第9話:義務教育という名の収容所
なんだか、とても重々しい表題を付けてしまいました。
現在或いは、以前教職員として働いていた方は、正直これから書く文章には言いたい事や反論したい事があるかもしれません。
ですが、私が当時思っていた事や実際に行っていた事を書いていこうと思います。
何故、《収容所》という表現をしたのか。
私は、中学1年生になった頃に、通学中に当時通っていた小学校の前を通った時に、『まるで、絶えず監視されている事が前提のこの施設は収容所みたいだ』と感じたからです。
私は小学生の頃に、国語の授業で金子みすゞという詩人について学びました。
授業の一環で、『昔の詩人と現代の詩人を比べてみよう』という内容を、私のクラス全員が各々取り組む事になりました。
当時は、携帯電話を所持している生徒は数人しかいませんでしたし、パソコンも学校の授業中にしか使えませんでした。
調べるのに使えるのは、図書室に置かれている本くらいでした。
私は、当時某学習誌を購読していました。その冊子のコーナーに、当時活動している詩人のページがありました。
そのコーナーには、読者投稿の機能も有り、同世代の子供達が綴った詩が掲載されていました。
私は、折角なのでその詩人と金子みすゞを比べようと思いました。
実際に調べる前に、担任の先生に許可をもらう必要が有りました。
今思えば謎なシステムですよね。
私も、提出用紙に書いたんですよ。
『昔の詩人:金子みすゞ 現代の詩人:〇〇』
記入して担任に提出したら、少しして呼ばれました。
廊下に出ると、担任と図書室の先生が立っていました。
担任は、
「桜木さん。提出してくれた案なんだけどね、別の人にしてくれる?」
「え?なんでですか」
「金子みすゞは問題ないんだけど、この〇〇って誰だか分からないのよ。藤井先生(図書の先生:仮名)も知らないみたいだから、もう少し有名な人にして欲しい」
と私に告げました。
確かに、有名な詩人ではなかったかもしれません。
私だって、あの冊子を購読していなかったら知らなかったでしょうから。
でも、やっぱり悔しいじゃないですか。
なので私は、翌日担任に冊子を見せて伝えました。
「この人が、〇〇という詩人の方です」
実在する詩人なんだと伝えたかったのです。
『もしかしたら、許可してくれるかもしれない』と思いました。
「ごめんなさいね。やっぱり、図書室で探してくれる?」
担任から返ってきた答えを、当時の私は受け止めきれず悔し涙を流したのを今でも覚えています。
その日の掃除当番は図書室でした。
図書室に向かうと、藤井先生から『ごめんなさい』と謝罪されました。
私は、関心のなくなった題材を、流れ作業の様に終わらせて提出しました。
小学五年生の頃だったと思います。
季節は流れ、クリスマスを控えた冬。
何の授業だったのか覚えていませんが、私のクラスでは時々、地域の方と交流する時間が設けられていました。
ある日、担任からとある材料を用意してくる様に伝えられました。
針金やワイヤーを使って、『クリスマスリースを作る』という内容でした。
授業は約1週間後でした。
特に楽しみにしていたのは女子でした。どんなリースを作ろうか相談しながら下校していました。
私も、どんなのにしようか考えましたが、数日考えた結果、ダンボールを使用して『パッチワークみたいなリース』を作ることに決めました。
当日、肩書きは忘れてしまいましたが、リースの講師がグルーガン等の注意事項を伝えてくれていた時に、担任が生徒の材料を確認してまわっていました。
他の生徒の机の上には、ワイヤーとリボンや木の実が置かれていました。
私は作りたいものが違ったので、勿論材料自体が違いました。
「桜木さんは、材料を忘れたの?友達から貸してもらいなさい」
担任は、私にそう告げると周囲の生徒に声をかけ始めました。
それもそうでしょう。だって私の机の上には、ドーナツ型に切り抜いて加工したダンボールと、リボンと複数の布の
担任に声をかけられた複数人の生徒が、私に木の実やワイヤーをお裾分けしてくれようとしましたが、私は首を横に振って断りました。
…ですが、そんな事では引き下がる担任ではなかったので、仕方なく私は友達から木の実だけを数個受けとりました。
ダンボールに布をボンドで貼り、グルーガンで木の実を接着しました。
そうして、私のリースは完成したのです。
その日の最後の授業だったこともあり、
殆どの生徒が下校していくなか、私は先程完成したリースを見つめたまま自分の席に座っていました。
本来、自分が作りたかったリースとは違う物を、強制的に作らされた事を『屈辱』と受け取り、現実を受け止めたくなかったのかもしれません。
そんな私を見た担任は、講師の女性に話しかけました。
「そんなにアレが作りたかったのかしらね」
その言葉は、当時の私にはとても残酷で破壊力のある言葉でした。
ダムが決壊したかの様に泣きじゃくりながら、私は友達と下校しました。
今思えば、私は担任の要望通りの事ができなかったのだから、仕方がないのかもしれませんね。
私は授業には《正解の存在する授業》と、《正解の存在しない授業》があると思います。
《正解の存在する授業》というのは、数学・化学・歴史・漢字や文法系がそうですよね。
正解は既に決まっているので、答えを導くまでの過程を学びますよね。
《正解の存在しない授業》というのは、個人の感想を求める国語の授業や、図工・美術の授業。それから、現在軽く問題視されていたりする、道徳の授業がそうですかね。
本来 《正解の存在しない授業》では、生徒が様々な意見や考えを述べたり表現をする事で、聞く側も意見を受け止めて、更に発言したり…という、相乗効果が期待される授業だと私は思っています。
ですが、殆どの場合、担任は自分の考えを生徒に押し付けてしまうんです。
担任は、《仲裁者》となって生徒の意見を聞く筈なのに、気が付いたら《審判》の立場になって、生徒の意見に対して善悪を告げる様になっている気がします。
『十人十色』なんて教えておきながら、《子供の自由な発想》を殺してしまうケースが多い様に感じます。
今回リースの件は別としても、最初に書いた詩人の件は、まさにこのケースですね。
色々書いてきましたが、最終的に《収容所》という表現に至ったのは、上記で述べた様な、自由な発想を根こそぎ荒らして、バラバラな意見を1つに統一させようとする、《更正施設》の様に感じたのと、全校集会の時に教職員から360°監視されている様に感じたからです。
…まぁ、高校生にもなれば実際に集会から脱走する生徒が現れるので、監視が必要なのかもしれませんけどね。
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