第9話

 盆休みが終わってもまだまだ暑い。オフィスの蛍光灯は鈴川と神田の分を残すのみとなった。二十八度の設定温度も、人が少なければ快適だ。

「神田さん」

「ん?」

「アメリカ大使館が再来週休館です」

「なんで?」

「本国からの来賓だそうです。木曜日です」

「自分で申請該当者探すなよ? 各社の担当に連絡して、折り返してもらえ」

 鈴川はれんげを天津飯の器に置き、早速メールを打ち始める。その隣で、神田は海鮮焼きそばを食べていた。焼きそばは好きだ。断然ソース派だが、塩もたまには悪くない。注文は鈴川に一任した。

「鈴川」

「はい」

「俺、焼きそば好きって言ったことあった?」

「ないです。でも知ってます」

「あ、そう」

 あれからプライベートなことを話すようになり、鈴川が若干気持ち悪いくらいに神田のことを知っていることが発覚した。今更好きな食べ物を当てられても驚きはしない。お前ばかりずるいと文句を言ったら、少し迷っておでんの糸こんにゃくが好きだと教えてくれた。

ちなみに一番気持ち悪かったエピソードは、神田のハンカチの柄を毎日チェックしていたことだ。そんなに俺が好きなのかと茶化したら、真顔ではいと言うからこちらが恥ずかしくなった。開き直った鈴川は強い。ハート柄を持ってきたらどんな顔をするだろうかと、密かに計画を練っている。

「鈴川、冷めるよ」

「もう少しです。できました」

 鈴川はメールソフトが封筒に蓋をして飛ばすアニメーションを見ながら、再びれんげを取った。ご飯を崩してあんと混ぜている。カレーも混ぜる派だろうか。

「この前、姉が帰ってきました」

焼きそばにはエビ、イカ、ホタテの他になぜかうずらの卵が入っていた。途中まで中華飯と間違えられていたかもしれない。ところで、中華のイカはどうしていつも切り込みが入っているのだろう。

「妊娠してました」

 めでたいことだ。しかし、鈴川にそう言うのはためらわれた。飲み込もうとしていたイカをまだ噛み続ける。

「まだ、おなかは全然大きくなくて、生まれるのも来年だって言ってました」

 鈴川は天津飯を崩している。

「怖くて、全然しゃべれませんでした」

「そうか」

「話しかけようと思ったんですけど、近づけませんでした」

「焦らなくてもいいんじゃないか?」

 焦ったところでどうにもならない。気持ちはそう簡単に変えられるものではない。

「はい、まあ、そうですね」

 どうやら納得できないらしい。若いなあ、とまぶしく思う。

鈴川はほとんど原型をとどめていない天津飯を頬張った。

「甥っ子らしいです。生まれたら、たくさん遊びます」

「うん、それがいい」

 鈴川はえらい。自分ができることを見つけて、自分で選び取る。

いつか――長い時間がかかるだろうけれど――女性恐怖症も克服するだろう。多分、かわいらしい異性の恋人ができるだろう。そうなったら、自分はどうするだろう。

 あの日、若い男と寄りそい歩く妻をただ見送った。それでよかった。

 かわいらしい恋人と寄りそい歩く鈴川を想像してみる。

「……離さねぇから」

次は、きっと戦うだろう。

「はい?」

「ううん。天津飯ひとくちちょうだい」

「わかりました。代わりにそのウズラの卵ください」

「まだ卵食べるのかよ」



Fin.

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あの日はいつか今度こそ タウタ @tauta_y

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