地獄の底

はたけのなすび

第1話

「地蔵さん、地蔵さん」

「はいはい、何でしょうか」

 

 天高く、馬肥ゆる秋のこと。尻の下に土の冷たさを感じながら、あかね色に染まったすすきの野原を眺めながら、僕は傍らの地蔵さんに語り掛けた。

 

「地蔵菩薩は、閻魔さまのお優しいお顔であるという話を聞いたのですが、これはまことですか?」

「まことかもしれませんね」

「まことでしたら、僕は閻魔さまとお話していることになるのでしょうか?」

 

 地蔵さんは見えもせぬ口を閉ざして、沈黙する。つまりは、答えないということだった。

 

「地蔵さんにも、わからないことはあるのですね」

「当たり前でございます。わたくしは地蔵であって、地蔵ではございませんゆえ」

「じゃあ、地蔵さんはなんなのですか?」

 

 再びの沈黙である。地蔵さんは小さな御影石の像なので、黙ってしまうと僕はなんとも答えられなくなる。

 僕の生きて来た歳月の中で、言葉を話す地蔵は地蔵さんだけなので、僕は地蔵さんを地蔵さんと呼んでいた。

 

「地蔵さんは、お寂しくないのですか?ここはたいそう寒いです」

 

 地蔵さんが佇むのは、三叉路の交わる点である。石でできた仏さまは、吹きさらしのまま道行く人々にほほえみを投げかけていた。

 御影石には苔が生えて、右の耳の先っぽがとれてしまっている。地蔵さんの前には縁の欠けた茶碗に入ったお水が供えられていても、お花はない。

 おしゃべりする仲になって間もなく、僕は地蔵さんにはり付いてる苔を掃除しようかと言ったことがある。

 地蔵さんの答えは、否だった。

 

────苔には、いのちがあるのです。いのちをはぎ取ることを、わたくしは掃除とは思いませぬ。ですからお花も要りません。

 

 と、そのように言われた。地蔵さんとはそういう地蔵さんなのである。

 

「いえいえ、わたくしは平気ですよ。何しろわたくしは石ですからね、石は寒いと感じませぬ」

「しかし、僕は地蔵さんを見ていると寒く思いますので、これをどうぞ」

 

 風呂敷から取り出した、赤い毛糸の襟巻きを地蔵さんの首に巻いた。もともと優しげな笑みを浮かべている地蔵さんの顔の周りは、これで赤く華やかになる。

 

「有難いことです。しかし、こういった手作りのものは、意中のひとに送るべきではありませぬか?あなたにも、意中のおなごはおられたと思うのですが?わたくしに渡すよりも、そのおかたに差し上げればよろしいのに」

「笑顔で僕の心を抉るのはおやめください。そも、付き合ってもいないおなごに手作りなど重たすぎです。引かれるのが関の山です」

「おや、では意中のおなごがいることを否定しないのですね」

「地蔵さん、僕を誘導して嵌めるのは勘弁願います。あなたは子どもを護ってくださるのではありませんか?」

「ええ、地蔵は子どもを護ります。弱きものを匿います。しかしあなたは、そろそろ子どもではございません。暗闇の中で立ちすくみ、泣き暮れるか弱さもございません」

 

 赤とんぼがどこからともなく飛んできて、地蔵さんの頭の上に止まる。

 僕は丸めた膝の上に顎を乗せて、暮れなずむすすき原を見渡した。すぐ目の前には轍の跡が黒々と土の道があり、遠くには霞んで見える山が聳える。

 どこにいても山に見下ろされていたこの小さな町を、僕は明日出て行くのだ。

 

「地蔵さん、僕は明日ここを出て行きます。出て、街に行くのです。街で奉公に出ることが決まりまして。僕は石工になるのです」

「おや、それは。新たな門出でございますね」

 

 善きことです、と地蔵さんは微笑む……ように見える。

 なにしろ石像であるからして、ほほえみ以外の顔はない。

 

「ええ。皆そうおっしゃいます。ちなみに僕の意中の彼女もそう言いました。彼女は次の春に隣の村に嫁ぐのです」

「門出の前に、恋心の行く先を失いましたか」

「地蔵さん、ですから事実を笑顔でおっしゃらないで下さい。せめて、今少し悲しげなお顔でお願いします」

「それは無理なことでございます。何しろわたくしは石ですからね。流れる涙はございませぬ。こぼれるのは笑顔だけでございます」

 

 あかね色の光りの中で、御影石が小さくきらめいていた。

 

「地蔵さん、地蔵さん」

「はい、なんでしょう」

 

 打てば響く鐘のように、地蔵さんは答えた。

 

「地蔵さんは、いつまでここにおられるのでしょうか?」

「さてさて、わかりませぬ。この体が削られ、砕けて、粉になれば、いずれわたくしも消え去りましょう。しかし、それはずっとずっと先のことになりましょう」

 

  ────何しろわたくしは石ですからね。肉の体よりも、つようございます。

 

 地蔵さんの丸い頭は、傾いた日の光で真っ赤になっていた。

 目の前のすすき野原は、風にゆられる様が炎のようで土の道の上に不思議な影を落としていた。

 ゆらゆら揺れる影法師と、真っ赤な炎はいつかに見た灼熱地獄の絵巻物をふと思い起こさせる。

 ここには風の音しかない。秋の風が絣の単衣を突き抜けて、骨に冷たさが滲み入った。

 僕は傍らの唐草模様の風呂敷を引き寄せた。

 

「ですが、雨風で地蔵さんのお顔が消えてしまうのは僕には哀しいです。ほほえみが見られなくなってしまいます」

 

 それゆえこれを持って参りました、と僕は風呂敷から、金づちと釘と板を数枚取り出した。

 

「雨風をしのぐための、屋根を作ろうと思いました。僕に編み笠は作れませぬが、屋根をこしらえることはできますので」

 

 それから、侘びしいすすき野原にこんこんと乾いた音が響く。半刻ほどで、地蔵さんの頭の上には三角屋根がやわらかな影を投げかけるようになった。

 

「できました」

「有難いことです。これだけ器用ならば、善き大工になれましょう」

「いえ、わかりません。僕が行くのは、石工のところですゆえ。……僕には先のことは何一つわかりません。ですけれど……」

 

 昔のことは尋ねればわかりました、と僕は言いかけて、ふと、口をつぐんだ。

 ちんまりとした頭と体をして手には錫杖を持ち、ふかふかした赤い襟巻を巻いている。それが地蔵さんだった。

 あそこのお地蔵さまはね、という祖母のしわがれた声が耳の底に蘇った。小さな村とはいえ、三叉路は車の通りが多い。

 そうとなれば、事故もあった。六十年ほどむかしに、気の荒い馬が小さな男の子をひとり蹄にかけたことがあったと、その子は助からなかったのだと、僕は祖母から聞いていた。そして、地蔵さんのお声は雲糸の先でゆれる朝露のように透き通っていて、幼いのである。

 三叉路の地蔵が立ったのは、その出来事のあとであった。

 もう二度と、むごいことが起こらぬようにと祈りを込められて、まあるいほほえみを浮かべた地蔵さんは、それからずっと、ずっとずっと長い間人々を見守り続けていた。

 

─────ひとりぽっちで。

 

「おや、どうかしましたか?」

 

 にこにこと、地蔵さんはほほ笑まれている。何しろ地蔵さんは石であるのだから、彫り込まれたお顔は、風雨で削られてなくなることはあっても、変わることはない。

 

「地蔵さん、地蔵さん」

 

 僕は俯いて、声を絞り出した。

 

「僕は、いつかきっとここに帰って来ます」

「ええ、待っています、何しろわたくしは石ですからね。動くということがございません。少しばかり長かろうが、待っておられるのですよ」

 

 ですけれど、願わくば、と地蔵さんは言葉を続けた。

 

「旅立ちはひとりでお行きなさい。しかし、戻ってくるときにあなたと、あなたの好いた人、あなたを好いてくれる人を見ることができれば、わたくしはとても嬉しく思います」

 

 地蔵さんは、それきり口をつぐんだ。まるで、本当の石くれになってしまったように。

 僕はそれが、ひどく悲しかった。

 暗い青の空の、どこか遠くで烏が鳴く。

 僕は尻を払って立ち上がった。襟巻きと釘と板が無くなった分、風呂敷は軽くなっていた。

 軽い風呂敷を揺らしながら、僕は薄暗い道を歩いて行く。

 道から繋がっている明日とその先へそうやって、進んで、でもいつかはここに戻って来ようとそう、強く思った。

 鐘が遠くで鳴って、冷たい秋風に僕は首を縮める。

 襟巻きを置いてきて良かったと、僕はそう強く思った。

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