十日も過ぎて

 ドッドッドと車のエンジン音が微かに聞こえてきて、目が覚める。この車の音はお姉ちゃんだろう。きっと車を暖めているんだ。

 時計を見ると、もう十一時過ぎ。休みだからといっても、流石に寝過ぎだと思う。

 十一時だと言うのに、部屋はまだまだ寒い。

 なんとか、ベッドから身体を起こし、無意識に机の上に手を伸ばす。そこには無意識に求めたものはなくて、昨日から出しっぱなしのシャーペンと参考書があるだけ。とりあえずシャーペンを手に取って、咥えてみる。

 プラスチックの味がする。

 すぐに咥えるのやめて、咥えていた部分をティッシュで拭いて、机の上に戻す。スマホをチェックすると、アサミからメッセージが来ている。

『今日、お昼一時に駅前でよろしく!』

 今日、アサミとはなんの約束もしていない。とりあえず既読無視。

 スマホを机の上に放置して、カーディガンを羽織る。パジャマのままじゃ寒い。部屋を出て階段を降りるとお姉ちゃんが玄関で靴を履いているところだった。多分バイトに行くところだ。

「おはよう」

「おはよう」

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 お姉ちゃんは相変わらず必要最低限しか喋らない。会話はそれで終わって、お姉ちゃんは出かけていった。外から冬の冷気が流れ込んでくる。さむっ。

 車のエンジンの唸るような音が聞こえて、それはすぐに遠くなっていく。

 ほんの少し外気を感じただけで、温かいものが飲みたくなる。今日はどうやらいつもにまして寒いらしい。

「……コーヒー飲もうかな」

 禁煙を始めてからコーヒーは飲まないようにしていた。だって、コーヒーと煙草は相性がいいのだ。どこかの喫煙所。隣で吸っていたおっさんが『やっぱ煙草にはコーヒーだよなぁー』と独り言を言っていた。それを聞いて、なるほど。煙草にはコーヒーなのか。と思った私はコーヒーを飲み始めた。正直相性はよくわからなかったけど、飲んでいた。多分、ブラックじゃなかったのがダメだったのだと思う。でも、ブラックは苦い。苦いのは苦手。

 ダイニングに移動して、コーヒーメーカーのポットを持ってみる。中で液体がゆらゆらしている感触が手に伝わってくる。どうやらコーヒーは残っているらしい。

 私はそれをマグカップに注ぐ。牛乳を出そうと冷蔵庫の扉を開けて、三秒考えて、なにも取らずに閉める。

 コーヒーを飲むのは久しぶりだ。禁煙を始めてから飲んでいない。だから、ひょっとしたら飲めるようになっているかも知れない。根拠はない。だけど、今日はブラックにしてみよう。砂糖も入れない。ミルクも入れない。やっぱりコーヒーといえばブラックだろう。

「……にが」


 階段を一段登るたび、マグカップの中のマーブル模様が変わっていく。部屋に入るとスマホが一定のペースでヴ。ヴ。と震えていた。

 どうせ、アサミがスタンプ連打してるんだろうと思って、見てみるとアサミがスタンプを連打していた。まあ、既読無視。

 コーヒーを一口。おいしい。煙草吸いたい。でも、我慢。だいぶ吸わない生活にも慣れてきたけれど、不意に吸いたくなるときもある。

 さてと。マグカップを机の上に置いて考える。

 もう一度、ベッドに横になるともう終わり。それできっと一日は終わってしまう。その確信があるので、私は机の椅子に座る。机には開きっぱなしの参考書。寒いとやる気が出ないよね。と自分に言い訳をして、意味もなく引き出しとか開けてみる。小さいときに買ってもらった学習机。引き出しには昔、テレビでやっていた魔法少女のシールが貼ってある。スマホは懲りずに、ヴ。ヴと震え続けている。

 今日は中々粘る。スマホを見ると、あの魔法少女のスタンプ。どうやらスタンプになっているらしい。アサミも見ていたのだろうか。

 アサミも見てたの? と入力して、消す。

『なに?』

 また、スタンプ。もうスタンプ送ることが目的化してるのではないかと疑いたくなる。でも、すぐに文字が返ってくる。文字打てたんだ。

『肥満』

 ダメだ。文字が打てるだけで、会話は成立しない生き物がスマホで遊んでいるだけだ。これ。大体、私は肥満ではない。断じて、肥満ではない。

『まちがえたー。ひまー』

『どんまい』

『一時に駅前でね? いつものとこね』

『イヤ。寒いもん』

『まあまあ。きたらいいことあるよー』

『良いことって?』

『それはきてのおたのしみ! というわけで、またあとでね!』

 スタンプスタンプ。うさぎがシュッと手をあげている。無料スタンプみたいだから、後でダウンロードしておこう。

『まだ行くなんて一言も言ってないんだけど?』

 だけど、それきり返信はない。未読無視だ。あれだけスタンプ連打してきていたのが嘘のように、スマホが震えることはない。

 これで行かなかったら私が悪いみたいな感じになるだろう。だから、行かざるを得ない。

 今は十一時半くらい。出かけるにしても、なにか食べたい。冷蔵庫になにかあったかな。さっき、三秒ほど開けた冷蔵庫の中身を思い出す。うん。牛乳しか思い出せない。

 今度はスマホとマグカップを持って階段を降りる。それらをテーブルの上に置いて、私は再び冷蔵庫を開ける。

「ばーん」

 無意味に効果音もつけちゃう。一人だからやりたい放題。お姉ちゃんは多分バイトだし、お父さんとお母さんは月一デートの日で、多分朝から出かけている。まあ、家に私しかいないのは確かだ。お父さんとお母さんが居たら、テレビがついているはずだけど、今聞こえるのは冷蔵庫のブーンという音だけだ。

 あ、ヨーグルトある。ジャムもある。いちごジャム。そういえば、グラノーラもあったはず。棚を適当に探すと、すぐにグラノーラは見つかった。

 ボウル皿にグラノーラ、ヨーグルト、いちごジャムの順に投入。ミントでもあれば可愛かったかも知れない。だけど、ないから、いただきますをして、すぐ食べる。

 おいしい。いちごジャムすき。

 ヨーグルトいちごジャムグラノーラをもぐもぐと食べて、コーヒーを飲む。テレビをつけると天気予報をやっていて、お天気お姉さんが『今日は気温が上がりません』と言っている。でもお姉さんはミニスカート。私は今日、スカートはちょっと無理だ。パンツにしよう。

 どれを履いていこうかと考えていると、テレビからお天気お姉さんは消えていて、なんか知らない芸能人が大きな声で喋っている。それを見て、十二時になったことを知る。

 駅までは歩いて十五分くらい。だけど、私はまだパジャマだし、歯磨きもしてないし、シャワーも浴びたいし、着ていく服だって決まってない。

 うーん。急げば間に合う。かな? どうだろ。と考えながら、ボウル皿とスプーンを洗う。


 結果として、私は歯磨きもしたし、シャワーも浴びたし、服は適当にパーカーとスキニーデニム、それに初売りで買ったチェスターコートをチョイスをして、五分前に駅前にやってきた。

 そして、アサミにメッセージ。

『いつものとこってどこ?』

 返事はすぐには返ってこない。とりあえず、噴水の前で待つ。寒い。寒風が私を襲う。しかも曇天。お日様の力も期待出来ない。

 噴水の周りには私と同じく待ち合わせをしているっぽい人が数人いる。ここはこの辺りだと割とポピュラーな待ち合わせスポットだ。わかりやすいし、改札からも近い。

 私と同じように待ち合わせをしている人は、待ち合わせの相手が来ると、「おせーよ」なんて言いながらも二人して嬉しそうな顔をして、この場から去っていく。

 私もアサミが来たら、あんな顔をするんだろうか。

 ヴ。とスマホが揺れる。アサミからの返信。

『しらないー』

 でしょうね。そもそも私たちはそんなしょっちゅう駅前に集合しているわけじゃない。

『南口の噴水の近くにいるよ』

『北口のコンビニにいるよ』

『じゃあ。そっち行く』

『ありがとー。まってるー』

 南口から北口までは、構内通路を使ってすぐだ。最近出来たこの通路のおかげでずいぶん近くなった。昔は地下通路しかなくて、そこは階段しかないし、薄暗いしで、あまり使いたくなかった。新しい構内通路は明るいし、エスカレーターもある。

 まだピカピカの白い通路を北口に向けて歩いていると、一枚のポスターが目に留まった。それは旅行のポスターで、行き先は沖縄だった。そこには青い海。青い空。白い砂浜。

 いいなー。沖縄。行ったことないけど、暖かいんだろうなぁ。それだけ夢の楽園のように思えてくる。ここは、寒いし、海はないし、空は灰色だし、白いのは新しい通路くらい。だけど私を待つアサミは居るはずなので、沖縄に別れを告げて、北口に向かって再び歩き出す。

 北口について、コンビニを探す。どこにあったっけ。北口はあまり来ないから記憶が曖昧。

 少しウロウロするとコンビニはすぐに見つかった。その中で雑誌を立ち読みしているアサミもすぐに見つかった。私がクリスマスにあげた朱いマフラーを今日も使ってくれている。

 ガラス越しにアサミと目が合う。パッとアサミの表情は明るくなる。噴水で待ち合わせをしていた人たちと同じ顔だ。だから、私は頑張って表情筋に力を込める。やれやれ。やっと見つけたぜ。みたいな顔をしてみようと試みる。出来ているかはわからない。そんな私の頑張りも虚しく、アサミは雑誌を棚に戻すと、コンビニの奥へと行ってしまった。なにかを手にとって、レジでお会計をするアサミ。そして、袋を下げてコンビニを出てきた。

「ミキちゃん。わざわざありがとー」

 さっきと同じようにアサミは嬉しそうな顔をしている。私は、寒かったのに北口まで来てあげたよ顔をしようと努力する。

「いいよ」

「はい! これあげ、あっつ!」

 アサミはなにかを袋から取り出した途端、それを私に放り投げる。

「うわっ」

 またしても、努力は報われず、私の表情は驚きに上書きされた。なんとかなにかをキャッチする。あっつ。

 それは缶コーヒーで、ミルクと砂糖が入った甘いやつだった。そして、缶がめちゃくちゃ熱かった。

「ありがと」

 めちゃくちゃ熱かったけど、今度は何食わぬ表情をちゃんとして、缶コーヒーをコートのポケットに入れる。これ熱くて絶対飲めないやつ。

「これがいいこと?」

「まさか。これは寒かったのに北口まで来てくれてありがとうコーヒー。いいこととは別」

 どうやら出来ていたらしい。

「で、いいことって?」

「休みに私に会えること!」

 バッと両手を左右に広げるアサミ。手に反応したのか、コンビニの自動ドアが開く。

「そこ、邪魔になるよ」

「あ、うん」

 アサミは自動ドアの前からすすっと横に移動。自動ドアは誰も通すことなく閉まる。

「で、これからどうする?」

「どうしよっか」

「なにも考えてないの?」

「うん」

 だと思った。私はため息をつく。不意に視界の端に灰皿。私はそれから目を逸らす。するとコンビニのガラスに映った私が見えた。私はため息をついたはずなのに、どこか嬉しそうだった。それがなぜか恥ずかしくて、頬を少し強めに撫でる。

「ミキちゃん。なにしてるの?」

「なんでもない」

「ふーん。あ、そういえば、さっき読んでた雑誌にさー。沖縄旅行の記事があったんだけどね」

 なにかをごまかしたいときにアサミのコロコロ話題を変えるクセは助かる。

「沖縄は行かないよ」

 行きたいけど。今日はなんだか沖縄に縁があるらしい。

「さすがの私もそこまでは言わないよー。だからさ」

 風が吹く。冷たい冬の風。私は肩を竦め、腕を組む。コートが揺れて、ポケットに入れたコーヒーがほのかに温かさを伝えてくる。

 アサミはその冷たい冬の風に負けない笑顔で言った。

「海、行かない?」

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