白銅貨

安良巻祐介

 

 「火蜥蜴(サラマンドル)」とか何とか、そんな店名であったように思う。

 確かその時季節は冬で、僕はひどく腹を空かして、夜の街を歩いていた。

 酔っていたわけでもないのに記憶に靄がかかっていて、なぜそんなことになったのか前後関係を思い出せないのだが、そこは全く知らない土地であった。僕は自分が今どこを歩いているのかさえ判然としないまま、彷徨していたのだ。

 時刻のせいか人通りは疎らで、ひどく寂しげな音楽がどこかの路地裏から低く流れていたのを覚えている。

 空腹であったから、とにかく店へ入って何か食べたいとそればかり考えていたが、生憎とそんな時に限って、定食の一つどころか珈琲一杯に足るか足らぬかというような金しか持ち合わせていなかった。

 しかしこの際珈琲だけでもいいから、何か腹に入れて、寒さと空腹をまぎらわせたかった。

 よく考えれば飯代よりもそこから帰る駄賃の心配をするべきなのだけれども、その時はなぜかそちらについては何も考えておらず、実際のところ、その後どうやって帰ったのか全く覚えていない。

 僕がこの思い出を夢の中の出来事ではないかと疑う理由の一つがこれである。

 ともかく、左右に素早く目を走らせながら店を探していた僕は、やがて右手の一軒に目を止めた。

 その店は、軒先に装飾の入った大きな金のランプを掲げていて、その中では、あかあかと炎が燃えていた。

 看板代わりに、体を丸めた蜥蜴の姿を打ち出した銅版画が下がっていた。

 僕は炎の輝きに惹かれるように、地下へ掘り込まれた、その店の入り口を下って行った。

 木製の小さな扉を開けると、何かの香料の香りがかすかにして、ぼんやりしている僕を、大きな眼鏡をかけた、痩せぽちの主人が奥へと案内してくれた。

驚いたことにそこは個室のようになっていて、人が二人ほど腰かけられる狭いスペースだった。

 何となく入って来てしまったが、もしかすると懐の金では何も頼めないような店ではあるまいかと今さら不安になった僕は、そこにあった、古いノートのようなメニューを開いてひとまず安心した。さして安くもないが、高くもない。珈琲も、茶も、酒もある。

 これならば、暫しの間、飲み物一杯でもぬくぬくと憩えそうだ。

 僕は少し迷ってから、赤酒を一杯注文した。

 その時、主人が、妙なことを言った。

 「この店では、何か一つ古いものを頂ければ、それで料理をお出しします」

 何のことだかよくわからず、僕は幾度かその言葉を聞き返したのち、その古いものが何でもよいと言うのを確かめると、外套の裏をひっくり返して、あれこれ探した。

 すると、隠しの中から、一枚の白銅貨が転がり出てきた。

 それは、痩せ頬の西洋人の横顔を打ち出した、在りし日の祖父が酔っぱらいの折りにくれた品であって、だいぶ長いこと、失くしたと思い込んでいた代物であった。

 こんなものでもよいのかと尋ねると、それでよいと主人が言うので、僕は特に思い入れもないその古びたコインを放り渡し、料理を頼んだ。

 主人が下がった後で、席のそばの壁に掛けてある、西洋のらしい時計の絵を眺めていると、自然と大きなあくびが出た。

 歩き疲れていたところへ来て、この店の温かさ、狭いながらに一人きりの席の心やすさ、料理を頼んだ安心感などから、眠気が襲ってきたのである。

 僕は頬杖を突き、うとうとしながら、料理を待った。

 絵の中の時計は、まどろみの中で見つめていると、そんなわけはないのだが、針が動いているように見えて仕方がなかった。

 白くぼやけた視界の中で、時計の針が丁度一周したように思われた辺りで、赤酒と料理が来た。

 平皿の上にはワインで煮た何かの肉、添えられた白パン、深皿には野菜のスープが入っていて、想像していたよりも量は多い。

 僕は、思わぬ御馳走に舌鼓を打ちながら、主人に、なぜこのようなサーヴィスをしているのかと問うてみた。

 「思い出というのは、数字に換算の出来ない価値があるものです。月並みな言葉ですけれどもね」

 その顔に浮かぶどこか謎めいた笑みに、僕は、何となく、壁の時計の絵と似たものを覚えつつ、黙ってフォークとナイフ、スプーンを動かし続けたのである。

 料理をたいらげたのち、たっぷり一時間ほどをかけて一杯の赤酒をやっつけ、僕は深々とお辞儀をする主人に見送られて、店を出た。

 腹は満たされたけれども外の風は相変わらず寒く、いくらか酔いの回った頭で、僕は、再び街を歩き始めた。

 主人の言葉が何となく頭の中に引っ掛かっていて、僕は失った白銅貨のことを、懐を探りながら、思い返したりした。

 けれども、それで後悔するまでのことはなく、ただほんの少し寂しいような気持ちが胸を掠めただけであった。或いは、僕がもう少し年老いていれば、また違ったのかもしれない。

 この夜の事は、先に言った通り、どこか夢の中の出来事じみているのだけれども、少なくとも確かに、それ以来、僕が祖父の白銅貨を見つけることは二度となかったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白銅貨 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る