十九日目の朝
身体が重い。土日をだらだらと過ごしたせいだろうか。
学校行きたくないな。と思っても身体は学校の準備をするし、朝ごはんも食べるし、髪型もチェックする。まだ染めなくても大丈夫そう。
鏡を覗き込んでいるとお姉ちゃんが洗面所にやってきた。
「おはよう。お姉ちゃん」
「おはよう」
表情はいつもと同じだけれど、頭はボサボサだ。眼鏡も斜めになっている。朝ごはんにもいなかったし、起きたばかりなのだろう。
「今日もバイト?」
「夕方から」
「大学は?」
「行く」
「間に合うの?」
お姉ちゃんはこくりと頷く。
「ミキは?」
そう言われて、スマホで時間をチェックする。いつの間にか、家を出る時間になっていた。
「そろそろ行かなきゃ」
鏡で最終チェックをざっとして、私は洗面所を出る。
「お姉ちゃん。いってきます」
「いってらっしゃい」
なぜか洗面所でいってきますをして、鞄を持って玄関へ。少しくたびれたローファーを履いて、家を出る。今日は曇り。青空は見えない。冷たい空気で頬がぴりっとする。
隣の家の犬が窓ごしに私を見ている。私はそれに手を振って、学校を目指す。
学校へ向かう足は重い。今日に限ってイヤホンを忘れた。取りに戻るのも億劫だから諦める。
車の排気音と自分の足音だけが聞こえる。
なんの変わり映えもしない通学路。コンビニの垂れ幕だけが定期的に変わる。今回は赤い。お昼を買わないといけないけれど、なんか面倒臭くて、そのままコンビニの前を通り過ぎる。学校の近くにまだひとつコンビニがある。そこに行けばいい。
コンビニの前を通り過ぎる。街路樹はここのところ裸のまま。曇り空。灰色の道路。壁も灰色。なんかずっと灰色しかない気がする。
雪でも降ればいいのにと思う。灰色より全部白くなるほうが綺麗でいい。この前、降った雪は薄っすらと車の上とか庭木に積もっただけで、昼にはもう解けていた。せめて、小さな雪だるまが作れるくらい積もってほしい。両手で集めて雪玉が作れるくらいは欲しい。
似たような町並み。毎日のように歩いているのに、たまに自分が今どの辺りを歩いているのかよくわからなくなる。多分、地面ばかり見て歩いているからだと思う。
「ミキちゃーん!」
声がして、顔をあげる。少し離れたところにアサミがいた。アサミがいるということはもうすぐ学校だ。コンビニはその手前。アサミは駆け足でわざわざ私の隣へ。その場で待っていれば私が追いつく。戻ってくることもないと思う。あと恥ずかしいから大声で呼ばないでほしい。
「おはよ」
「おはよう!」
アサミは今日も元気だ。
「今日も寒いねー」
頬と鼻が赤くなっている。首には私があげた朱いマフラー。灰色に慣れた私の目には刺激が強い。
「そうね」
「今日の一時間目なんだっけ?」
「たしか数学じゃなかった?」
朝一から数学をやらせるなんて、時間割を作った先生はセンスがないと思う。せめて二時間目からにして欲しい。
「数学かー。お昼からやるよりはマシかなー」
眠くなっちゃうしね。と言ってアサミは笑う。こういうところは本当に私はアサミに敵わない。
コンビニの看板が見えてきたところで、アサミが「あ、ミキちゃん見て!」と建物を指差す。コンビニの少し先。二階建ての家。普通の一軒家にしか見えない。アサミはその家の前まで駆け足で向かう。私は少し遅れてついていく。コンビニは後で行こう。アサミを置いてコンビニに入るわけにもいかない。
「ほらほら」
アサミが指を差すほうを見る。道路沿いに小さな庭。かわいい花壇があって、植木が何本かある。きちんと手入れされているとは思うけど、特に変なところもない。花壇にはまだ花は咲いていない。まだ寒い。きっとこれからなにかを植えるのだろう。
「ほら、あそこ。咲いてるよー」
濃い緑の葉が茂った植木。その葉の間にピンクの花が咲いていた。全然気づかなかった。バラみたいに何枚もの花びらが折り重なっている。だけど、バラではないと思う。
「きれいだねー」
「うん。なんて花だろう?」
「知らないー。でもきれいだねー。やっと咲いたんだー」
たしかにきれいだ。多分、ひとりだったら気付いていなかった。よく見ると他にも蕾がいくつか見える。これからどんどん咲いていくのだろう。アサミは毎日ここを通るたびに気にしていたのだろうか。名前も知らないのに花が咲くとなんでわかったのだろう。
「ねえ、ミキちゃん」
「ん?」
「炭谷さんのことなんだけどさー」
「うん」
いきなり来た。心の準備が全然出来ていない。
「なんか変だと思う」
だから、それをこの前、話したと思うのだけど。
「あ、肉まん。肉まんのお金返さなきゃ」
炭谷さん、さようなら。炭谷さんも肉まんに追いやられるとは思ってもいないだろう。
「すぐに返そうと思ったのに、まさか金曜の次が土曜だったとは思わなかったよー」
私たちが生まれる前から金曜日の次は土曜日だ。そして、土曜日に学校はない。別に学校が休みでも会おうと思えば会えるけれど、この週末、アサミからの連絡はなかった。いつもなら会わないにしても、無意味なスタンプが飛んでくる。だけど、それもなかった。おかげでこの休みは静かに過ごせた。
「あれは私の奢り」
「えー。悪いよー」
「じゃあ、今度、アサミがなにか奢ってよ」
「うーん。まあそれならいいかー。ありがとー」
今度は多分来ないと思うけど、アサミが納得して奢られてくれたのでそれでいい。
「それで炭谷さんなんだけどさー」
炭谷さん、おかえりなさい。
「週末考えたの」
せっかくの週末なのに。なんだか申し訳ない。でも、なんでだろう。不意に頬が緩みそうな気がして、思わず手のひらで口元を隠す。
「聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
唇を軽く噛んだり、目を一度ギュッと閉じたりして、なんとか頬を引き締める。
「なにかさ。あれだよね。変」
それもさっき聞いた。
「なにかって?」
ちゃんと聞いてますアピール。
「それはー……」
アサミは中々、次の言葉を言わない。それはなんなのだろう。
「わかんない」
なんだそれ。
アサミは「へへっ」っと笑う。それはなにかを誤魔化したような笑み。なにを言おうとしたのかはわからない。だけど、言わなかったということは、今は言うべきときじゃないってことなのかも知れない。それともただ単にわからないってことを誤魔化しているのかも知れない。
「そっか」
「ごめんね」
「いいよ。アサミが謝ることでもないしね」
「うん」
アサミはまだ少し考えているような顔をしている。
「あれ、なんて花なんだろ?」
どうやら考えていたのは花のことらしい。
「だから、知らないよ」
「気になるー。写真撮っておこ」
「あれは椿だよ」
アサミがスマホを取り出したところで、後ろから声がした。驚いて振り返る。
「漆原さん、和久井さん。おはよう」
そこには森さんと炭谷さんがいた。噂をすればというやつだろうか。とはいえ、もう学校は近い。ここでふたりに会うのもおかしい話ではない。ただ、今まで登校途中でふたりを見かけた記憶はあまりない。
「おはよう」
「おはよー!」
寒さのせいだろう。森さんの頬も赤い。肌が白いからだろうか。アサミより赤い気がする。炭谷さんは小さな声で「……おはよ」と言っていた。一応、挨拶はしてくれるらしい。
「驚かせちゃった……?」
少し申し訳無さそうな森さん。
「ううん。大丈夫」
「ゆっきーあれって椿なの?」
「うん。でしょ。なっちゃん?」
森さんは炭谷さんに視線を向ける。炭谷さんは顔の半分が紺色のマフラーに埋もれている。
「……そう」
マフラー越しのくぐもった声。
「へー」
アサミは少し驚いたように炭谷さんを見る。その気持ちは私にもわかった。
炭谷さんのことはよく知っているわけじゃないけど、花に詳しそうなイメージはなかった。髪は森さんと同じように長いけれど、身体が小さくて、どこか男の子みたいな感じもする。それに少し釣り目で、目つきが鋭い。鋭いのは私に対してだけかも知れないけれど。どちらかというと活発そうな印象で、森さんが花の名前を知っているのならわかるけど、炭谷さんが知っていたというのは、失礼だけど、意外だった。
でも、花の名前がすぐにわかるのすごい。かっこいい。正直、憧れる。私にはそういうものはない。煙草の銘柄だって実はよく知らない。知っていたとしても披露する機会もない。
炭谷さんを見ていたら、目が合った。炭谷さんはすぐに目を逸らす。こういうときニコリと笑えたらいいのにと思う。でも気付くのは大体目を逸らされた後だ。
「椿って赤だけじゃないんだねー」
こういうとき、アサミの能天気さが助かる。それにそう。赤色だったら私にも椿だとわかったような気がする。でも、ピンクの椿なんて初めて見た。
「ピンクもあるし、白もあるよ」
「へー。すごい。炭谷さんってお花好きなんだね」
「別に。普通」
炭谷さんはアサミとは普通に話す。私とはどうだろう。
「でも、すぐわかるのって――」
「悪い?」
「いや……かっこいいなって……」
ダメみたい。こういうの下手くそだと自分でも思う。すっと言えないものだろうか。それとも黙っているのが正解だったのだろうか。
「かっこいい?」
炭谷さんは片眉を上げて怪訝そうな顔をして、視線を私から森さんに移す。それにつられて私も森さんを見る。森さんはなぜか嬉しそうにニコニコと笑っていた。
怪訝そうな顔のまま炭谷さんはまた私を見る。ほんのすこし首を傾げたような気がした。
小さくため息をひとつして、炭谷さんは「ユキ。そろそろ行こう。遅刻する」と言って、ひとり歩き出す。
炭谷さんは身体に似合わない大股でずんずんとひとりで行ってしまう。森さんとお揃いの長い髪が乱暴に揺れる。それを見て、森さんもため息を吐く。
「ごめんなさい。照れてるだけだから気にしないで。また教室で」
謝ってはいるけれど、森さんはやっぱり少し嬉しそう。そして、少し早足で森さんは炭谷さんに追いかける。
「怒らせちゃったかな」
「多分、大丈夫だと思うよー」
森さんが追いつくと、炭谷さんの歩く速度はゆっくりになって、髪の揺れは落ち着いた。
「……そうかもね」
アサミは腕時計を見る。私もそれを覗き込む。まだ遅刻するような時間ではない。
「ミキちゃん、私たちも行こー」
「うん」
同じように髪を揺らして歩く二人の背中を見ながら、私たちはゆっくりと学校へ向かう。
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