御神本 往人 Ⅱ(1999.6.21)「邂逅」※挿絵あり

 ガラスが砕ける音が聞こえ、第二理科室へ走った。

 下校時間ギリギリの放課後。陽はもう暮れかけていた。


 第二理科室は旧館にある。

 旧館のほとんどは木造で、いたるところにヒビが入っている。ところどころがカビで黒ずみ、窓枠の金属部はさびを吹いていた。

 放課後は人気ひとけもなく、電気も点いていない。静かで、暗くて、どことなく恐ろしげだ。

 廊下は夕日で赤く染まり、床には窓枠の影がくっきりと濃く、映っていた。

 廊下が、燃えているようだった。不安が、緊張が、加速する。


 こんな時間に第二理科室にいるのは彼女に違いない、そう確信していた。だから僕は、この辺りをうろついていたのだ。

 偶然を装って、彼女と出遭うために――

 気になってやまない、比良坂ひらさかと関係を持つために――


 ――だが、今の音は。

 ガラスが割れたような音は。

 うろついているわけにはいかなかった。

 だから、理科室へと走り――


 ――その時。

 金髪の女生徒と目があった。

 ナミだ。

 宗像奈美むなかたなみ

 そして、理科室から出てきた――その連れの二人。真希まき八江やえ

 ナミはその猫のように大きな瞳で僕をきつく睨むと、鋭くきびすを返し、廊下の奥へと消えていった。短いスカートとセーラーが、ナミの白い脚とヘソを夕闇に晒した。


 目が覚めたように、一瞬、止まった時を取り戻す。

 ナミたちが出てきた教室――第二理科室の引き戸を、勢いよく開けた。

「な、なんの音……っ」

 古めかしい木造り特有の扉がうるさく響くのと同時に、声を上げた。


 ――だがしかし、こたえはなく。

 眼前に在るのは、砕け散った硝子ガラス。机から垂れる雫。そして、おびただしい量の水――恐らくは、落下した水槽。電気の点いていない教室。窓から差す夕日。水に照りつく西陽の赤。硝子ガラスの破片にきらめく光。

 そして。

 比良坂。

 彼女が、比良坂哀が、膝をついてうつむいていた。

 うなだれた髪に隠れ、表情は見えない。スカートは水に濡れていた。


「比良坂! 大丈夫と!?」

 呆気にとられ、声を出すのが遅れる。

御神本おかもとくん……」

 比良坂の声には、抑揚がなかった。

 後ろ髪を結ったかんざしが、きらりと輝いた。


 ナミだ。

 ナミ達の仕業だ。

 ナミは、何故か比良坂のことを目の敵にしている。こうして、隠れてイジメをしているのだ。

 これは……水槽の水をかけられたのだろうか。

 酷い。

 なんて、酷い。


「また、ナミ達だな……。まったく、なしてこんなことを……」


 比良坂は、答えない。表情は髪に隠れて見えない。

 その時、割れた水槽にシールのようなものが貼ってあるのが見えた。

 何の水槽かを表す、種名の書かれたシールだ。

『花クラゲ目 ヒドラ科 ヒドラ』

 古いようで少しかすれていたが、確かにそう読めた。


 ヒドラ。

 全長1センチくらいの水棲微生物。

 比良坂はなぜか、理科の授業で紹介されたこのヒドラという生物を気に入り、ずいぶんとかわいがっていた。半透明の身体から九本の触手が放射状に生えている、この生物を。

 だから比良坂は、この第二理科室によく入り浸っていたのだ。第二理科室には、ヒドラを飼育している水槽があった。ヒドラなんてかわいがるのは、比良坂くらいのものだった。


 ――つまり、この水槽は。

 この、床に広がっている水には。

 ――ヒドラが。


 酷い。

 あまりにも、酷い。


「な、なぁ、比良坂……今度またなんかされた時ゃ……ぼ、僕に……」

 恥ずかしくも口元がおぼつかず、その先は言えなかった。

 比良坂は、答えない。表情は髪に隠れて見えない。

「比良坂……?」

 自分の声が震えているのがわかる。どうして比良坂は、何も答えてくれないんだ。どうして顔を上げてくれないんだ。

 背筋に寒気が走る。つばを飲み込む音が響いた。

 ――その時。


「知っちょる?」

 抑揚のない声だった。

「……ヒドラってな、不死身の生物なんよ……」

 抑揚のない声で、比良坂は言葉を続けた。

「ヒドラを構成しちょる幹細胞は……無限に増え続けるらしいけん……」

 表情は、髪に隠れて見えない。

「つまり……老化が起こらんと……寿命を持たん生物らしいんよ……」

 怖い。

「だから……必ず……」

 眉をしかめる。視界が狭まる。

 教室が、燃えているようだった。

「私ん元に戻ってくると……」


 比良坂の言っていることは、伝えたいことは、僕にははっきりとは理解わからなかった。

 ただ、彼女の声が涙ぐんでいることだけが――しかし涙はこぼさぬよう、自分をさえつけていることだけは――理解わかった。

 そして、ヒドラとの再開を望んでいることは、いたく伝わった。


 それが、彼女と交わした最初の会話だった。

 しかしこの時、僕は思ってもいなかったのだ。

 まさか本当に、ヒドラと再開することになろうとは。

 そして、これがすべての始まりに――終わりの始まりになろうとは――

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