雪。そして体験展示

山本ナッツ

第1話

 駅の改札口を出ると雪が舞い始めていた。空気が刺さるように冷たく、思わず小さく舌打ちする。できることなら、こんな田舎町になど来たくないのだ。しかし、私が金を無心できるのは旧知の友人Nくらいしかおらず、彼が住んでいるのがこの田舎町なのだから文句は言えない。

 昔から、なぜかNは私のことを兄貴のように慕ってくれていて、それに乗じて抵抗なく金の無心をしてしまっている。しかもNは意外にも商才があり、この町で展開しているレストランチェーンは随分繁盛しているようだった。金回りがいいらしいことは、たまに会わない私でも明確だった。とてもいい友人だった。Nに唯一改めて欲しいことといえば、携帯電話を持って欲しいということだけだった。

 雪が強くなっている。約束の時間を過ぎているというのに、Nの車が現れる気配はない。くそ、だから携帯を持てって言うのに。そうNを責めたくなるが、彼の自宅の電話号を登録していない私にも非があった。

「こりゃ積もるぞ。あんちゃん、乗ってくかい」

 ロータリーで客待ちをしていたタクシーの運転手にそう声をかけられて、そうかタクシーで行けばいいのかと思ったが、迎えに来ないNへの苛立ちから、来るまで待ち、遅れた分を金額上乗せで頼んでやろうと思った。凍えて待つ友人の姿を見れば、Nも断ることができないだろう。

 タクシーの運転手に断ると、チェーンを巻いてないから一旦引き上げると言って去っていった。駅前のロータリーには結局、人も車も、誰もいなくなっていた。

 雪だけがしんしんと降り続ける。

 もう限界だ、そう思った時には、当然乗れるタクシーもなくて、このまま待つか、電車で元の道のりを戻るかくらいしか選択肢がなくなっていた。くそ、何で今日に限ってNのやつは来ないんだ。私の苛立ちはピークになって、何のあてもなく、駅前の道を歩き始めた。

 この町に来るのは初めてではなかったけれど、雪化粧をした町並みは初めて目にする景色に見えた。そして、こんな建物などあっただろうかと思わせる、立派な白い建物が目に付いた。『人体博物館入館無料』とある。

 博物館の展示内容などまったく興味はなかったが、無料だし、おそらく暖かいだろうし、とにかく中に入ろうと歩みを進める。

 無料のはずなのに受付があり、女性から、こんにちは、と声をかけられた。

「どうもこのまま入っていいのかな?」

「はい、あの、念のため……男性の方ですよね」

「ああ、そうだが」

「失礼しましたどうぞ」

 入館時に性別を確認するなんてまったく意味が分からないと思ったものの、とにか暖をとりたいのだ。

 館内に入ると期待通り温かい空気がぶわっと身体を覆い、すぐに先がじんじんと痛んだ。大きな溜息をついた後、興味もないまま、展示室に歩みを進る。

 『人体博物館』の名のとおり、展示室にはさまざまな人間の臓器があり、驚くほどリアルだった。脳の切断面、胃から大腸までつながる消化器官、人間の形を容易に想像できる全身の血管。

 皮膚がついた展示物をじっくり見ると、産毛や毛穴まで確認するとができる。実によくできた模型だったが、自分の中にもこれらの臓器があると考えると、どこか気持ちが悪い。

 客は誰もいなかった。この雪の中、気味の悪い展示を見に来る客などいないだろう。Nの遅刻と雪という不運が無ければ、私だって入るはずのなかった場所だ。

 外で舞う雪のせいだろうか、静寂が重い。

 展示室の途中に、『標本の作り方』というパネルがあった―――標本? 説明を読んで背中が沫立つ。展示物は、模型ではなく標本で、人間の遺体から水分を除き、代わりに樹脂をしみこませて固めたものだという。つまり、私が見てきた数々の臓器は、かつて生きてどこかで生活していた誰かのものなのだ。

 もうこれ以上見たくない、見てはいけないと思う一方で、もう少し見てみたいという興味が沸く。帰ったほうがいいという思いを抱えたまま、展示の順路を進む。

 次の展示室のテーマは『人の誕生』とあり、妊娠の月齢にしたがって育っていく胎児と子宮の標本が並んでいた。子宮は前面がはがされていて、内部の胎児の様子を見ることができる。胎児の表情は穏やかで、母体とともに既に死亡しているのだと思うとなんともいえない気持ちになった。それにしても、なぜこんなにぴったりと月齢に従った遺体を標本にできるのだろう。標本から学ぶというよりも、標本を作るにいたった過程ばかりが気になり、自分はこの博物館を見る価値がないのだと思えてくる。

 ここに来てようやく真から帰りたい、と思った。もう、Nに金を借りることさえもどうでもよくなっていた。帰りたい。この建物から、そして、この街から、今すぐ出たい。

 戻るのと進むのと、どちらが早いのか分からなかったが、とりあえず順路を足早にんだ標本はまだまだ続く。それらをなるべく視界に入れないように進んでいく。

 ふいに行き止まりのようになり、足がとまった。順路が左右に分かれており、『体験展示』とある。

 体験? まさか、標本になる体験? 背筋が凍る。

 戻ったほうがいい、と振り返ると、背後の扉が静かに閉まったところだった。入るときは自動扉だったはずだ。しかし、こちらからは、近づいても、歩き回っても開かない。上部にセンサーがないのだから当然なのかもしれない。

 それならば、と無理に開こうとしてもまったく動かない。進むしかないようだ。改めて順路を確認する。

 左右に扉があり、男性用、女性用、とある。性別によって進む部屋が違う? ますます胡散臭い。どうしても進みたくなくて、スタッフオンリーの扉でも、いざとなったら窓でもいいからと見回すが、そのようなものは全く見つからない。こうなったら仕方ない意を決して、男性用の扉を開ける。

 室内は薄暗い、しかし非常に広い空間で、酷い湿度と熱気だった。

 驚くことにその源は集まった多くの男たちだった。一体何人いるだろう。展示室に全く誰も見かけなかったのに、何故ここにこんなに人が溢れているのだろう。男たちは誰も無駄口を叩くことなく、部屋の奥を睨んで殺気立っている。この光景をどこかで見たことがあると思い、そうだ、マラソンのスタート前だと思った。合図があれば、一斉に走り出す、そんなピンと張り詰めた空気が漂う。

 彼らの目指す先に一体何があるのだろう。薄暗い空間に慣れてきた目が捉えたのは、遠くに浮かぶ、大きな球体だった。球体は生き物のように表面が時々波打っていて、遠目にもぶよぶよとした物体であることが分かった。

 何故あんなものに陶酔しているように見えるのか、さっぱり分からない――そう思った瞬間に、球体の内部に何かがいるのが見えた。

 女だ。何もまとっていない、胸と尻の大きな裸体の女だった。

 女は球体の中で、男たちを挑発するように、尻を突き出したり、足を広げて見せたりしている。

 その時、ぱん、と大きな音が鳴り、男たちが一斉に走り始めた。まさに、スタートが切って落とされた感じだ。

 そして、なぜか私も走っていた。意に反して、あの場所に向わなければいけないという、本能のようなものが身体を支配していた。男たちはと前を行く人間を掻き分け、転ぶ人間を踏みつけ、進んでいく。

 N?

 集団の中に、Nの顔を見つけた。そして私はその瞬間、自分が何故ここにいるのかを思い出し、そして足を止めた。だめだ、あそこに行ってはいけない。

 向かってくる男たちにぶつかりながら、逆行し、出口を探す。外へつながる扉に続くだろう光の筋をみつけ、ドアを開ける。出られる、そう思った瞬間安堵し、思わず、後ろを振り返った。

 球体に、一人の男がぶつかり、入り込んだだった。どど、と何かが崩れる音がする。中の男たちがどうなったのか、それを確認することが恐ろしく、急いで扉を閉めた。

 扉の外は、ただの無機質な真っ白な空間で、正面に大きな自動扉があり、『出口』とあった。出口だ、出られる。

 急いで建物の外に出る。うっすらと積もっていたが、雪はやんでいた。

 もう、Nが私を迎えにくることはないだろう。私は駅に向けて、足早に急いだ。

 Nはおそらく、受精できなかった精子のように、しばらくあの部屋を彷徨うのだろう。その後、どうなるか分からない。あの博物館の標本にならないことを祈るばかりだ。

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雪。そして体験展示 山本ナッツ @kuru1796

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