十一日目の終わり

 森さんは重い足取りで私たちのテーブルのほうにやってきた。今更、他のテーブルに座るわけにも行かないだろう。

「やっほー。ゆっきー。ここ座りなよー」

 アサミは席を詰めて、自分の隣をぽんぽんと叩く。

「うん。ありがとう。和久井さん」

 ここまでの足取りは重かったけど、森さんはふわりと微笑み、帽子とマフラーを取って、アサミの隣に座る。

 さすが。優等生の森さん。切り替えも早い。格好は油断しているままだけど、中身は切り替わっている。そんなことを考えてしまった自分にため息が出る。

 さすが、優等生。なんて、嫌味なことを考えてしまう自分は好きじゃない。

「う、漆原さんもごめんなさい。お邪魔だったよね」

 森さんはそう言って、うつむいてしまった。

 そういうため息じゃないけれど、どういうため息か説明するわけにもいかない。森さんとはどうも噛み合わない。

「いや、こっちこそごめんね。邪魔しちゃって」

 きっと私はめちゃくちゃ引きつった愛想笑いを浮かべているだろう。

「ううん。あ、うん。少しびっくりしたかな。まさか二人に会うとは思ってなかったから」

 森さんはどこかぎこちなく笑う。私もそれに「だ、だよねー」と返事をして、あははと愛想笑い。もう、きつい。これはしんどい。アサミはなにをしているのか。こういうときこそアサミの力が必要だというのに。

 愛想笑いを浮かべながら、アサミのほうをチラリと見る。アサミはなぜか真剣な目をして、森さんを見ていた。アサミのこんな真剣な目はケーキ屋でケーキを選んでいるとき以来見たことがない。けど、今はそんなことどうでもいい。なんでそんな目で森さんを見ているかはわからないけど、とりあえず助けて欲しい。

 アサミは森さんから私に視線を移す。当然目が合う。アサミは真剣な目をしたまま、なにも言わず一度、大きく頷いた。意味がわからない。ただ、役に立たないことはわかった。

「ホットココアとケーキセットです」

 すると、そこにお姉ちゃんがホットココアを持ってやってきた。ありがとう。お姉ちゃん。今日ほどお姉ちゃんに感謝した日はないかもしれない。

 お姉ちゃんは私の前にホットココアを、アサミの前にはホットココアとベリーソースがかかったチーズケーキを運ぶ。

「おおっ……!」

 アサミの瞳は、もうケーキしか見ていない。

「お友達?」

 お姉ちゃんは私にそう聞いてきた。

 ホットココアを持ってきて、そのあとは森さんに注文を聞くものだと思っていた私はお姉ちゃんの思いがけない問いかけに、咄嗟にうんと言うことが出来なかった。

「えーっと……」

 そして、口から出てきたのはよりによってこれだった。さっきから最悪にもほどがある。苦手意識を持たれるだけならまだしも、これはダメ。言っちゃダメなやつ。

「はい」

 自己嫌悪に陥っている私の耳にまた思いがけない言葉。それは森さんから出た言葉だった。

 これもいわゆる優等生的解答というやつなのだろうか。だけど、お姉ちゃんは明らかに私に聞いていた。あえて、森さんが答える必要はあったのだろうか。

「そう……」

 珍しくお姉ちゃんが次の言葉を探すように黙る。私を見て、森さんを見る。じっと森さんを見るお姉ちゃん。森さんはその視線に耐えきれなくなって、俯いてしまった。なぜか耳は真っ赤になっている。

「ご注文は?」

 お姉ちゃんが探し当てた言葉はこれだった。

「あ……ブ、ブレンドコーヒーを」

「ブレンド一つですね。少々お待ち下さい」

 お姉ちゃんは私たちに背を向け、カウンターのほうへと歩き出す。

 森さんはお姉ちゃんの後ろ姿をじっと見て、なにかに気付いたように私を見る。そして、なにも言わずまた俯く。

「あのひとね。私のお姉ちゃん」

 だから、私から言う。多分それに気付いたのだろうから。少なくとも私の知り合いということには気付いているはず。

「あ、やっぱり!」

 顔をあげた森さんの顔は、私が見たことがない森さんの表情だった。つまりは嬉しそうな顔だったのだけど、嬉しそうにしたことが悪いことだったみたいに、また、すぐにまた俯いてしまった。

「その、ごめんなさい。漆原さんと似てるからもしかしてって思ったんだけど、間違っていたら失礼かなって……」

 私とお姉ちゃんが似ているかはよくわからない。だから、なんと答えたらいいのかもよくわからない。よくわからないから黙るしかない。沈黙が来そう。出来れば沈黙にはお帰り願いたい。だけど、私は、多分森さんもなにを言えばいいのかよくわからない。

「あのー」

 アサミの声で沈黙にはなんとかお帰りいただけた。

「ごめんだけど、お先にケーキ頂いてもいいですか?」

 アサミは申し訳無さそうな顔をしているけれど、ただケーキが食べたいだけだと思う。でも、今はそれがありがたかった。

「あ、うん」

「あ、どうぞ」

 私と森さんの了承を得て、アサミは「では、いただきます」と手を合わしてから、ケーキを食べ始めた。

「おいしー。甘酸っぱいソースが最高! ふたりとも一口食べる?」

「私はいいよ」

「そう? 美味しいのに」

「それは知ってる」

 ロンドンにはアサミと二人でそれなりに来る。お姉ちゃんがバイトしているというもある。アサミはお姉ちゃんに懐いていて、お姉ちゃんもアサミに懐かれるのは満更でもなさそうだった。

「そっか。そりゃそうだよね。ゆっきーは? 食べる?」

「じゃあ、もらおうかな」

 私が断ったから、森さんは食べることになってしまったのだろうか。それとも本当に食べたかったのか。なんか、どんどん思考が良くない方向に向かっていっている気がする。

「はい」

 アサミは自分が使っていたフォークを森さんに渡す。フォークは一つしかない。

 森さんはフォークと私を交互に見る。なんで、私を見るのかはよくわからない。森さんは息を大きく吸って、静かに吐き出す。もこもこのセーターの胸元が森さんの呼吸に合わせて上下する。そして、ようやく森さんはフォークでケーキを小さめに取り、食べた。

「あ、美味しい」

「でしょー」

「和久井さん。ありがとう」

 森さんはフォークをアサミへ返す。

「ここのケーキね。あんまり数作ってないの。今日はあってラッキーだったよ」

 お姉ちゃんが言うにはケーキは叔父さんが半ば趣味で作っているらしい。だから、数は少ないし、ないときだってある。ただ、美味しい。

「ここでケーキ食べるのはじめて。もっと早く食べればよかったな」

「ゆっきー。ここよく来るの?」

「休みのときはたまにモーニング食べに来るの。家が近いから」

 だから、油断した格好なんだろうか。学校での雰囲気とはまるで違う。

「モーニングじゃケーキ食べないよねー」

「うん。そうなの。だから、今日この時間に来てみてよかった」

「あ、そうだ。ひょっとして私たちなにか邪魔しちゃってない? 大丈夫?」

「ううん。ちょっと本でも読もうと思っていただけだから」

 森さんは柔らかく笑う。今日の森さんは服装も表情もなんか学校よりゆるい。ただ、学校での森さんも私はよく知らない。ずっと同じ教室で、最近は隣の席だけど、知らない。

「私のほうこそ……漆原さんと和久井さんの邪魔しちゃってない?」

 私の名前を呼ぶ前に森さんは私の顔をちらっと見る。私は気づいていないふりをしてホットココアを飲む。

「全然大丈夫。私たち別に目的があってここに来たわけじゃないし」

「そう? ならよかったけど」

「そうそう。ミキちゃんが海行く予定ひっくり返しちゃったからさー」

「海?」

「そう! 海!」

「冬の海かー。素敵だねー」

「でしょ? 今日行こうって言ったんだけどねー」

 アサミが今日行こうと言い出したのは今日の話で、今日の今日で海行けるほどフットワークは軽くないし、なにより寒い。だけど、それでアサミと森さんが楽しくおしゃべりが出来るなら、もうあえて私からなにか言うこともない気がしてきた。だから、私はココアを飲む。おいしい。


 アサミと森さんがおしゃべりをして、途中お姉ちゃんがコーヒーを持ってきて、私はそれをココアを飲みながら眺めていたけれど、もうココアも無くなって、カップから無限にココア沸いて来ないかなと思ってもそれは当然無理な話で、たまに話を振ってくるアサミに適当な返事をしていると、外はもうすっかり暗くなっていた。

 アサミと森さんの話を聞いているのは楽しかった。森さんは私が思ったよりずっとよく笑う女の子で、笑うとえくぼが出来る。

 ちなみにこの間、他のお客さんはひとりも来ていない。このお店は大丈夫なのだろうか。

 アサミと森さんは数学のあそこが難しいここが難しいなんて話をしている。私にとっては大体難しいけどなー。なんて思っていると、お姉ちゃんが声をかけてきた。

「ミキ。そろそろ帰るけど」

 どうやらバイトの時間は終わりらしい。車で一緒に帰るか。ということを言いたいのだろう。

「あ、私も帰ろうかな」

「ミキちゃん帰るの?」

「うん。もう暗いしね。ココアもないし」

「ふたりは? 送っていくけど」

 お姉ちゃんはこう見えて、意外に優しい。

「ありがとうございます。でも、私はすぐ近くなので大丈夫です」

「私も大丈夫ー。ゆっきーともう少しおしゃべりしたいしー」

「そう。じゃあふたりとも気をつけて」

 お姉ちゃんはそれだけ言うと、出口へ歩きだす。

「あ、お姉ちゃん。私まだお会計してないよ」

「私が払っておいた。みんなの分も」

 いつの間に。そういえば伝票もない。お姉ちゃんは優しいけれど、奢ってくれたりはあんまりしない。なにか良いことでもあったのだろうか。

 ちりんちりんとベルが鳴り、お姉ちゃんは私を置いてさっさと店を出てしまう。一緒に帰るのに、なんで先に行ってしまうのか。

「じゃあ、私も行くね」

「うん。ミキちゃんまたね。マキさんにありがとうございました! ごちそうさまです! って伝えておいて」

 お礼言う前に行っちゃうんだもん。とさすがのアサミも苦笑い。

「言っとく。森さんも、じゃあね」

「あ、うん。私からもお姉さんにごちそうさまでした。って伝えておいて欲しいんだけど……」

「うん。それも言っとく。ふたりとももう暗いから気をつけてね」

 そういえば、さっきお姉ちゃんも似たようなこと言っていた。やっぱり似ているのだろうか。でも、こんなの誰でも言うような気もする。そんなことを出口に歩きながら考える。

 ドアを開ける。ちりんとベルが鳴る。だけど、聞こえたベルの音はそれだけで、その先は森さんの声でかき消された。

「う、漆原さん!」

 森さんの声に振り返る。森さんの大きな声を聞いたのは、これが初めてだった。森さんはなにも言わず、口をぱくぱくと動かしている。一度、深呼吸。私はそれをただ見ている。

「ま、またね」

 森さんが言った言葉はそれだけ。でも、その言葉に自分の頬が緩むのを感じた。

「うん。またね」

 そう言って、私は外に出る。きっと私は苦笑いを浮かべていたと思う。だけど、それは今日、森さんに向けた笑顔の中で、唯一自然と溢れたものだったと思う。森さんには月曜日に必ず会うだろう。

 外は昼間よりぐっと冷えていた。吐く息が白い。消えていく息を見て、煙草を吸っていたことを思い出す。大分、吸わない生活にも慣れてきた。これもアサミのおかげだろうか。

「あ、雪」

 雪が降っていた。お昼にアサミが雪が降りそうと見上げた空から。私はまた笑ってしまう。お天気お姉さんじゃなくて、アサミが天気を当てたことが、可笑しかった。

 ちらちらと降る雪を眺めている私を車のヘッドライトが照らす。

 お姉ちゃんの車だ。レトロな雰囲気をしたダークグリーンの軽自動車。お姉ちゃん曰く『本物のレトロ車のパクリだよ』とのことだけど、私は小さくて可愛いこの車が好きだった。

 助手席に乗る。車の中は、少し暖かった。効きはじめの暖房。フロントガラスに降った雪はすぐに水滴に変わり、それをワイパーが拭き消していく。

 私がシートベルトを締めると、ぶろろろとしんどそうなエンジン音がして車が走り出す。

「お姉ちゃん。ふたりが『ごちそうさまでした』って」

「そう」

 大通りに出るまでは街灯があまりない道を走る。対向車が来るたびにお姉ちゃんの顔がぱっと見えて、また薄暗くなる。

「私も。ごちそうさまでした。ありがと」

「うん」

「でも、お姉ちゃんが奢ってくれるなんて珍しいね」

 お姉ちゃんはなにも言わない。たいした理由なんてないのかも知れない。なんとなく奢ってくれたのかも。例えば、昨日がお給料日だったとか。

 だから、別にお姉ちゃんがなにも言わなくてもなんとも思っていなかった。

「……ミキがアサミちゃん以外のお友達連れてくるの初めてだったから」

 その言葉に思わずお姉ちゃんを見る。対向車が来る。ライトがお姉ちゃんの顔を照らす。お姉ちゃんはどこか恥ずかしそうだった。

 私たちと森さんは一緒に来たわけじゃない。たまたま、ロンドンで居合わせただけ。それに森さんと私は友達と言える関係かどうかは、正直よくわからない。

「そっか」

「うん」

 信号が赤になる。ここを曲がれば大通りに出る。そこから家はすぐだ。カッチカッチとウインカーの音。

「あの子……」

 珍しくお姉ちゃんが話題を振ってきた。きっと照れ隠しだろう。

「森さん?」

「うん。森さん。森さん、少し変わってるね」

「森さんもお姉ちゃんには言われたくないと思うよ」

 私が言うのもなんだけど、お姉ちゃんはだいぶ変わっていると思う。そして、森さんが言うように私とお姉ちゃんはやっぱり似ているのかも知れない。少し前、アサミと似たような会話をしたのを思い出す。

「そうかもね」

 私がした返事と同じようにお姉ちゃんは言う。

「森さんはいい子だよ」

「私もそう思うよ」

 信号が青に変わった。

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