第9話 夏、過ぎる。
左枝にミーちゃんをキャッチしたクロ助の叫び声は、その声が枯れるまで響き続けていた。その日から、クロ助は目も口も心も閉ざし、その根は朝露の一滴さえも受け付けはしなかった。
怪我の治ったミーちゃんが戻ってきても、住民の誰が声をかけてもその心が開かれる事はありませんでした。
日に日に、力を無くしやせ細る身体。
もう間もなく夕暮れ時と言う時間に、やって来たのは黒アゲハです。
「クロ助。お前の事はいつもトノさんから聞いてたよ。いい目をした奴が居るって。将来きっと良い実をつけるだろうから楽しみだって。そのトノさんの気持ち、無駄にするんじゃないよ」
それでも、クロ助の瞳は固く閉ざされたままでした。
黒アゲハは、天を仰ぎます。
(この子を助けて。トノさん、どうかこの子を)
土を踏む音が聞こえます。2本の手を持つ人間、ユキの足音でした。
ユキは、クロ助の前に立つと、静かに腰を落とします。
「知りたがり屋さん。その瞳をお開けなさいな。もうすぐ始まるのよ。全てを閉ざすのは、それを見てからでも遅くないわ」
空色のワンピースが、クロ助の頬を優しく撫でました。
「君は初めて見るのよね、この今日という日の夜を。ほら、あの風船達を見てごらんなさい。この北側の住民達が大切に育ててきた訳を。さあ、目を開けて」
クロ助の瞼がピクリと動きます。ずっと閉じられたままだった薄いまぶたが、小さくパリパリと音をたてながらゆっくり開きました。
その乾いた瞳に映ったものは、ほのかな光を発しながら、ふわり、ふわりと空にのぼってゆく沢山の風船達です。
「あの風船の中に、何が入ってるか知りたい?」
クロ助はこくんと首を縦にふりました。
「なら、しっかり耳と心をお開けなさい。トノさんに言われなかったかしら。心の眼を磨くようにって」
クロ助はハッとして顔を上げました。
「あの中には、この庭の想いが入っているのよ」
「想い?」
「そう、想いよ。そしてその想いは、それを必要とする者へ届けられるの」
「届く?」
「そう。その想いとは、絶望の淵に立つ者へは希望として、希望を失った者には夢として、明かりを失った者には一筋の光として、届けられる」
クロ助は、今度ははっきりと顔を夜空に向けました。
ひとつ、ふたつ、みっつ……もう今は、数えきれないほどの風船たちが辺りを優しく照らしながら、ゆらゆらと空にのぼってゆきます。
庭の住民達も、それぞれ思い思いの場所で空を見上げていました。池の三角石のてっぺんに、前足を高く上げ祈りを捧げるジョロウグモが、オシロイバナの根元には、その瞳いっぱいに涙を湛えたホタルの夫婦が、カラスウリの蔓には、いつもは騒がしいニイニイゼミがひっそりとつかまっています。
願いを込め想いを込めた風船のひとつひとつを見つめる沢山の小さな瞳に、風船たちが放つ穏やかで柔らかな光が映っていました。
やがて、最後のひとつがぷつんと小さな音を立てて枝から離れると、育った庭との別れを惜しむかのように、屋根に立つ風見鶏の上をゆっくり旋回し、やがて東からの風に運ばれていきました。
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