なのだから。
ヒーローでは、ないのだから――
――その時。
教室の床を這っていたヘビを、一人の少女が
「え?」
「誰っ!」
「ひ……比良坂さん!?」
ヘビを取り上げた少女。
女子にしては珍しいくらいに短く切り揃えられた黒髪。頭部のシルエットは丸く、一見少年のようにも見える。
だがその後ろ髪は竹製の平かんざしで
かんざしの先端からは花を
手足は細く、長い。右腕には白い包帯をまいているが、その肌は包帯よりも白かった。病的なまでに、白かった。紺の靴下とスカートに、よく映えた。
白いセーラーの上からでもわかる胸の膨らみに、ヘビがもたげた頭を乗せる。比良坂は薄い唇を微笑ませ、ヘビの顔を覗いた。
比良坂の瞳は、黒かった。単純な黒目の黒さではない。暗く、
それはまるで、黒いガラス
見ていると吸い込まれてしまいそうな、深い深い夜のような瞳だった。
「いかんよーおまえ、こん所に来ちゃー。ヘビは嫌われとっけん……赤ん坊も外人も本能的に恐れるって、新聞かなんかに書いてあったたい。集合的無意識? って言うらしいんよ……」
まるで猫とじゃれあうような表情で――赤子をあやすような声色で、ヘビと触れ合っている。
ヘビに向けられた比良坂の微笑みは、優しげだった。白い頬もこころなし赤らんでいるように見える。
そんな柔らかな眼差しは、今まで見たことがなかった。
この女は狂っている。
そう思った。
「ヘビと喋っちょる!」
「気持ち悪かー」
その光景は間違いなく異様で、不気味なはずだった。
だが、僕にはどうしてか、温かく、神秘的な光景に映った。
自分にできなかったことを平然とやってのけた比良坂がうらやましくって、悔しくて――だがそれ以上に、間違いなく、見惚れていたんだと……思う。
彼女に見惚れていたのか、それともその柔く淡い光景に見惚れていたのか――
あるいは、その両方かもしれない。
* * *
普段から無表情で、無愛想で、(周りの女子たちによれば)言動がおかしな比良坂は、この一件で完全に周りから避けられるようになってしまった。
しかし、僕はこの一件以降、比良坂のことが気になって仕方がならなくなってしまった。
気がつけば彼女のことを目で追い、彼女の一挙一動が気にかかり、寝ても覚めても彼女のことを考えた。
その顔に魅了されたのか、普段の表情とのギャップに心を掴まれたのか、直接頭の中に響くような声の
あるいは、そのすべてかもしれない。
いずれにせよ、僕は心を奪われた。
その真っ黒な瞳が、その滑らかな白い肌が、包帯を垂らす細い腕が、スカートと靴下の間に映える脚が、控えめな桜色の唇が、細く柔らかな髪が、僕の心を惹きつけてやまなかったのだ。
* * *
〈ヘビ事件〉から二ヶ月、僕は未だに比良坂と関係を持てないでいた。たまたま彼女とすれ違っても、何を話しかければよいかわからなかったのだ。
他愛のない雑談でもすればよかったのかもしれない。だがそうはさせない雰囲気が、彼女の周りには漂っていた。
代わりに、今まで視界の外にあった比良坂のことがだんだんと見え、わかってきた。
――何が好きなのか、誰に嫌われているのか。
このまま一言も会話を交わすこともなくクラスは変わり、そして卒業してしまうだろう……そう思い始めていた頃のこと――
その時は、突然訪れた。
偶然を装って比良坂と接触するべく、放課後、旧館をうろついていた時のことである。
――僕は、初めて彼女と会話を交わした。
それがすべての始まりであり――
そして、すべてが終わったのだ。
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