第7話


 感慨無量の



       ※


 二月二十八日、火曜日。

 森山拓海は、実家のあるかわ郡にいた。

 真っ黒な喪服を着て。

(…………)

 一昨日の日曜日、母親から連絡があった。

『お父さんが亡くなった』

 父親は畑にいく道で倒れているのが見つかったという。救急車で病院まで運ばれたが、一度も意識が戻ることはなかった。

 遺体は拓海が美河郡にきたときはもう葬儀会館に移っており、父親は布団の上で静かに横になっていた。顔に白い布をかけて。

 月曜日が通夜で本日火曜日が葬儀。学校には連絡して忌引き休暇をもらう許可を得た。実家には母親一人になるので、拓海は一週間ほど休ませてもらう旨を学校に伝えている。

 拓海は今回の通夜や葬儀を通して、心を痛めたことがあった。それは、親戚の特に父親の兄弟から、あまりいい言葉が聞けなかったこと。

『あいつはまったく勝手だよ。いつもいつも好き勝手やって』

『ふらっといなくなるのは、死ぬまで変わんないだからな』

『自分のやりたいことばっかりやって、周りのことなんてお構いなしに』

さきさんに迷惑ばっかかけて、最後もこれなんだからね』

『申し訳ない、咲さん。あんな弟を持って、恥ずかしいよ』

 親戚は父親をあまりよく思っていなかったのだ。

 父親が母親や親戚に迷惑をかけてきたこと。そして、いつも自分の好き勝手に行動してきたこと。拓海にも思い当たる部分があるので、親戚と同じ意見で母親がかわいそうな気持ちもある。

 ただ、ああも一方的に父親のことを悪く言われるのは、あまり気持ちのいいものでなかった。特に最近の父親については。


 午前中に葬儀が終わり、遺骨を持って家に帰ってきた。

 長男夫婦は葬儀場からそのまま車で帰っていったので、家には拓海と母親の二人のみ。

 父親の忌引き休暇は最大七日間休むことができる。明日は大事な卒業式だが、しかし、いきなり父親を亡くした母親を残して愛名市へ帰ることはできなかった。荷物の整理や相続のことだってあるのだから。

 なにより、今の母親を一人にしたくなくて。


 壁にかけられた振り子時計は午後四時になったところで、チャイムが四回鳴る。

 台所のテーブル、母親が湯飲みでお茶を出す。湯気が小さく揺らいだ。

「疲れちゃったね、ほんとに……」

 葬儀では喪主も務め、毅然に振る舞った。だが、慣れないことの連続に、さすがに疲労の色は隠し切れない。落ち着いたベージュの部屋着に着替えた母親は、白色が交じる髪の毛が乱れ、前の方に垂れていた。

「ご飯はどうしようか? うーん、店屋物でいい? って、そういえば、ずっとそんなだったわね」

 通夜の食事も、今朝のお斎も葬儀後の食事も、すべて式場で用意されたもの。寿司に揚げ物に天ぷらに刺身にお吸い物。

「簡単に作れるものは……ご飯炊かないといけないから、麺類かね」

 言いながら湯飲みを口につける母親。

「いきなり、だったからねー。そうね、『いきなり』っていうの、お父さんらしいっていえばお父さんらしいわね。死ぬときまであの人は、ほんとに」

「……あのさ、母さん」

 父親がいきなり死んだのだ、心身の疲労は大きいだろう。これからだって相続関連のことが待っている。きっと一年ぐらいは尾を引くに違いない。

 だからこそ、心配である。

「母さんは、まだまだ元気だよね?」

「どうかしら……? 元気、あるかしらね」

「あるよ」

 拓海には、父親に対する親戚の声に、母親が疲れ果てているように見えた。さんざん悪口を言われるような父親も父親だが、どう言われても波風を立てないように一切言い返すことなく笑顔で受け止めていた母親の心境は、きっとやり切れないものがあっただろう。

 しかし、だからこそ、そんな母親に伝えたいことがある。

 夫を亡くした母親にだからこそ、死んだ父親について。

「父さんはさ、いろんなこと言われるけど」

 いつも好き勝手で、自分の好きなことばかり。

「でもね、誤解しないでほしいんだけど」

 最近はちょっと変わってきている。言葉には出ないかもしれないけど、父親はちゃんと母親のことを思っていたのだ。

「定年したら畑をはじめたでしょ? あれね、母さんのためなんだよ」

 物置小屋に置かれている父親がいつも使っていたクワに触れたとき、伝わってきた感情がある。


       ※


 もりやまかい

 妻の名は咲。咲にはいつも苦労を重ねてきた。申し訳ない気持ちはあるが、なかなか言葉にすることはできない。

 だからこそ、定年を迎え、一大決心をする。

『近所の土地を借りて、畑仕事をする』

 最近はバイクにも乗ることはなく、部屋の隅に置かれたギターは埃が被っていた。このままだと、定年を迎えたら暇になる。何かしなければ。

 そんなことを考えていた矢先、妻の咲が大きな買い物袋を前籠に入れて自転車で帰ってくるのを見かける機会があった。家の前の坂道を大変そうに、漕ぐことなく自転車を押して。買い物籠を見ると、主に野菜類が面積を占めている。きっとこれが重くて坂道を上がってこれないのだろう。

 なら、野菜をスーパーで買わなくてもよくすればいい。そのために、畑をはじめることにした。野菜を買う必要がなければ、きっと買い物帰りだってすんなり帰ってこれるに違いない。

 そうと決まれば、役所にいって土地を借りにいかなければ。

 自家製の野菜ができれば、咲も大喜びしてくれるだろう。

 この分だと、定年後も忙しくなりそうだ。


       ※


「父さんは母さんのために一所懸命だったんだよ。たまにしか手伝わない僕が言うのもなんだけど。でも、畑仕事してるとき、楽しそうだった」

 死んだその日まで、畑仕事をして。そんな場所で亡くなって。

「伯父さんたちは父さんのことを悪く言ってたし、若い頃はそんな風だったこともなんとなく知ってるけど……」

「…………」

「でも、父さんは母さんのために頑張ってたんだ。だから、そのことだけは知っておいてあげてよ」

「…………」

 母親は表情を変えることなく、真っ直ぐ拓海のことを見つめて……小さく息を吐く。

「いきなりどうしたのかと思えば……そんなこと、知ってるわよ」

「へっ……」

「あんたね、母さんが父さんとどんなけ一緒にいると思ってるの? 四十年よ、四十年。もちろん父さんはそんなこといちいち言わないわよ。照れ屋というか、ぶっきらぼうというか、なんというか……けど、あんたに言われなくてもちゃんと分かってたわ」

「そ、そうなんだ……」

 当たり前のことを当たり前のことのように口にして小さく笑う母親の姿に、拓海が心の奥底から、何か燃えるような熱いものが込み上げてきた。

(そっか。そうなんだ)

 単純に驚いた。拓海が持つ『幻思』という不思議な能力がなくたって、それが通じ合う関係が目の前にあったこと。

 今まで幻思でしか本当の思いは伝わらないと思っていた。けど、違う。そうでない。そんなものを超越した関係性を見ることができた。

 自分がいるこの世界にそんな存在があること、ただただ感慨無量である。

 まるで心が洗われた気がした。

(だったら、もう)

 だからこそ、立ち上がる。そうすべきと思ったから

「母さんさ、一人でも大丈夫かな? 実は明日、卒業式があるんだよね。できれば生徒を見送ってあげたいんだ」

「ああ、そうだったのかい? それは悪いことしたね」

 微笑みを浮かべる。

「いっといでいっといで。大事な生徒さんなんだから、しっかり送り出してあげなさいよ。こっちはこっちでなんとかするから。とはいえ、また来てくれるんだろうね? いっぱい香典もらっちゃったからね、ちゃんとお返ししないといけないし、ちゃんと記録もしないといけないし。あんた、数字得意でしょ」

「式には大勢の人が参列してくれたね」

「お父さんは趣味がたくさんあって顔が広いからね。嬉しかったわ、お父さん、あんなにも多くの人に好かれていたんだって知ることができて」

 母親は頬に手をつき、うっとりとどこでもない斜め上の虚空を見つめていた。

 とても幸せそうに。


 その夜、拓海は愛名市に戻る電車に乗った。

 明日は拓海が勤める天谷高等学校の卒業証書授与式がある。教員として旅立つ大勢の生徒を見送る立場にあった。

 それにしても、今年は少し具合が違った気がする。いつもは表面上の付き合いでしかないのに、今年は生徒と深く関わったような……。

 なぜそんなことが起きたのか?

 考えてみて……その頭に思い浮かぶ光景には、図書室で弁当を広げて、『いただきます』と手を合わせた一人の少女がいた。

(明日は、あいつをしっかり飛び立たせてやらないと)

 あの学校から、新しい場所へ。

 拓海を乗せた電車は、暗闇を切り裂くようにレールの上を走っていく。進めば進むほど、どんどん愛名市が近くなる。天谷高校が近づいてくる。

(…………)

 拓海は、『明日卒業する生徒にどんな声をかけてやろうかな?』と考えながら、小刻みに揺れる座席にもたれかかり、静かに瞼を下ろしていく。

 口角を小さく上げながら。

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神様のいじわる @miumiumiumiu

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