ロンドンにて
「行かない」
「えー。なんでー?」
アサミは不満そうな顔をする。いや、行かないでしょ。普通。だって。
「絶対寒いでしょ」
寒いのは苦手。大体、冬の海に行ってなにをするのか。泳げるわけでもなく、海の家だってない。当然、青い海も青い空も白い砂浜もない。
「それは冬だからしょうがない! ここも寒いから同じだよ!」
確かにここも寒いけど、冬の海とか想像するだけで、もう寒い。多分こたつの中で想像しても寒い。
「それにどうやって行くつもりなの?」
「電車ー」
「結構時間かかるんじゃない?」
海には自動車でしか行ったことない。だから、電車でどのくらいかかるのかはよく知らない。去年の夏。お姉ちゃんのドライブに付き合って行ったときは、多分片道一時間半くらいはかかったと思う。
「多分大丈夫だよ! 知らないけど! それにこの前、今年は海行こうって言ったのは、ミキちゃんだよ?」
「あれは夏の話。今年の夏は行こうって意味」
「電車乗ってるうちに夏になってるかもよ?」
なるか。
「とりあえず、どこか入らない? 寒いんだけど」
私たちはまだコンビニの前に居て、アサミの頬が少し赤くなってきていた。しかもアサミはこの寒いのにミニスカート。ピンクのフレアミニスカートは可愛いけれど、見てるこっちが寒い。一応、タイツは履いているけど、絶対寒いと思う。でも、きっとそんなことは考えず、ただ今日はこれが履きたかったのだろう。
「確かに……」
アサミは空を見上げる。私もそれにつられて空を見る。
「雪、降りそう」
確かにさっきよりも雲が厚くなっているような気もする。天気予報のお姉さんは雪が降るなんて言っていなかったけど、それはアサミには黙っておく。
「それならやっぱり海はやめておいたほうがいいかもね。電車止まったら大変だし」
「うー。じゃあ今回は諦める……」
「うん。そうしよ」
海に行かなくて済んでよかったと思うのと同時に、残念そうに朱いマフラーの顔をうずめるアサミを見るのは、少し胸が痛んだ。夏には行こうね。と思う。口にはしない。
「でも! 次に会ったときは必ずミキちゃんと海に行く! 今年の抱負にする!」
顔を上げたアサミはもう次を見ていた。胸は無駄痛みだったらしい。でも、アサミの立ち直りが早いところが私は好きだった。
「月曜、学校で会うでしょ」
「たしかに! で、どこいこっか?」
「どうしようね」
この辺りには、ファミレス、ファストフード、コーヒーショップ。大体ある。とりあえずには事欠かない。
「ミキちゃんお昼食べた?」
「まあ一応」
「私も食べたよー。知ってる? ここの近くにチェーンのカツ丼屋さんが出来たんだよー」
カツ丼。私には絶対にない選択肢だ。でも、アサミがカウンターで一人カツ丼を食べている姿を想像してみると意外とハマっていた。想像の中のアサミは美味しそうにカツ丼を食べていた。
「来る途中にチラシ配っててね。最近カツ丼食べてなかったし、クーポンもついてたから行ってみたんだー」
「美味しかった?」
アサミが話す様子を見ていると、絶対にどう答えるかわかる質問を私はする。
「うん。美味しかったよー」
ニコリと笑ってアサミは言った。言葉も表情も予想通りの答えで、それが私はなぜか嬉しかった。
「よかったね」
「うん。あ、そうだ。マキさんのところいかない? カツ丼食べたの思い出したら甘いもの食べたくなったー。マキさんのところでケーキ食べよ?」
アサミには申し訳ないけど、カツ丼を食べたことを思い出して甘いものが食べたくなったことは、生まれてこのかた一度もない。
「ロンドン? 行くのは良いけどさ。さすがに太るよ?」
カツ丼の後にケーキはカロリー的にハードすぎるのではないだろうか。
「歩いて行けば大丈夫!」
「そこそこ距離あるけど……」
そうは言っても、カツ丼のカロリーを消費できるほどの距離ではないと思う。せいぜい三十分くらいだ。ただ、この寒いのに三十分歩くのは少し億劫。近くのコーヒーショップじゃダメなのだろうか。
「いいよー。海よりは近いでしょ?」
そう言われると、私にはもうなにも言えない。はい。歩きます。
「いやー。結構遠かったね……」
「だから言ったじゃん」
ロンドンに着くころには、アサミの頬も鼻もすっかり赤くなっていた。私も足がだるい。結局、色々あって今日はもう合計一時間くらいは歩いている。
黄色く変色したプラスチックの看板には『喫茶 ロンドン』の文字。なんでロンドンなのかは、良くは知らない。なんか蔦が伸びた壁に重たい古ぼけた木製のドア。ドアを開けるとちりんちりんとベルが鳴る。ベルの音だけはやたらキレイだ。
中は暖かくて、ホッとする。だけど、誰もいらっしゃいませとは言わない。BGMのジャズが控えめな音量で流れている。カウンターに眼鏡をかけて本を読んでいる女の人が一人いるだけ。
「マキさんきました!」
アサミの雰囲気に似合わない元気な声。マキさんと呼ばれたその眼鏡の女の人は、本を閉じ、私たちのほうに視線を送り、小さな声でようやく「いらっしゃいませ」と言った。
マキさんは私のお姉ちゃんで、ロンドンはお姉ちゃんのバイト先だ。
元々、叔母さんがやっている喫茶店だけど、昼間にここで叔母さんを見たことはない。
「お姉ちゃん、サボってたでしょ」
「お客さん、いないからいいの」
「でも来たよ。お客さん」
「そうそう! 来ましたよ! お客さん!」
まあ、私たちのことだけど。
「そうね。奥の席へどうぞ」
起き抜けの玄関以来のお姉ちゃんだけど、相変わらずだった。
ここに来ると私たちはいつも奥の席に通される。少し奥まったところにある席。お姉ちゃんが言うには、私たちはこの店の雰囲気に合わないらしい。だから、他の席からはあまり見えないここに通される。ただ、ここで私達以外のお客さんを見たことはあまりない。
私は一番奥の席に座り、アサミはその対面に座る。
古ぼけた木製のテーブルに赤い革張りのソファ。少し固い座り心地。天井にはなんか大きい扇風機の羽根みたいなのが回ってる。名前は知らない。ただなんかレトロでオシャレな感じってことはわかる。ロンドンっぽさがあるかはロンドンに行ったことがないのでわからない。そんなレトロでオシャレな空間に金髪の女子高生が似合わないのは、まあしょうがないとは思う。
「ご注文は?」
「ケーキセット。飲み物はホットココアで!」
アサミはメニューを見ることなく注文をする。本当にケーキを食べるつもりらしい。しかもホットココアで。恐れを知らない。カロリーを甘く見てはいけない。
でも、私もホットココアは飲みたい。外は寒かった。だから温かくて甘いものが飲みたかった。
お姉ちゃんからの注文を催促する視線を感じる。
「あー。私もホットココア」
甘さは恐れに大体打ち勝つ。
「ホットココア二つ。少々お待ち下さい」
お姉ちゃんは一礼して、カウンターの奥へと消えていく。
「マキさんってかっこいいよねー」
「そう? 愛想がないだけじゃない?」
今だって、妹とその友達が来たのに、特になにか言うわけでもなく、淡々とオーダーを取っただけだ。
「それミキちゃんが言う?」
「私はお姉ちゃんほど無愛想じゃないでしょ」
多分。自分ではそう思っている。そう信じたい。
「あー。ミキちゃんは無愛想というか、あれだよ。不器用だよね」
そう言って、アサミは笑う。
そんなことないでしょ。と私が反論しようと思ったとき、ちりんちりんとベルが鳴った。珍しい。どうやら私達以外のお客さんが来たらしい。
「いらっしゃいませ」と小さな声が聞こえる。私たち以外のお客さん相手でもお姉ちゃんは相変わらずのトーン。
「私たち以外のお客さん珍しいよね。どんな人だろ」
アサミはソファの背から身を乗り出して、入口のほうを見る。
「やめなよ」
私が止めても、アサミは「まあまあ」と身体を右に左に伸ばして、様子を伺う。
「んー?」
「どうしたの?」
「あれ。ゆっきーじゃない?」
「ゆっきーって森さん?」
「うん。多分だけど」
まさか。と私もテーブルの上に手をついて身体を伸ばし、入口のほうを頑張って見る。
そこには白いニット帽に黒のマフラー。下に何枚重ね着してるんだと思わせるもこもこのセーターを着たロングヘアーの女の人。ロングヘアーは後ろで雑に縛っている。ラフな格好というか、なんとも油断している感じ。
でも、顔はアサミの言う通り、確かに森さんだった。
「でしょ?」
「うん」
「声かける?」
「邪魔しちゃ悪いし、やめとこ」
きっと森さんは一人の時間を楽しみに来たんだろう。わざわざ呼ぶこともない。アサミだけならまだしも、私もいるのだ。
私は伸ばした身体をソファに戻そうとする。だけど、手が滑った。ゴン、とテーブルで肘を強打。その音で森さんは私たちのほうを見る。目が合った。
その顔は『なんで』、『しまった』、『どうしよう』辺りの感情が混ぜ合わされた感じだった。
一方、私は私で肘が痛くて涙目で、アサミだけが呑気に森さんに手を振っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます