ナトルと山の水琴

きし あきら

ナトルと山の水琴(一)

 ナトルは山麓さんろくの樹々のしたをいきました。


 最後の村を出たのは、もういく日前のことだったでしょう。着ものも靴も歩きどおしのために、やぶれてぼろぼろになりました。

 そればかりか食べものも飲みものも、このところすこしも口にしていませんでしたので、ナトル自身、このまま樹々のなかに行きだおれてしまうのだということが分かりました。

 そして素直な気もちで、それでいいとも思うのでした。

 (ああ、けれどもとにかく、最期にいちばん美しい音を聞いて眠りたい!)

 世界でいちばんの歌いてになるために故郷を発った若者の願いは、いまやひとつかぎりでした。

 (ああ、けれどもとにかく……)

 喉はもうからからに乾いてふるえませんが、両の鼓膜こまくはあたりの音をもらすまいとふるえます。

 そのときナトルはたしかに、鳥のさえずりを聞いたのです。


 ――こっち、こっち、こっち。


 呼びごえに顔をあげると、一羽のシジュウカラが鳴いているのでした。ひと足、ひと足、枝から枝へとうつっては山のおくへとすすんでいきます。

 ナトルは不思議にみちびかれるままに、愛らしい声を追いかけて山道を踏みわけました。


 そうするうちに、ぽっかり開けたところに出たようです。

 シジュウカラは軽やかな羽音を残していってしまいました。かわりにいまは、あちらこちらから、たまをころがすようなんだ音が湧いています。


 この深い樹の海は大昔に流れでた溶岩ようがんのうえにできたものでした。

 そのむき出しの黒い岩々、でこぼこの道ともいえない道を、いまは草や苔の湿ったみどりがおおいつくしています。涼しげな音は、その地面のしたから響いてくるのです。

 体ばかりでなく、心のすみまでもすすぎ清められる思いで、ナトルはひざをつきました。耳を押しつけた、やわらかな苔が伝える音といったら!

 山のうちに染みいった水は青く冷たく、溶岩石の空洞くうどうをとおっていきます。

 それはほんとうに玻璃はりでできた鈴が、玻璃の管をころがるような、透明な音を生むのです。この自然はいくらもの時間をかけて、稀代きたい水琴すいきんをみずからにこしらえたのでした。


 いつのまにかナトルの前に、あらたな鳥がすがたをあらわしていました。

 大きな岩のうえに身を落ちつけて、ナトルを見おろしています。その岩と同じくらいある黒い毛のからだから、ところどころ――例えば両羽や尾のさきといったところから――長く白い毛が滝のように噴きだしています。おなじように長く垂れた白眉のしたの目は、草や苔の翠をしています。


 ナトルにはすぐに、この鳥がただものではないことが分かりました。そして、ひょっとしたら自分はもう眠っているのではないかしら、とも思いました。

 そこでナトルは丁寧にあいさつをしました。

 (そこにおられる鳥の長よ。どうかここで、わたしに最期のときを迎えさせてください)

 声にはなりませんでしたが、長は心得たと見えて、くちばしをゆっくり動かしました。

 (よろしい。そこに直りなさい)

 ナトルは地面から耳をはなすと、長の向かいの岩に座りました。それからまぶたを閉じて、水琴の音色に耳をかたむけました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る