ねむり
藤沙 裕
ねむり
おもむろに開いたファイルには、完結されないままのデータが眠っている。名前もないまま、ひたすらに最後の句読点を待っている。
書けないことに気付いてしまったのは、エンターキーを右手の薬指で弾いた時だった。どこかで聞いたようなフレーズが、着地点を失って頭の中を浮遊する。書き連ねた白い紙の上、点滅するカーソルがすこしだけ寂しそうに見えるのは、結局僕のエゴでしかない。
生まれるべくして生まれたはずの彼らが、その結末を知る時は来るのだろうか。すべて自分次第のはずなのに、そんなことばかりを考えている。
好きだったはずのあの子のことも、今はどうでもいい。笑顔が可愛い子だった。いつも僕のことを明るく照らしてくれる、そう、まさに、太陽みたいな、そんな子だった。気付けば会わなくなって、もう連絡先も知らないし、どこに住んでいるのかもわからない。知りたいとは、思わない。僕があの子の終わりを見届けることは、きっともうなくて。それ以前に、今のあの子の顔を僕は知らない。けれど、それでいいと思う。あの子にはあの子の生活があって、僕には僕の生きる道がある。僕が知るべきことは、もうない。
そんなふうに、このデータも、名前もない書きかけのまま、終わっていくのかもしれない。もしくは、僕の見えないところで一人歩きをするかもしれない。それはそれで、すこし気にはなる。
いらないことを考えながらも、僕の両手はいまだキーボードの上にある。人差し指で突起した二点をすこし触って、なんとなくそのキーを押した。打ち込まれた子音には何の意味もなく、その下ではまたカーソルが点滅を始めた。
それはさながら、ウィンカーのようで、渡るなと主張する信号機のようで、カンカンカンと警告を促す踏切のようで。思い浮かべた景色には、今好きな彼女がいる。すこし前まであの子の顔を思い出していたくせに、もうその顔を思い出せない。彼女の表情で上書きされてしまったからか。
あの時、あの子に告白でもしていたら、その景色には彼女ではなくてあの子がいたのだろうか。ありえないはずの結末も、本当はありえたのだろうか。
未練などないつもりでいた。たしかにあの子が好きだった、その事実は今でも変わらない。けれど、今は。
ベッドの上に放り出されたスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。午前二時三十四分、月曜日。与えられた休みも、明日で終わる。
写真アプリに保存された彼女の写真を見て、ひとり安堵した。彼女のことが好きな僕に、胸を撫で下ろす。
真夜中に書けないと唸り、事実のない自らの浮気を疑って、また文字の増えない画面を見る。このまま書けなくなっても、それはそれで、いいのかもしれない。
二転三転する気持ちに、自分の頭が追い付かない。もう諦めて、眠ってしまおうか。書きかけのデータも、書きかけのまま、眠らせて。
そうして、何度も繰り返すのか。書けもしないデータを置き去りにして、僕の時間ばかりが進んでいく。それを急かすように、掛け時計の秒針が小さく鳴った。
いまだ無数のデータは、声を上げることもなく、ただ、僕が最後の一文字を打つ、その時を待っている。どのくらい待っていてくれる、と問い掛けそうになって、やめた。あまりにも馬鹿々々しい。待たせているのは、僕だろう。
必ず戻って来るよ、そんな約束はできない。いつまでも待たせてしまう、そのくせ、僕はきっとまた、ここに戻りたいと思う。自分勝手だろうか、それでも彼らは待っていてくれるのだろう。その無機質な優しさが、また僕を、名前のないデータの海に誘う。
思い耽る為だけの、終末を知らないデータが僕を見つめる。書きかけのままであれば、彼らはいつだって僕を必要としてくれるのだ。
また彼らに必要とされる為に、そして、戻る場所を見失わない為に、今日、僕はこのまま眠る。
ねむり 藤沙 裕 @fu_jisa
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