第2話空っぽの王子様 1
空は曇っていた。
薄灰色の雲に覆われて、けれど雨が降らない曖昧な状態だ。
この国――レーヴェンス王国の状況とよく似ている、とリエットは思う。
隣国にじわじわと侵略されつつも打つ手がなく、決定的瞬間を待つだけの日々。
逃げ出せる者は、戦場から遠い西へ移った。
少なくとも王都にいるよりは安全だろう。戦闘に巻き込まれない場所で、主権者が変わるのを息を潜めて待つことができる。
残された者は逃げ出すこともできず、今まで通りの日々を送ろうとしていた。が、心に溜まっていく影は暗く、外へ出る気力を奪っているのか人通りもまばらだ。
市場も同じだった。
陥落間近と言われる王都へ品物を運び込む者も少なく、閑散としていた。人が少ないというだけで、屋根代わりに張られた緑や黄色の華やかな布色が、ひどくむなしく見える。
そんな市場の中を、淡い紅茶色の髪をなびかせてリエットは歩き続ける。
リエットは、逃げ出す気がない方の部類だ。
唯一の肉親だった父も、国境の戦いで失った。まだ喪も開けていないので、彼女は黒のブラウスに葡萄酒色のスカートという、地味な服装をしたままだ。
頼れる親戚もなく、だから王都と一緒に破滅してやれという気持ちでいた。
同じような人が、今の王都には溢れている。
「夫の遺体が戻ってこないの……」
リエットと似たような、黒っぽい服装の婦人達が市場の隅に固まって話し込んでいた。
「となりのローエンさん、お子さんが戻ってきたのに、また招集がかかったって泣いていらしたわ」
「こんな状況なのに、奥様お聞きになった? また『空っぽの王子』が行方不明になったって」
「戦争中だってことを、わかっていらっしゃらないのではないの? ただでさえ王族方はみんな頼りないのに……」
空っぽの王子、というのはレーヴェンス王国第一王子のあだ名だ。
そもそもレーヴェンスの王族には、それぞれあだ名がある。
第二王子が暗闇の中でうっすら光る蛍石。王妃が真昼の夜光虫と呼ばれ、王様がのらりくらりとした泥鰌だ。全員にあだ名がついている王族というのも珍しかろう。
そして次代の王になるだろう、王太子ジークリードが『空っぽ』だ。
由来は、どうやら幼い頃に空くらげに襲われたことらしい。
衝撃のあまり、しばらくの間は話しかけられてもぼーっとするばかりだったせいで、空っぽの王子と呼ばれるようになったとか。
「きっと逃げたんでしょ」
おとぎ話にまで語られる大魔術『炎妖王』の使い手が、敵国にいると聞いている。どんなに屈強な兵を揃えても、炎にあらがうこともできず、ただ無駄に死なせるだけ。
国が滅ぶのは確実なので、王と王妃が世継ぎを逃がしたのかもしれない。
「まぁ、だからって第二の炎妖王になる可能性も低いでしょうね……。空っぽなら、そんな情熱は持ち合わせていないでしょうから」
リエットは心の中でため息をついた。
「それとも、いよいよ家族が炎妖王の術で死んだら、自分の命を捧げてでもと思うのかしら? 王家なら、きっと魔法に関する物だって集めたりできるだろうし」
リエットは知らず、唇を噛みしめる。
「もし、私だったら……」
立ち尽くしていたリエットは、だからすぐに対応できた。
「泥棒っ! 返してぇ!」
振り返ると、道の向こうから走ってくる男の姿があった。
その手に持っているのは、髭の濃い男には不似合いな、桜色を織り交ぜた布の手提げ鞄だ。
――ひったくりだ。
そう判断したリエットは男の前に立ちはだかる。
「どけ小娘!」
体当たりしてきた男に……
「ふんっ」
かわしざまに蹴りをたたき込んだ。
走ってきた男の勢いも手伝って、かなりの衝撃を受けたはずだ。男は腹を押さえてその場に倒れた。
男が取り落とした鞄を拾い上げたリエットは、ややあって駆けつけた女性に差し出した。
「まぁ、リエットちゃんじゃないの! ありがとう!」
リエットの父と同じくらいの年の彼女は、近所の人だった。
「マリエルさんでしたか。どうぞお気になさらず。それよりも中身を確認なさった方がいいのでは」
「ああそうね!」
逃走の途中で財布を抜いたかもしれない。確認するべきだと促されたマリエルは、鞄の中を覗き込み……すぐに微妙な表情になった。
「どうされました? まさか足りない物でもありましたか?」
「あ、あの。それがねぇ。むしろ増えてるっていうか……」
「増えてる?」
「これなんだけど。入れた覚えがないのよ」
リエットは思わずマリエルの鞄の中を覗き込む。
確かに人参と一緒に、黒い布で装丁された本が入っていた。
「なんでしょう。まさか別な人から盗ったものを、ついでに鞄の中に入れたとか……って、ちょっと!」
リエットの意識がそれた隙に、物取り男は起き上がった。気づいた時にはかなり遠くに逃げ出していた。
しかも折悪く、ぽつぽつと、黒い水染みが石畳みの上に増えていく。
リエットの頭にも落ちてきて、冷たさに思わず肩を縮めた。
「じゃ、これ私が後で公安に届けておきますよ」
本を取り上げて言えば、マリエルはほっとしたように微笑んだ。
「やっぱりアインさんの娘は頼りになるねぇ。頼んだわ!」
マリエルは雨に手をかざしながら立ち去った。
リエットも慌てて家へと走り出した。
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