おおきに

はたけのなすび

第1話

 除夜の鐘を聞こうと寺へ流れる人々を石段の上から眺めながら、遼太ははあ、と息をついた。口から漏れる息は、すべて白く変わる。ちらほらと舞い始めた雪の中で、膝を抱えて座っていると、まるで自分がこの世で一人きりになったような気がした。

 崩れかけた社と、今にも倒れそうな鳥居を抱える神社は、右から左へと流れていく人々にとって、新年を迎える場所にはよほど不都合に見えるのだろうか。参拝客の一人もいなかった。

 それでも樹齢三百年だという御神木に巻かれた注連縄と幣はおかしいくらい真っ白なのだから、誰か人の手が加わっているのは確かだった。

 ふいに石段を登ってくる人影を認めた。やがて、暗がりの中から現れたのは巫女装束の少女だった。背中に背負った風呂敷はいかにも重そうで、赤と白の装束から覗いている手足は白くて細かった。

 石段でうずくまる遼太に驚いたのか、少女はあっと目を見張った。その拍子に、荷物もろとも後ろに倒れそうになった少女を、遼太はとっさに駆け寄って支えた。

 

「あ、ありがとうございます」

「いえ、どういたしまして」

 

 華奢な背中は触れれば壊れてしまいそうで、遼太は慌てて少女から離れた。

 

「参拝される方ですか?それなら、ちょっとお待ちください」

 

 止める前に、少女は袴の裾を翻して石段をかけ上がった。遼太が後を追うと、鳥居のすぐ横にある社務所にちょうど明かりが点ったところだった。八畳ほどの社務所におろされていたシャッターが次々開けられ、色鮮やかなお守りが雪の中に現れてくるのを遼太はぼんやり見つめていた。

 お守りの並べられた売り場の後ろから、少女が言った。

 

「すんません。ここ五年くらい参拝されるかたなんていてはらへんかったので、もうちょっとお待ちください」

「あ、俺は違います。お守り買う訳じゃありません」

 

 売り場の向こうで、少女の顔が赤くなった。

 

「ちょっと静かなところに来たかっただけなんです。だからお構い無く」

 

 言葉の無神経さに唇が寒くなったが、売り場の向こうで巫女の少女は固まっていた。

 お守りを買いに来たわけでも、参拝にしに来たわけでもなく、連れの一人もいない高校生の参拝客に対する対処法などバイトのマニュアルにも書いていないのだろう。

 巫女のバイトにマニュアルがあるかは知らなかったが。

 

「え、えーと、それなら甘酒でもどないです?寒いでしょう?」

 

 場を繕うように言った言葉は、雪の中で漂った。

 

「じゃあお願いします」

 

 正直なところ、巫女服の彼女の方がよほど寒そうだったのだが、遼太はただそう言った。

 

「はあい。準備しますね。暮れに来て下さったかたなんで、代金は頂戴いたしまへん」

 

 巫女の少女はそう言って、社務所の奥に消えた。

 それにしても言葉遣いに神域に勤めるものの固さが全くない。だとすればバイトなのだろうが、それにしては着物を着たときの動作が垢抜けていた。

 

「お待たせしました」

 

 湯気のたつ紙コップを持って巫女の少女は戻ってきた。

 受けとるときに真正面から顔を見ると、寒さで赤くなった鼻の頭に、溶けかけの雪の結晶がついているのが見えた。

 甘酒を飲もうとすると、目深に被った帽子についた水滴が垂れてきたのが鬱陶しくて、遼太は帽子を頭からとった。

 

「あれ?もしかして、月川くんちゃう?」

 

 顔を上げてみると、巫女の少女が驚いたような顔でこちらを見ていた。

 

「やっぱり月川くんや!あたしのこと覚えてへん?小学校のとき、小学六年のとき同じクラスだったんやけど」

 

 記憶の底をさらうと、朧気ながら一人の女の子の面影が浮かんできた。窓側の席でぼんやりと、よく外を眺めていた女の子。

 

「……九十九、か?出席番号二十三番の九十九真世」

「あっ、覚えててくれたん?」

 

 出席番号が前後だった上に、珍しい名字だったから覚えていたのだが、それをそのまま伝える気にはなれなかった。

 

「まあね。久しぶり、九十九」

「ほんま久しぶりや。月川くんて、中学に上がる頃に引っ越したやんね。学校、東京なんやろ?」

 

 遼太は頷いた。

 東京暮らしを始めてしばらくすると、関西の訛りは不思議なほどたやすく抜け落ちていった。それでも、ずっと東京に住んでいる級友からすれば、自分のしゃべり方は、東京のそれとは違うらしい。

 口を開くたび、自分が異邦人だと自分で言って回っているような気がして、元々口数の少ない遼太はさらに無口になっていた。

 

「ああ、うん。そうだよ」

「へえぇ、ええなあ」

 

 理由を尋ねられるのを遼太は恐れた。

 小学校のころからずっと、旅行以外でこの町から出たこともないだろう女子高生にしてみれば、小学校卒業で関東に引っ越して、東京で一人暮らしをしているかつての同級生などいい話の種なのだろう。

 

「巫女のバイトでもしてるのか?」

 

 とっさに話題を変えたつもりだったが、五年も音信不通の女子と何を話せばいいかなどわからなかった。

 真世の顔色を見るに少なくとも、妙なことを聞いたわけではないようで、遼太は安心した。

 

「ちゃうちゃう。あたしの実家、ここやねん。だからまああたしも巫女さんになるはずやったんやけどね」

「はずだった?」

 

 真世は、苔むした鳥居を寂しげに見上げた。

 

「ここの神社、取り壊すことになってん。もうお社にもガタがきとうし、人もこおへんから壊してマンションでも建てんねんて」

 

 遼太の姿を見て、真世があれほど驚いたのにも納得がいった。誰もいないと思っていた神社の前に座り込んでいる自分が、よほど妙な人間に見えたのだろう。しかも、年の暮れに一人きりである。

 寒いのか、手を擦り合わせる真世を見て、遼太はとっさに手袋とマフラーを外した。

 

「寒いだろ。これ使うか?」

「でも、月川くんが寒いやろ」

「俺はいいよ。コートあるし。袴と小袖じゃ寒いだろ」

 

 もしかして断られるかもしれない、と一瞬恐くなったが、真世は嬉しそうに手袋をはめ、マフラーを巻いた。よほど寒かったのだろう。

 青い手袋の指で、真世は真っ暗な闇の中に横たわっている社を指した。

 

「もう御神体とかは動かしてんねん。ほんまはここに来る意味ないんや。だから、父さんは家で親戚と紅白見て時間潰してんねん。あたしは暇やったからこんなとこまで来てもうてんけど」

 

 暇、の一言で十七歳の少女が深夜遅くに一人で出歩いているのはいかにも奇妙だった。年の暮れを家で迎えたくない事情があるのだろうな、とは思ったが、遼太はそれを口には出さなかった。そもそも、事情を抱えている意味では自分とて似たようなものだ。何を言う気にもなれなかった。

 会話が途切れてしまい、遼太は手の中の甘酒を啜った。うまくも不味くもない、けれど温かい妙な味が口に広がった。

 

「月川くんは、何でここに来たん?おうち、町の反対側やろ」

 

 ひやりとした。遼太の事情を、真世が知っているわけはないのだが。

 

「俺も似たようなもんだよ。家にいてもつまらないから出て来たんだ」

「ふうん」

 

 つまらないというより、帰省した実家には遼太の居場所がなくなっていたのだ。父と、父の再婚相手である義母、それにその姑、さらに去年と今年の春に生まれた弟たちがいる家は欠けたところのない家族のようで、おまけに昔の遼太の部屋は姑の部屋になっていた。

 壁越しに、赤ん坊をあやす父のとろけるような声を聞いていたとたん、いつの間にか遼太の足は勝手に家を飛び出して、人気のないほうに向かっていた。

 ただ、一人になれる場所がほしかったからだ。

 

「せや、月川くん、ちょっと手、貸してくれへん?」

 

 真世は、足元からさっき持って上がっていた風呂敷包を取り出した。唐草模様の風呂敷をほどくと、中から注連縄が溢れだす。驚く遼太の目の前で、真世は幣のついた縄をぶらぶら振った。

 

「新年やから、注連縄だけでも変えよおもて持ってきてん。やけど、一人やと大変やからちょっと手伝ってくれへんかなあ」

「……いいよ。だけど、一つ頼む」

「なに?」

 

 遼太は息をついた。

 

「俺、もう月川じゃないんだ。市村って呼んでくれ」

 

 何も聞かず、ただうなずいた真世に、遼太は心から感謝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 注連縄は右回りと左回りで巻く意味が違うらしい。ここの神は女神なので、左回りに巻くそうだ。

 真世が注連縄を巻く間に口を開いたのはそのときだけで、後はずっと黙って遼太の話を聞いてくれた。

 太い御神木の裏に回って、真世の姿が見えなくなると遼太の口はよく回った。

 関東に引っ越したのは、離婚した母に引き取られたからだということ。中学を卒業するときに母が亡くなって、今は父に引き取られたこと。でも名字は母方の姓を名乗っていることなどが、すらすら口からこぼれでた。

 結局のところ、自分は愚痴を吐ける相手を探していたとわかって、遼太は自分にあきれた。道端の地蔵でも何でもよかったのだ。ただ、遼太の話を途中で遮ったり、哀れんだような眼で見ない相手であるならば。御神木の向こうで、注連縄の端を押さえているはずの真世の姿はちっとも見えなかったが、まさしく地蔵のように遼太の話を黙って聞いてくれている気配がしていた。

 御神木を一周して元のところへ戻り、注連縄の端を渡すと、真世は端と端を丁寧に結びあわせた。

 具合を確かめるように引っ張ると、真世は御神木の根元に座り込んだ。隣を手で指し示す。座れ、ということらしい。

 並んで座ると、不思議と地面が暖かかった。木がまだ生きていることが、伝わってくるようだった。

 

「市村くんさ、注連縄の意味って知っとる?」

「意味?神様がいる場所に巻かれてるんじゃないのか?」

「そうやねんけど、注連縄っていうんは結界なんや」

「結界?」

「うん。神様ってのはありがたいけど怖いもん。だから封じ込めたいってみんな思うんやろ」

 

 話の行き先がさっぱりわからない。どうして自分一人の中に愚痴をしまっておかなかったのかと遼太は悔やんだ。

 

「んじゃ、最後の仕上げや。市村くん、立って立って」

 

 引っ張りあげられるようにして立つと、真世はぱんぱん、と柏出を打った。

 

「神様と一緒に市村くんの嫌なことも封じ込めましょ。やから、元気だし。市村くんにはまた明日から新年一年始まるしな」

 

 訳のわからないままに真世の真似をして、遼太は手を叩いた。訳はわからないけれど、真世が励ましてくれていることはわかった。

 

「俺の話と一緒にされたら神様も困るんじゃないのか」

「あはは、それはええねん。この御神木も伐られてまうし。マンションの景観を損ねるからやて」

 

 遼太は見上げるような木を見上げた。雪の舞い落ちてくる空に向かって枝葉をのばす木は、先が闇にのまれて見えなかった。

 

「こんな立派な木なのにか」

「ほんまそう。お侍さんが歩いてはったころからある木ぃやのに、なんで売れもせえへんマンションの邪魔になるからって伐り倒すねん。あほくさいわ」

 

 苛立たしげに言った真世は、本当にこの場が好きだったのだろう。そういえば小学校のころ、子供たちが集まって遊ぶ場所はこの神社だった。今まで忘れていたけれど、遼太もこの境内を駆け回って、日暮れまで遊んだ。

 あのころ帰っていた家は、もうどこにも無くなってしまったのだと思うと、大事な遊び場を忘れていたことが恥ずかしかった。

 

「父さんも母さんも大賛成やねん。こんなボロい神社、のうなってせいせいするって言わはってん。反対してくれたの、じいちゃんだけや」

 

 大晦日に一人で歩き回って、真世は一体何を考えていたのだろう。たった今巻いた注連縄も、もしかしたらその祖父が作ったものかもしれなかった。

 

「ま、あたしがここきてしょうもないこと言うのもこれっきりや。あんまりおったら、じいちゃんに怒られてまうもん」

 

 膝の上に積もった雪を払い、真世は立ち上がった。

 

「あたしはそろそろ行くな。遼太くんもはよ帰りよ。お父さん、心配してはるで」

「俺はもうちょっといる」

「遼太くん、それ小学校のときも言っとったよ。みんな帰る、いうても最後まで残る、ていうねんから」

 

 へそまがり、とはよく言われる。その性格のせいで、父とも義母とも打ち解けられないのはわかっているのだけれど、些細なことでぷいとへそを曲げる性格は、実を言えば父譲りだ。

 

「そんなこともあったっけな」

「あったで。あたしが帰るとき、市村くん、よう夕日が沈むまであそこの石段に座っとったやろ」

 

 確かにそんなこともあった。正確にいうなら、今、思い出した。

 あのころ、夕日が沈むのは、父が仕事から帰ってくる知らせだった。日暮れまで境内で遊んで、そこから駅まで父を迎えにいって、手をつないで帰った先には暖かい家と、母がいた。

 かけがえのなかった時間を、どうして自分は忘れてしまったのだろう。そうしなければ母が死んだことにも、新しい家族をつくってしまった父にも耐えられなかったからだとしても、忘れてしまったことは罪だと思った。

 

「あたし、あのころ、市村くんのこと好きやってん」

 

 唐突に、真世がそう言った。何のてらいもない、明るい言い方だった。

 

「五年も経ったら時効やろから言うけど、あたし、市村くんが大好きやってん。市村くんて、いじわるもせえへんかったし、あたしが泣いてたらようキャラメルくれたやろ」

 

 顔が真っ赤になるのがわかった。

 キャラメルは母がくれた小遣いで買っていた。小さくて甘いキャラメルを、みんなと分けて食べたりもした。

 忘れていた記憶が吹き上がってくるのがわかって、遼太は涙がこぼれないように空を見上げた。

 ふと、遼太は見上げた空から光がもれていることに気づいた。

 時計を見ても、まだ明け方にはほど遠い。雪明かりかと思うまもなく、辺りは急に朝日に照らされたように明るくなった。

 

「あーあ、もう帰らなあかんわ」

 

 真世の声が聞こえた。

 辺りを照らしていた光は、一本の道になると真世を照らした。鳥居を背にして立つ真世の、足先が透けていることがはっきり見えた。

 驚くより先に、どうして、という思いがわき上がった。

 

「市村くん。あたし、帰らなあかんわ。時間、のうなってしまったわ」

「帰るって、どこへ?」

「死んだ人が行くとこ。あの世、かな」

「な、なんで……」

 

 わかってるくせに、と真世は笑って言った。あたし、この世に住んでる人と違うもん、と続けた。

 

「あたしな、一個心残りがあって、あっちには行かへんかってん」

 

 だけど、もう終わりにせなあかん、と真世は呟いた。

 

「市村くん。最後に一個、お願いできる?」

 

 遼太はうなずいた。頬を熱い何かが流れていた。

 拭いながら、どうして自分は泣くのだろうと思った。母が死んだときもこれほど泣きはしなかったのに。

 

「一回でいいから、名前、呼んで」

 

 真世の体は、もう半分ばかり透けていた。白と赤の巫女装束の向こうに、橙色の街の灯りが見えた。

 街の灯りを背負って笑う、すでにこの世にない少女の微笑みは、どうしようもなくきれいだった。

 

「……真世」

 

 情けなくも震えた声で呼ぶ名前を聞いて、真世は大きく息をついた。体から力が抜けるほど大きく息をはいて、真世は最後ににっこり笑った。

 

「おおきに。遼太くんは、あたしの分まで、長生きしてや。中途半端なところでこっちへ来たら、追い出してやるからね」

 

 駆けよって伸ばした手は、何もつかめなかった。光の中で、真世は消えてしまった。

 遼太の頭や肩に、光の粒があたって砕け、しゃらんと鈴のような音を立てた。

 

「……あほぉ」

 

 光の粒を抱きしめた遼太の口から、そんな言葉がもれた。

 

「あほ、真世のあほ。なんでや、なんでおれが名前呼んだくらいで消えるんや。消えてまうんや」

 

 己れのために思い出を消した薄情な自分が名前を呼んだだけで、満足して消えてしまった真世が、どうしようもなく哀しかった。

 真世はそれほど自分を待っていたのだろうか。会いたかったのだろうか。

 それに答えられない自分が、情けなかった。

 知りたくても、もう二度と真世には会えないのだ。魂のことも何も分からないけれど、ただ彼女がとてもとても遠くに行ってしまったことだけは分かった。

 ふと目を上げると、そこには手袋とマフラーが寄り添い合うようにして地面に落ちている。

 拾い上げて頬に押し当てる。熱い滴が頬を流れて行くのを感じながら、遼太は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰かに肩を揺さぶられて、遼太ははっと眼を開けた。目の前に、心配そうな顔の老人が立っていた。銀鼠色のコートに、お洒落な帽子を被っている。優しそうなたれ目が、誰かにとてもよく似ていた。

 

「兄ちゃん、こんなとこおったら風邪引くで。はよ帰り」

「あ、すんまへん。すぐ帰ります」

 

 口から故郷の言葉が流れ出して、遼太は驚いた。けれど、このほうがおさまりがよかった。

 どうやら、石段の上で思いの外長い間ぼんやりとしてしまっていたらしい。

 立ち上がると、手足のあちこちがぎしぎしきしんだ。手袋とマフラーが見当たらない。どこかで落としてしまったのだろうかと遼太はいぶかしんだ。

 

「ん?兄ちゃん、もしかして月川のとこの坊主か?」

「そうですけど」

「ほなはよ行き。おとんが大騒ぎして探しとったで」

 

 慌てて走り出そうとする遼太の襟首を、老人がつかんでとめた。

 

「あかんあかん。石段はすべりやすいんや。ゆっくり歩かな」

「はあ。わかりました」

 

 一段ずつそろそろと降りる。振り返ると、老人は崩れかけの社に手を合わせた後、閉じた社務所に入っていった。かつての神主なのかもしれない。

 石段の麓には、真っ白な百合の花束があった。それと、なぜかきちんと畳まれた紅白の巫女装束も。

 不思議な光景から遠ざかるようにして遼太は歩き出した。

 寒さに耐えられずに、両手をポケットに突っ込むと、そこに手袋とマフラーが入っていた。

 防寒具をポケットの中に入れていた自分に呆れながら、それらをつけると、不思議と暖かかった。まるで、今まで誰かが使っていたように。

反対側のポケットを探ると、小さなキャラメルが出てきた。銀紙に包まれた安い駄菓子だが、小学生のころはよく食べていたものだ。

  口にいれると、とろけるような甘さが口一杯に広がった。

何故か、キャラメルをなめるにつれ、涙が頬をぬらした。何か、大切なことを忘れてしまった気がした。どうしても思い出したいのに、記憶は霞みがかかったように朧だった。

 そう言えば、さっき出てきた神社は小さい頃の遊び場だった。明日の初詣のとき、父に頼んでちょっとだけ寄ってみるのもいいかもしれない。

 初詣では、誰か小学校のころの友達に会うかもしれない。誰が誰か見分けられるのか不安だったが、ちゃんと思い出せば、多分、昔の面影でわかるだろうと言う気がした。

 キャラメルの甘さが口に広がるたびに、思い出を封じていた鎖がなくなっていくようだった。ふるさとに、帰ってきたと急に思った。

 

「おおきに」

 

 自然と、口からはそんな言葉がこぼれ落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おおきに はたけのなすび @hatakenonasubi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ