名前

 一度しか使ったことのないいつものコンビニの前を通り過ぎて、しばらく歩くとようやくマンションにたどり着く。

 駅からはマンションはずっと見えるけれど、中々着かないので困る。

 私たちはエントランスに入る。エントランスは二重扉になっていて、自動ドアと自動ドアの間にはインターホン。

「ユキ。部屋番号聞いた?」

「あ……」

「大丈夫。私覚えてるから」

「よかったー」

 森さんはホッとしたように言う。わからなくてもまた電話すればいいだけだけれど、それは黙っておく。

 私はインターホンの部屋番号を押す。事前に電話しているからすぐにアサミが応答してくれるだろう。

「じゃあ、私たちは行くね」

 呼び出し中なのに、森さんはいきなりわけのわからないことを言い出した。

「えっ!」

 炭谷さんがなぜか私以上に驚いている。

「なんでなんで?」

「だって、ナッちゃん。このあと用事あるでしょ」

「ちょっとお見舞いしてからでも……」

「ダメ」

 にこりと森さんは笑って、炭谷さんを一蹴。

「いや、でも」

 炭谷さんはそれでも森さんに食い下がる。

「ナッちゃんはプリン食べたいだけでしょ」

「いや、そんなことあるわけ……」

「じゃあいいよね」

「……はい」

 炭谷さん敗北。

「ほんとに帰っちゃうの?」

 森さんではないけれど、私も本音を言えばふたりについてきて欲しい。

「うん。このあと私たち予定あるから」

「そっか」

 森さんと違って、私は食い下がれない。でも、そもそも森さんがお見舞いに行こうって言い出したのに、ここまで来て帰るってどういうことのだろう。

 たしかにロンドンでたまたま会って、勢いでここまで来たけれど、元々の予定があったかもしれないけれど、だったらはじめから言い出さなければよかったのではないのだろうか。

『はーい』

 インターホンからアサミの声。

「はい。プリン。和久井さんによろしくね」

 森さんからプリンの入った紙箱を差し出され、とりあえず受け取る。炭谷さんがその箱をじっと見ている。どうやら本当にプリンが食べたかったらしい。

 ケーキ屋さんでのなんかかっこよかった炭谷さんはどこへ行ってしまったのだろうか。

「ナッちゃん」

 じっと箱を見る炭谷さんの手を森さんが取る。

「でも……」

「ほら」

「うん」

 炭谷さんはようやく諦めて森さんに手を引かれて歩き出す。だけど、視線はプリンを見つめたままだ。私はふたりを止めることも出来ず、ただふたりの姿を見るだけ。

 森さんはマンションの自動ドアの前で立ち止まる。それに合わせて炭谷さんも立ち止まる。森さんは振り向く。

「漆原さん。また明日、学校で」

 いつものふわりとした笑顔。

 炭谷さんは名残惜しそうな顔で「じゃ」と小さく手を振ってくれる。

 私も「またね」と返そうとしたけれど、後ろから『もしもーし? もしもーし? だれかいますかー?』とアサミの声。

 うるさい。

 思わずインターホンのほうを振り返ってしまう。そして、背後から自動ドアが開く音。ふたりはマンションを出たのだろう。挨拶もロクに出来なかった。

『誰もいないんですかー? ピンポンダッシュですか? 高校生にもなってー?』

 高校生にもなってって私だとわかっているだろう。それ。どうせカメラで見ているのだ。

「漆原ですけど」

『あ、ミキちゃんだ!』

 わざとらしい。

「うん」

『元気だった? 私風邪引いちゃってさー。や。今はもう大分良くなったんだよ』

「うん」

『明日にはさ。学校行けると思うんだー。おかゆとかでろでろのうどんとか飽きちゃったしさー。あ、ミキちゃん私が休んでる間ちゃんとお昼食べた? また十秒チャージで済ましてない?』

「大丈夫」

 本当は済ました。

『えー。ほんとにー? まあ言っても聞かないからなぁミキちゃんは。あ、ところでミキちゃんひとり?」

「うん」

「ゆっきーは? いやーゆっきーからいきなり電話が来たときはビックリしたよー。まさかゆっきーがお見舞いに来てくれるとは思ってなかったからさー。で、ゆっきーは? あ、炭谷さんも一緒?』

 ほんとうによく喋る。でも元気そうでよかった。

「ふたりは帰ったよ。さっきまで一緒だったけど」

『え、なんで?』

「なんか用事あるんだって」

『そうなんだー。あ、そういえば、この前――』

「それよりさ」

 私はなんとかアサミの言葉を遮る。

『え、なになに?』

「そろそろ中入れてくれない?」



 アサミの部屋は暖かった。暖房がしっかり効いている。外とは大違いだ。

 アサミの部屋は全体的に可愛らしい感じだ。ベッドの上にはぬいぐるみがいくつか座っているし、白やパステルカラーが多くて全体的に、こうふわっとしている。

「寒かった?」

「大丈夫」

 本当は寒かった。エントランスは底冷えがしていた。

「アサミのほうこそ大丈夫?」

 アサミはピンクでモコモコのルームウェアの上にさらにパーカーを羽織っている。やっぱりまだ調子が悪いのだろうか。

 顔色はそんなに悪くないと思う。頬が少し赤い。まだ熱があるのだろうか。声はもう元気そうだ。

「うん」

「そう。よかった」

 アサミはベッドに腰掛ける。私は部屋の中央に置いてあるローテーブルのそばに座る。

 沈黙。私がお見舞いに来たのだからなにか言わないといけないとは思うけれど、なにも思いつかない。いつもアサミとどんなことを話していただろうか。

 アサミだって、インターホン越しではあんまり喋り倒していたのに、いざ顔を合わせるとこれと言ってなにも言わない。テンションの差が激しすぎる。いつもはもっと話しかけてくるのに、ベッドに座って、視線だけ動かして、右見たり左見たり下見たりで私の顔もあんまり見ようとしない。

「……あー。それは?」

 アサミが私の顔を見ないまま、テーブルの上に置いた箱を指差す。

 そうだ。これ。プリン。記憶から消えてた。

「あ、うん。これ。よかったら」

 私はプリンが入った箱を手渡す。

 アサミは受け取ると、すぐに紙箱を開ける。 

「あ、プリン。ありがと」

「うん」

 アサミは箱の中をじっと見ている。

「とりあえず食べよっか」

 アサミはプリンを二つ取り出して、ローテーブルの上に置く。

「貰っていいの?」

「うん。なにか飲み物持ってくるね。コーヒーでいい?」

「うん」

 アサミは部屋を出ていく。私はそのまま待つ。

 お見舞いに来たのに飲み物なんて持ってこさせてよかったのだろうか。一応病人で、よくて病み上がりなのに。でも、話をする限りではアサミは元気そうだし、私が動くことも出来ない。だって、どこにコーヒーあるのか知らない。

 部屋が暖かい。

 寒いエントランスで冷えた私の身体もじんわりと暖かさを取り戻していく。それと同時に眠気が襲ってくる。今日は日曜日なのに、早起きをして、朝から出かけたし、結構歩いたし、でも、寝るわけにもいかない。お見舞いに来ていきなり寝るなんてどうかと思う。でも、眠たい。手持ち無沙汰が眠気に拍車をかける。

 私は部屋を見回す。そうは言っても、部屋は夏休みに来たときとあまり変わっていない。部屋の隅にはまだダンボールが何個か積んだままになっている。もうすぐアサミがこっちに越してきて一年になるというのに、まだ引っ越しは終わっていないらしい。

 ベッドの上には猫のぬいぐるみ。エメラルドグリーンのベレー帽を被っている。名前はなんていっただろうか。聞いた気がするけれど思い出せない。

 ぬいぐるみを手に取る。ふわふわの手触り。私はぬいぐるみと見つめ合う。瞳も帽子と同じエメラルドグリーン。なにかのキャラクターだった気がする。なんて名前だっただろうか。前に来たときにアサミに聞いたような気がする。アサミがぬいぐるみに名前をつけるのが少し意外だったのは覚えている。でも、名前は忘れた。

「君の名前、なんだったかな?」

 聞いてみる。当然返事なんてない。だって相手はぬいぐるみだ。

 なにをやっているんだ。私。しょうもなさに眠気も少しは覚めた。

 ぬいぐるみをベッドの上に戻そうとしたとき、部屋の入り口にアサミが立っていることに気づいた。

 手にはマグカップがふたつ。

「ぼ、ぼくはランプスだにゃー」

 なんと返していいのかわからず、私は黙ってランプスをベッドの上に戻し、座り直す。

 アサミも黙ったまま、マグカップをテーブルに置く。

「あ、ありがと」

 なんとか言葉を絞り出す。

「うん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る