ナトルと山の水琴(二)

 どのくらいのあいだ、そうしていたでしょう。

 ふたりはもう言葉を交わしませんでした。ただ、大地から発せられる細やかな音が、岩に草に、長にナトルに染みこんで、すべてをひとつにふるわせます。

 ナトルには頭上をいく日も月も、樹海をいろどる春夏秋冬も、そこにあってなお消えてしまったような、自分とそのほかのものの、さかいがなくなっていくような気がしました。


 はたして、ナトルの体はいつしか岩にもひとしく硬くなり、翠の苔がへだてなく生えました。

 長のすがたも同じように山へととけました。いくどとなく降った雨が全身をうがちましたが、ナトルには、その雨音さえも自然、美しい調べとして届きました。


 数えきれないほどおとずれた春のうちのある日。岩となったナトルのうえに、なにものかが落ちてきました。

 ナトルのまぶたのうちがわには、すぐに一羽のシジュウカラのすがたが浮かびました。

 この鳥は、どうしたことでしょう。芽吹きの季節のなかにありながら飛びかたを忘れ、もはや、ぐぜり鳴くこともできないようでした。

 もがくばかりのちいさな温もりに、ナトルの胸は痛みました。

 (これは、あのときのシジュウカラじゃないか。そして、あのときのわたしでもある。わたしは、わたしのほんとの願いにみちびかれて、ここまで来たのだから)

 ほんとの願いひとつをたよりに、道から道をさまよい歩いたかつての日が遠く、また近く思いだされます。


 (あのとき、わたしは鳥の長にむかえられて山の岩となった。それならこんどは、わたしがこの鳥をむかえてやりたい。そして叶うのなら、ああ、もういちど、その声と羽とを生かしてやりたい!)

 切なる想いは、まぶたをおおう苔にひとしずくのつゆを生じさせました。

 ころがり落ちたしずくが、雨水にうがたれた胸の穴をとおりぬけ、体を底のそこからふるわせたとき、ナトルははじめて自分のなかから切なさといつくしみとに満ちた音が生まれてくるのを聞きました。


 それが呼び水となったのでしょう。あとから、あとから露は生まれ、しずくとなって落ちました。

 ぱたぱたっと、いく粒かが、やせた鳥の頬をたたきます。

 シジュウカラは呼び覚まされて、ふたたび目を開けました。そして、さきほどよりもずっとしっかりしたようすで、くぼみにたまった露をなめました。

 ナトルは、もう大丈夫だと思いました。

 (わたしの願い、ちいさな温もりよ。いくといい。それが真実、ほんとのものならば)


 シジュウカラは、やがて命を取りもどすように、その場で二、三度はばたきをしました。

 しずくがいくつもころがり落ちて、大地深くをふるわせます。ちいさな願い、その温もりは、みずからの羽を広げて、こんどこそ岩場から飛びたったのです。

 明るくうるむさえずりがどこまでも自在に宙をいき、樹海によくこだましました。


(おしまい)

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ナトルと山の水琴 きし あきら @hypast

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