第三十三話:微睡みは泥濘にて

 誰も傷付けないで生きることができたらどんなにいいだろう。

 君が傷付かないでいてくれるならどんなにいいだろう。

 その望みさえ、きっと君を傷付けてしまうのだ。



第三十三話:微睡みは泥濘にて



「助けていただいて、本当にありがとうございました……!」

 洞窟を出る頃には朝日が登っていた。闇に慣れた目を眩しく瞬かせる一行に、目覚めたルリカは改めて丁寧に頭を下げる。暴行を加えられた痕はあったが、打撲以上の怪我は無く、メルエージュの治療を受けてルリカはしゃんと歩ける程度にまで回復していた。

 その丁寧なお辞儀に、逆に純達の方が畏まった気持ちになってしまう。慌てて、純が両手を振った。

「お礼なんていいんだよ、ルリカちゃんもいぬも無事で良かった」

「そんな訳には……神父様のことも助けていただいて。本当に、何とお礼を申したらいいか」

「……あはは」

 その言葉に、乾いた笑みを浮かべながら各々ルリカの後ろに並ぶピエトロを見る。ピエトロはと言えば、ニッコリと笑って、「本当に」と悪びれなく返してみせた。

「私一人ではどうしようもなく……いやぁ、皆さん、盗賊のみならずアラクロードまで討伐なされて。本当にお強くて助かりました」

 ――曰く。ピエトロは、ルリカには戦闘能力のないドジっ子神父で通っているらしい。起きたルリカに対するピエトロの巧みな、意図的な誘導を含んだ説明により、あれよあれよと盗賊討伐もアラクロード討伐も純達の手柄にされ――或いは押し付けられ――純達は、なんとも微妙な気分を味わうこととなった。メルエージュの腕に抱かれたいぬが首(?)を傾げて見上げているのが数少ない癒しである。

「……アークハット村でのリックってこんな気持ちだったんだろうな」

 ぽつりとアカザが呟いた。やった事をやっていない事にされるのは腹立たしいことであるし、濡れ衣というのは着せられたくないものだが、功績をただ押し付けられるというのも居心地が悪い。レオンが苦笑いを零す。

「まあ……ルリカちゃんが無事で良かったよね。船にも間に合いそうだし」

 一夜明けてしまったが、サイスト島への便が出るまでにまだ一日ある。このまままっすぐ聖セリアに向かえば充分間に合うはずだ。そう考えて、純は安堵の息を吐く。そうしていると、ピエトロが丸眼鏡の奥の瞳を細め、一行を見下ろした。

「……ずっと気になっていたのですが、皆さんは、サイスト島への船に乗ろうとしているのですよね」

「えっ、あ、はい! そうです!」

 一瞬なぜ知っているのかと思ったが、そういえばルリカを助けると啖呵を切った時に言ったのだったと思い出す。友達、インウィディアを追うために、サイスト島への船に乗るのだと――

「……そうですか。成程……」

 ピエトロが溜息をつく。隣のルリカも困ったような顔をしてピエトロと純達を交互に見やり、二人の雰囲気が変わったことは純達も簡単に察することが出来た。猛烈に、嫌な予感が純の胸に渦巻く。それを抑えて、何とか「どうしたんですか」と口を開いた。

 暫し顎に手を添えて考えていたピエトロが、もう一度息を吐き出す。

「そうですね、結論から言いましょう。明日の聖セリアから発つサイスト島への便はありません。昨日の午後に出た船を最後に、暫く欠航することになっています」

「……え?」

 酷く間抜けな、声が漏れた。

 「やはり知らなかったんですね」とピエトロが肩を落とす。ルリカが気遣わしげに純達を見ていた。

「そん、な。何で……」

「サイスト島上空に巨大な魔物が現れ、襲撃を受けたとの速報が入りました。サイスト島近辺の海では魚が大量に死んで浜辺に打ち上げられているといった異常まで……その影響で、船の予定が急遽変わったのです。恐らく皆さんが追う友人は一足先に聖セリアに着いて最後の便に乗ったのでしょう」

 そうピエトロが話す言葉が、どこか遠い。つまり最初から、馬車でもなんでも、盗賊が出なくても間に合わなかったということだ。もしかしたらインウィディアはそれを知っていて、純達を昼まで眠らせたのかもしれない。そんな考えさえ、皆の頭を過ぎった。

 俯いた彼等を、暫し黙って見下ろしていたピエトロが、少し笑う。

「ですが。皆さんは――変更を知らなかったとはいえ、急いでいながらも、ルリカを見捨てようとはしなかった。その恩義には、神父として、なにより一人の人間として応えなければね」

 その言葉は存外に柔らかく、純達の耳に届く。顔を上げた彼等に、ピエトロは目を細めた。その優しい顔は、鬼のような強さや盗賊への容赦の無さ、ルリカに素性を隠す狡猾さ――それらの奥に隠されていた、彼の本当の部分なのかもしれなかった。

「聖セリアのキリュート大聖堂は船をいくつか所有しているのです。それを使わせて貰えないか、頼んでみましょう」

 遠くから、車輪が転がる音と馬の蹄の音がする。ピエトロが呼んだというリシュール国軍が盗賊の捕縛に来たのだろう。

「――ありがとう、ございます!」

 朝焼けに、純達の声が揃って響く。「まだ交渉が成功すると決まった訳ではありませんよ」と、ピエトロが微笑んだ。



「アイクさんの剣の師匠ってピエトロさんだったんですか……!?」

 そんなレオンの声が、車内に響いた。疲れのせいか寝落ちてしまったルリカに膝を貸しながら、ピエトロは黙って人差し指を口元で立てる。

 聖セリアまではリシュール国軍の馬車で送ってもらえることとなり、六人は再び馬車で向かい合わせに揺られていた。ピエトロに無言でボリュームダウンを促され、レオンは慌てて口を引き結ぶ。そして、改めて――潜めた声で――「キリュート教の教会に師匠がいるとは聞いてたけど」と呟いた。

「アイクさんもすげー強いんすよね。ピエトロさんが師匠ってんなら納得かも……緋炎一刀流は使ってなかったんすけど」

「アイクはあまり刀の扱いには向いていなくて。どちらかといえばナイフや軽業の方が上手でしたし、軍に入るという事だったので、緋炎一刀流の後継者として縛るのも憚られましたから。それに、年齢的にはそんなに離れていませんから、『後継者』としてはあまり」

 成程、と、パルオーロでの療養中、アイクにリハビリのための模擬戦に付き合ってもらっていたらしいアカザが納得したように頷く。「懐かしいですね」とピエトロは微笑んだ。

「アイクさんは孤児だったって……キリュート教の孤児院に引き取られて育って、キリュート教を信奉するようになったんだって聞きました。保護されたばかりの頃は獣みたいな状態だったから、お世話になった教会の人達は恩人なんだって」

 レオンの言葉に、ピエトロはええと頷く。

「その孤児院の経営に、ルリカのお父上も携わっていたのです。その縁で私も関わっておりまして……本当に懐かしい。アイクは元気でやっていましたか?」

「元気でしたよ。二重人格なのはびっくりしたけど、十字架外さなければ基本的に真面目で優しい人で、色々教えてくれて」

「ああ……」

 二重人格、という言葉に、やや遠い目をして、ピエトロは苦笑する。それから、「アイクの人格形成は少し特殊でして」と目を伏せた。ルリカの桃色の髪を梳かす指は優しく、少女は深い眠りから目覚める気配はない。

 純はアイクの戦いぶりを見た訳では無いが、聞くところによれば、十字のネックレスを外した途端におどおどとした性格が豹変し、Aランクの魔物カルベリアスに対しても好戦的に大暴れしたらしい。純本人はアイクについてはネックレスを着けた穏やかで少々臆病な青年、という印象が強いだけに、なかなか想像が出来なかった。

 ――アイクの身の上の話は、パルオーロ滞在中に少し聞く機会があった。彼は数年前に、路地で倒れているところを発見されたらしい。実の年齢については本人も定かでないという。童顔であることと、身体的には既にしっかり育っていたこと。一方で、記憶や知能はほぼ無かったこと。それらの状況から、推定は難しかったのだそうだ。戸籍の情報も見つからず、彼は孤児として院に引き取られ、ある程度の人間性を獲得した時点で成人とみなし――今年で二十歳、ということにしたのだと、そこそこに重い話を彼は朗らかに語った。

「保護されたばかりの頃は、臆病な乱暴者、という感じでした。何にでも威嚇して、攻撃に転じて。それを落ち着かせるために祈りを教え、己自身に、そして神に問いかける時間を与えたのですが……そのうちに、穏やかな部分と乱暴な部分が分離して。恐らく本人なりの、人を傷付けないための安全策だったのでしょう」

 そう語って、それにしても、とピエトロは純達を見遣る。

「皆さんがアイクとお知り合いとは……いやはや、縁とはどこで繋がるか分からないものです」

「パルオーロでちょっと色々あって……リシュール国軍にはお世話になったんです」

 そう説明を加えながら、純は思い出してやや遠い目をする。本当に色々あった。パルオーロで祭りに参加した矢先に騒動に巻き込まれ、攫われて、シュヴァルツの屋敷に閉じ込められて、少年の姿のハザマに助けられて。

 ――そして、インウィディアに出会ったのだ。

 だが、純は一人、頭を振る。まだ感傷に浸る時ではない。未だ、インウィディアの具体的な行方や無事は明らかでは無いのだから。

「(――そうだよね、ハザマ)」

 心の中で声をかけても、返事は無い。ハザマにとっても、インウィディアは無縁の少女ではないはずだ。彼女が消えたことをハザマが知っているかは定かではないが、彼の助けが得られるならそれほど心強いことは無いだろう。なんとか精神世界に行くことが出来れば、話がしたい。

 エリュファス村以降、ハザマとは会えていない。といっても村でも恐らくハザマの助けがあったと思しき一太刀があっただけで、実際に対面した訳では無かった。

 がたん、と馬車が揺れる。外を見やれば、国境を守る城壁がもう近くまで見えていた。それに囲まれた、大きな街が遠くに見える。開いた壁門の先、一際大きい要塞のような建物が目を引いた。なんとあれがキリュート教の大聖堂、らしい。

「ああ、もうすぐですね」

 ピエトロも外へ目を向けて、微笑む。彼にとってはホームと言える場所だろう。

「あれが――」

 パルオーロを訪れた時とは異なる、どこか荘厳な圧力を持ったその景色に、純達は知らず息を飲む。

 リシュール王国の国境を守る城塞都市、聖セリア。その入口が、純達を飲み込むように堂々と開かれていた。


 一行を乗せた馬車は彼等を大聖堂前に下ろして軍基地へと戻って行く。盗賊達を護送する馬車は後から着いてくるとの事だったが、まだ到着していないようだった。人数も多かったしアジトも検めなければならないようだったから、時間もかかるのだろう。送ってくれた軍人に礼を言い、純達はピエトロと、起きたルリカに向き直る。

「それでは、私は大聖堂に報告と船のことを頼んできます。ルリカ、皆さんを教会へ案内して差し上げてください」

「はい、神父様」

 ピエトロの言葉にルリカはしゃんと答え、四人を先導するように前に出た。

「船の交渉はきっと時間がかかりますし、皆さんは寝ずに戦われて、疲れたでしょう? 私だけ眠らせて頂いて……教会にはベッドもありますし、逸るお心もあるかとは思いますが、ゆっくり身を休めてください」

 ルリカは気遣うように微笑んで、こちらです、と歩き始める。その言葉に甘えることにして、純達は小さな背丈に並んで足を踏み出した。

 聖セリアは首都パルオーロほどではないが大きな町である。少し歩いただけでもすぐに大きな通りに出た。石造りの家々が立ち並び、しっかりと舗装された道は白を基調とした美しいタイルが敷き詰められている。やはり宗教の聖地であるからか、あちこちに十字のオブジェや刻まれた紋様が煌めいていた。

 だが、ルリカは少し顔を曇らせて、「やはりいつもよりも寂しいですね」と呟く。

「そうなの?」

「ええ、本来ならもっともっと、賑やかな町なんです。道の端に露店が立ち並んで、広場の噴水周りでは旅芸人の方々が音楽で皆さんを楽しませてくださったりして」

 言われてみれば、道の端、畳まれたテントの骨組みが片付けられているし、広場に誰も留まることはなく人々は目的地へと行き交うばかりだ。その人数も、パルオーロよりずっと少ないように見えた。それを見回して、ルリカは溜息をついた。

「やっぱり、一昨日からの異常で皆さん不安になられているのでしょう」

「異常……って、サイスト島周りで魚が沢山死んでるとかいう?」

 純の問いに、ルリカはこっくりと頷く。そしてもう一度息を吐いて、「巡業中だった私達が急遽聖セリアに戻ることになったのも、その関係なのです」と首を振った。

「サイスト島上空に現れた謎の巨大な魔物……それは、ミルドフィード大陸の方から飛び立って、円を描くように様々な町の上空を通過し、サイスト島へと至りました。サイスト島周辺の海域だけではなく……あの魔物が通った場所では、野生動物や、果てにはお年を召した人々が、まるで命を吸い取られたかのように乾涸びて死んでしまったと言います」

 ルリカの話す、巨大な魔物。それがスペルビア達にはレヴィアタンと呼ばれていることは純達には分かっている。それが空を飛んでいくところを、純はスルドで目撃した。陽の光を覆い尽くし、闇を与えた――青い、魚のような鱗をした、龍のごとき大きさの蛇だった。

 命を吸い取られたかのように乾涸びて死んでしまった生き物達――それを想像し、純は腕を摩る。レオンやアカザ、メルエージュも、皆神妙な顔つきをしていた。

「……ミルドフィード大陸か……」

 レオンが呟く。ミルドフィード大陸は、純の元いた世界ではアメリカ、南アメリカ大陸に当たる場所だった。

 そして――そこは、人が足を踏み入れることを許されぬ、禁足地であると、どの本を見ても記されている。曰く、その大陸は瘴気で満ちており、人間には息をするのも毒であるのだそうだ。当然、植物なども生えぬ不毛の地であり、そこは魔物の巣窟なのだという。ミルドフィード大陸の空は、常に紫色の雲が光を閉ざしているのだそうだ。

 ルリカが心配そうに、四人を見上げた。

「巨大な魔物がサイスト島で何をしているのかは分かりませんが……大聖堂はリシュール軍や可能であればガイア軍とも協力して討伐隊を組む予定を立てているようです。きっと、また平和は訪れます。お友達を見付けて、どうか、ご無事に帰ってきてくださいね」

「……うん、ありがとう」

 頷いた四人に、ルリカは優しく微笑んで、見えましたよ、と指で示す。その先に、小さな白い教会が見えた。素朴な、こじんまりとした雰囲気は、少しだけ四人の緊張を解く。

「暖かいお風呂を沸かしましょう。ゆっくり、お体を癒してください。その間にベッドを整えておきます。誰かを助けに行くのにも、まずは皆さんの調子が良くなければ」

 ね、と、ルリカは優しく微笑んでみせた。



 一日動きっぱなしだった体は酷く重く、白いベッドに横たわれば、意識が遠ざかるのはあっという間だった。

 泥濘に沈むような、酷く重たい眠り。こんなにも重たく感じるのは初めてだった。それは、身体的な疲れだけの理由ではなかったのだろう。

 ――純は、ぼんやりと目を開く。横たわっていたのは、真っ黒な世界だった。

「……ここは、精神世界?」

 何となく、確信めいた感覚はある。だが、精神世界はいつも真っ白で、こんなにも黒い世界は見たことがなかった。いくら精神世界に来るのが久し振りだからといっても――最後に来たのはパルオーロを発つ前日だ――流石に、こんなにも変貌していると不気味ささえある。それに、精神世界で目覚めた時に、自分が寝転がっているというのも初めてだ。寒気さえした。震える腕を擦り、純は起き上がる。

「……ハザマ? いないの?」

 声が、黒い世界に虚しく吸い込まれる。反響さえしない世界。何故だか、とても、恐ろしい。

「ハザマ、」

 恐ろしくて、縋るように、名前を呼んだ。この世界では、いつも二人のはずだった。

「――どうしましたか、純」

 声は後ろから聞こえた。ハッと振り向けば、探し求めた彼のストールが薄らと見える。

 薄らと、だった。彼の――ハザマの姿が、黒い世界に溶け込むようにぼやけて、見えづらい。その顔の辺りはすっかり影になってしまっていた。少しだけ上がった口角は、辛うじて見える。

「……ハザマ? なんか、黒いよ。どうしたの」

「黒い、ですか?」

「そうだよ。精神世界も真っ黒だし、ハザマの姿も見づらくて、」

 ハザマに近付こうと足を踏み出すと、ハザマはその手を掲げて制した。純の体はびくりと震え、思わず立ち止まってしまう。ハザマの口角は上がっている、はずだ。

「……きっと、色々なもののコンディションが悪いのでしょう。今日は、もう帰りなさい」

 今日は、なんて、まだ来たばかりだ。そんな反論も、この黒に飲まれてしまう気がした。何となく恐ろしくて、純は一歩、震える足を踏み出す。ハザマは、黒の向こうで、一歩下がった。

「ハザマ、ウィディが居なくなっちゃったんだ。お父様って奴が、レヴィアタンをサイスト島に送ったって、スペルビアが……ウィディはそれを、追ったんだって」

 もう随分と黒に飲まれたハザマが、足を止めた気配がする。縋るように、それを留めるように、純は手を伸ばした。ハザマが小さく「そうですか、」と声を落とす。

「私追わなきゃ、ウィディを助けに行かなきゃ……だから、ハザマ、」

「純、貴女はサイスト島に行ってはいけない」

 どこか、切り落とすような声が、黒の世界に響いた。ハザマが続ける。

「……違いますね。ワタクシが、貴女に行ってほしくない……純、サイスト島にはワタクシが出向きましょう。貴女は身を休めなさい、大丈夫ですよ」

「……ハザマ?」

「この話は終わりです。純、もう帰りなさい」

 切り落とすような。切り離すような声が、酷く恐ろしい。話の内容にだって全く納得出来ない。純が進むことに、ハザマも諦めてくれたと思っていたのに。

 何よりも、ハザマの顔が見えない。恐ろしさと、焦燥が、純の足をまた一歩踏み出させた。

「嫌だ、私も行くよ。ウィディを迎えに行くために、私、強くて優しい人でいるって――」

「純」

「ねぇ、ハザマ、聞いてよ。サーシャって更白のことだったんだ、私の祖先の」

「純」

「緋炎一刀流は更白がこの世界にも残していて……多分魔法のこと教えた神様ってハザマのことなんでしょ、ねぇ」

「純、」

 来ないでくれと、三度目に続けて、ハザマの声がした。

 純の腕が、ハザマの腕を掴む。黒に隠されたその顔が顕になる。見上げる純の顔に、灰色の長い髪がかかった。三つ編みには、していなかったようだった。

 液体が純の頬にかかった。まるで現実世界のような感触だった。

 ごぽりと、泡立つような音。ハザマの口から溢れる、赤い液体。彼の手首は、こんなに細かっただろうか。

 純の目の前で、その身体が崩れ落ちた。



「――ッ!!」

 勢いよく飛び起きたせいで、ベッドのスプリングが嫌な軋みを立てる。ルリカが与えてくれた教会の小部屋、その素朴でシンプルな壁紙が純の目に入る。見渡せば、隣に並んだベッドにレオンやアカザ、メルエージュは未だ寝息を立てていた。いぬはメルエージュに抱えられて腹を見せている。耳をぴこぴこと動かしているのは寝相なのかもしれなかった。窓から見える空は赤い夕暮れに染まっていて、半日ほど眠っていたのだと知った。ベッド脇の机に置かれたメモには、ルリカの小さく丁寧な字で「夕飯の買い出しに行ってきます」と書かれている。

 胸に手を当てた。心臓は、バクバクと煩い。汗が服を濡らして冷たかった。

「……ハザ、マ」

 呟くように落ちた声に、返事は無い。思わず撫でた自分の頬に、赤い液体は着いていなかった。

 今のは、何だ。そう、胸に当てた手を握り、先程の光景を思い出す。真っ黒に染まった精神世界、血を吐いたハザマ――

 ゆっくりと純はベッドから降りて、ふらつく足取りで歩き出す。眠っていた時の、シャツとスカートだけの簡単な格好で、上着を羽織る余裕はなくて。借りた小部屋から出れば、教会の居住スペースであるリビングからすぐ先に、外へと繋がる扉が見える。

 靴を履いて、その玄関の扉を開いた。


 白いタイルが夕暮れに染まる町は、空を見上げれば、夜闇さえ遠くに迫っていた。ルリカが話していたように――日中よりも随分と人は少なく、ぽつぽつと道を歩いている人々も、幽霊のように歩を進める純に目を向ける者は居ない。彼等は皆不安そうな顔をしていて、自分のことで必死で、周りなど目に入っていないようだった。

 どこか冷えた風が純の濡れた服にかかって、ぶるりと身が震える。その震えが、寒さだけのせいではないと、もうわかっていた。

 ふらつく足で目的地などあるはずがない。行き着いたのは人気の無い裏通りだった。もう、歩く気さえ無くなって、純は壁に凭れて座り込む。そのまま、膝に顔を埋めた。

『君に何が出来る? 彼女が何の為に、君達を振り切って居なくなったと思っている』

 スペルビアの声が、頭に響く。

「(何が、できるんだろう)」

 ぼんやりと、そう、考えていた。

 今にして、怖くなっているのだ。これでいいのか、本当に、今自分が進む道は自分が選び取ったものなのかも不安になっている。

「(だってなんだか、私がこの世界に来たのも、初めから決まってたみたいだ)」

 シュヴァルツでの件が終わって、国王達と話をした――あの夜。バルコニーで、アカザと話した違和感が、レオンの問題としてではない、自分のものとしてのしかかる。緋炎一刀流はこの世界で使われるためのものだった。純の祖先は英雄としてこの世界にいたのだ。

 どうして、旅に出たんだったか。

 ――ただ、元の世界に帰りたかった。訳の分からないまま振り回されているようで、嫌で、この世界に来た理由を、帰れない原因を知りたかった。友達が出来たから、友達の、レオンの夢を手伝いたいと思った。それが、旅に出ると決めたきっかけだった。最初はそれだけだった。

 スルドで。

 スペルビアに、啖呵を切った。何が出来るかなんて、インウィディアのことを知ってから考えると。

「(それは私の我儘で、その我儘が、誰かを傷付けているかもしれない)」

 インウィディアは知られたくないのだろう。だから、純達に何も言わずに行ってしまったのだろう。

 レオンは、祖父が本当はレオンが『空白の歴史』を解き明かすことを望んでいなかったかもしれないとして――それでも、祖父の本当の思いを知るためにも、進むと言った。今、同じことを自分は言えるか、純には分からなかった。

「(もしも、私の我儘が、誰かの命を削っているなら)」

 ――ハザマはずっと、純に、知ってほしくないと言っている。目を閉じればあの赤色が脳裏に甦って、必死に頭を振った。目から溢れた雫が、その勢いで地面に飛んだ。それでもその雫は止まらなくて、ボタボタと膝を濡らす。

「っく、ぃ、……っひ」

 嗚咽が漏れる。この世界で初めて泣いたのは確か、カントでの夜だ。今は抱き締めてくれる人は居ない。

 前に進めているのか分からない。分からないことばかりで、抱えるものばかり増えていた。全ての歩みは、誰かに仕組まれたものかもしれなかった。ハザマはそれを止めてくれているのに、純の我儘がそれを振り切って、そうして、彼を傷付けてきたのかもしれなかった。

 どうしてこの世界に来たのだろう。

 この世界に来たことに、なんの意味があると言うのだろう。

 その意味が、ただの、誰かが誰かを傷付けるための、悪意でしか無かったならば。

「(どうしよう、ごめん)」

 ごめん、と、何度も謝っていた。心の中で、誰にも届かない謝罪を。それはレオン達にかもしれないし、ハザマにかもしれない。

「(立ち上がれない)」

 夜闇が迫っている。帰らなければきっと心配されてしまう。分かっていた。だけれど涙は止まらなくて、足は少しも動かない。

「(立ち上がれないよ)」

 ――もう。

 込み上げる嗚咽を、埋めた膝で押し殺して。止まらない涙が、嫌になりそうな。


「――純さん?」


 そんな夜に、その声は透き通って響いた。視界の端に白い布が見える。

 顔をあげれば、そこにいたのは、赤い髪と眼帯、そして眼帯の下の刺青が特徴的な、一人の男。

「ああ、……目を擦らないで。赤くなってしまいます」

 そう、語り部は、困ったように微笑んで、純にハンカチを差し出した。

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