第6話
卒業するのは
※
十二月十九日、月曜日。
年末である。
理由は、河井の留年に関して。
河井は二学期のほとんど休んでおり、出席日数が足りない。
加えて、二学期の中間も期末テストも受けていない状況で、単位制である高等学校として、このままでは単位を授与することができない。三年生にはもう学期末テストはないのだから。
河井の二度目の留年に関して、担任の青海先生は声を荒げて抗議した。来年三度目の三年生をやらせるなんて、あまりにも酷だったから。素行もよく成績もいい。状況としては、病気で学校に登校できていないだけなのだ。
職員会議で声を上げた青海先生の思いに、拓海も同意した。拓海は担当している授業はないが、河井が所属していた文芸部の顧問である。結果として僅か数が月の活動ながらも、文化祭に向けて河井は誰よりも努力していた。あの姿を見たら、応援だってしたくなるのが人情だろう。加えて、四月から資料室で昼食をともにすることで、他の教員にはない思いが湧いたことは、もはや否めはしなかった。事実、去年この話題になったとき、拓海は傍観していただけだから。
そんな二人の声に、学校側からは『留年』という結果を一時的に保留。本人の意思を確認するように指示された。
だから、拓海は担任の青海先生とともに河井の家を訪れたのである。二人とも、河井に無事卒業証書を受け取らせるために。
それは、今にも灰色の空から雪が落ちてきそうな、寒い十二月の年末のこと。
河井の家は、閑静な住宅街にある木造二階建てだった。
拓海たちは一階の居間で、母親からの病状について話を聞く。今も河井は微熱がつづいており、体調が悪い日はベッドから起き上がることもできないという。幼少の頃から悩まされてきた原因不明の病気で、今後も油断は禁物らしい。
ただ、今日は体調がいい方だそうで、本人の顔を確認するために、二階の部屋を訪れることにした。
「なんだ、結構元気そうじゃないか。俺はてっきり高熱で顔が真っ赤になってるものだとばかり思ってたぞ」
「はい、なんとか……すみません、今日は森山先生まできていただいて、申し訳ない限りなのです」
花柄の赤いパジャマ姿の河井は、ベッドの上で上半身を起き上がらせ、入ってきた教員二人を出迎えた。
南側に面したベッドの隣には勉強机、箪笥の上やベッドの脇には多くのぬいぐるみがあり、壁に動物アニメのジグソーパズルが飾られている。雪のような真っ白な子猫の写真があるカレンダーは残り一枚となっていた。
「すみません、こんな格好で」
「おい、河井! お前、もちろん卒業したいよな? だろ? 卒業したいに決まってるよな? なあ?」
と突然、河井の顔を見て、珍しく背広姿の青海先生がぐいっと首を前に出しては、『なあ?』を連呼する。まるで物売りのように。
「なあ? 去年は残念だったけど、今年は卒業したいよな? なあ?」
「ど、どうしたのですか? 青海先生、なんか怖いです……あの、そんなに近寄らないでください」
「ああ、す、すまん。つい」
ベッドにいる河井に今にも抱きつかんばかりに近づいていた青海先生は、一歩、二歩と後退り、壁を背にして改めて問う。
「今日は森山先生と一緒に、お前の気持ちを確認しにきたんだ。三月に卒業したいんだろ? そう言ってくれ。なあ?」
「……なんか、随分と強引なのですね。そりゃ、したいですよ。したいですけど……でも、無理ですね」
にこやかに微笑む河井。
「わたしが卒業なんて、無理に決まってます。学校にもいけてないですし、テストも受けてないですし……」
「ごちゃごちゃと、お前は余計なことは考えなくていいんだ。お前が口にすべきなのは『卒業したい』ってことだけなんだ。お前は『卒業したい』ってずっと連呼してろ。口にすることで、そう言いつづけることで、その思いは必ず叶う。言霊は絶対なんだ」
青海先生は相手に同意させるべく、誘導せんばかりに大きく頷いた。相手の様子なんてお構いなく。
「いいか、『思う念力岩をも通す』なんだ」
「うー……岩は硬いですから、いくら頑張ったって念力じゃ通らないと思います。そもそも、念力なんてものは存在しないと思います。青海先生はテレビや漫画の影響を受けているのでしょうか?」
「はっ……?」
大きく瞬きする青海先生。
「お、お前はよく分からんことを言うな……こほんっ。いいか、そんな細かいことは気にするな。どーんっ! とおれに任せておけ。絶対に卒業させてやるからな」
「それは、どうやってですか?」
河井の首が横に傾く。その角度は深く、頬が肩につきそうなぐらい。
「テスト受けてないですから、単位だってもらえないです。そもそも出席日数だって足りないです。卒業できるはずがないです」
「そこはどうにかするよ」
「どうやってですか?」
「おれが、ずばっと」
「どうやってです?」
「そ、それはだな……」
口籠もる青海先生。力を入れて喋っていたが、無計画。
「それは、こちらの森山先生がなんとかしてくれる」
「嘘でしょ!?」
拓海の瞳が巨大化した。虚を突かれたというか、驚かされたというか……目を大きくする以外の術がなかった。
「えっえっえっえっ、ここにきて丸投げですか? 全部こっちに丸投げ? そりゃ無茶苦茶ですよ」
「『丸投げ』じゃなく『協力』です。ここは二人で協力すべきです。だって、森山先生は、河井に卒業してほしくないっていうんですか?」
「そんなことは言ってませんけど……」
「なら、考えてください」
「……なぜそうもはっきりと責任転嫁することができるのか、何日かかってもいいから突き止めたいところですが……」
拓海は嘆息して……いきなり振られて、逡巡したところで思いつくものはない。『拓海が考える』というより、今ここにいる河井と向き合うことにする。
「河井はさ、この一年……って、ちゃんと通えたのは二学期の最初までだったけど、どうだった? 楽しかったか? しんどかったか?」
「うー……やっぱりもう一回三年生やるのは、つらいことが多かったです。去年までと同じ学校なのに、まるで別世界だったっていうか……知ってる人がいないですから。異国に一人で置き去りにされたような気分でした」
ぴたっと言葉が止まり、河井は小さくつなげる。
「わたし、異国にはいったことがないので、今のは全部表現を誇張したといいますか、嘘になっちゃいますけど……その、不安で、心がざわざわして、朝ずっとベッドから出たくなかったっです。でも……」
河井は少しだけ視線を上げ、どこでもない虚空に過ぎ去った時間を見つめてから、言葉をつづけた。
「文芸部の活動はおもしろかったです。もしまた留年しちゃうなら、また入部したいです、わたし。来年もお世話になります」
「それじゃ困るけどな……」
「うー……冷たいです、森山先生。毎日一緒にお弁当食べた仲じゃないですか。ああ、来年もできるかもしれませんね」
「それじゃ困る!」
拓海の語気が強くなった。それは一人での平和な昼食を守るという意味合いより、河井が留年する事実を否定するように。
「簡単に諦めないで、もう一回、頑張ってみる気はないか?」
頑張り。文化祭に向けて部誌を作ったときみたいに。
「まだアイデアはないけど、でも、お前が卒業する道はこっちでなんとかする。けど、それはもしかしたらお前に迷惑をかけるものになるかもしれない。でも、僕はお前に卒業してほしい。だから、また頑張ってみないか?」
「うー……」
河井は唇を尖らせて、視線は斜め下へ。
「……卒業なんて、無理、ですよ」
これまでの和やかだった雰囲気が一瞬で冷却されるように、声が小さくなる河井。視線はすぐしたにあるベッドのシーツを見つめるのみ。
「去年だって駄目だったのです。変わらないのですから、今年だって駄目ですよ。変な期待、させないでほしいです」
「そ、そんなことない。お前さえその気になってくれたら、なんとかする。だから」
だから、また頑張りを見せてほしい。
「頼む」
「うー……」
河井はまた口を尖らせて……しかし、視線が上がることはない。
「……無理ですよ」
小さく顔を横に振った。色のない希望から目を逸らすようにして。
河井は視線を下げたまま、唇を噛みしめる。強く、強く。
「また来年です。来年またお世話になれば、文化祭に向けて部誌が作れます。お昼には、森山先生ともランチできますし。留年っていっても、そこまで悪いことばかりじゃありません。つらいことだってあるでしょうけど、もう一回やりましたから」
現状に希望が持てないこと、それは河井が去年経験している。期待したところで、単位が取れない状況では、高校を卒業することはできない。中学までとは違うのだから。
「わたし、また来年」
「駄目なんだ!」
拓海の荒げた口調に、河井の両肩がびくんっと揺れる。
荒げた声に、当人である拓海ですら驚いた。自身でもコントロールできていなかった気持ちを落ち着かせるよう、大きく息を吐く。
「あのな、河井、『学校』ってどんな場所か知ってるか?」
「そ、そりゃ、お勉強するところです」
「勉強か。確かに授業はあるな。テストもある。けど、国語や数学、社会に理科に英語なんていう勉強は二の次なんだよ」
拓海にとって生徒に学んでほしいことは、学校で教えている勉強でなく、もっと別にある。それが現時点の見解であった。
「『学校』っていうのは、『社会に出る準備をする場所』なんだ。社会に出たら、好きなことばっかりやって生活してる人間なんて一人もいない。いやなことにだってしっかり向き合っていかなきゃいけないんだ」
「…………」
「学校で教えてる国語とか数学とか英語とか、教員である僕がこんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、好きでやってるやつなんていないだろ?」
「…………」
「そりゃ、成績がよければ嬉しい気になるかもしれないけど、わざわざ好んでやるやつなんて、少なくとも僕は知らない。そりゃそうだよな、あんな勉強、ほとんど役に立たないものばっかなんだから」
拓海の担当する物理だって、『重力』という力の関係性を知ったり、『ニュートンの法則』を学んだところで、日常生活には使う場所がないし、それは社会に出たところで同じだろう。他の教科だって変わりはしない。
「学校の勉強なんて役に立たないことばかりなんだ。けど、生徒はそれをやらなくちゃいけない。なぜか? 社会に出て、いやなことに直面しても、その目の前のことから逃げないためだ」
目を覆いたくなるような現実にだって、ちゃんと向き合っていくために。
「逃げないこと、向き合っていくこと、それをちゃんと学んでほしい。僕は生徒にそう願ってる」
「…………」
「河井はさ、留年した今年はつらかったよな。特に四月なんて知らないやつばっかで、教室で寂しい思いをしたと思う。でも、お前は逃げなかった。ちゃんといやな現実にも逃げずに向き合っていけるやつだ。だから、今回も逃げないでほしい」
今年卒業することからだって、逃げないでほしい。
「できる。お前がその気になれば、必ず卒業できる。だから」
「……無理ですよ」
小さく首を振る河井。
「卒業できる条件がありません」
「河井」
「じゃあ、どうやったら卒業できるのですか?」
河井は現在もパジャマ姿で自宅のベッドの上にいる。
「こんな学校にもいけないような状況で」
「そんなのは後回しだ。今大事なのは、お前の気持ち」
向き合う気持ち。逃げない気持ち。
河井の気持ち。
「どうなんだ? 卒業する気あるのか?」
「……無理ですよ、そんなの」
「無理じゃない!」
拓海は、持ってきた革鞄から楓がイラストされた部誌を取り出す。
「これ、本当はもっと早く渡すはずだったけど、ずっと渡せなくて悪かったな。部長の一ノ瀬も文芸部のみんなも、お前に感謝してた。みんなの思いも詰まった大切な部誌だ。大事にしろよ」
「ぁ……」
青カバーの部誌を受け取った河井は、下げた視線のままページを捲っていく。
「…………」
「力作じゃないか。お前、初めてのことで難しいことが多かっただろうけど、それでも頑張って書いたんだろ? だったら、当時の頑張りを思い出してくれ。お前はこれからなんだから」
「…………」
「いやだろ? そんなに頑張ってた自分に、今年も卒業できない未来を与えるなんて」
「…………」
ページを捲って、ページを捲って……河井はただただページを捲り、その間、溢れてきた涙が零れていく。
「…………」
捲る。捲る。ページを捲って、河井の感情が大きく揺さぶられる。
部誌には、黒い染みがいくつもできていった。
「……先生」
ゆっくりと顔を上げた河井は、涙でぐちゃぐちゃな表情のまま、感情を抑えるように歯噛みしていた唇を動かしていく。
「わたし」
わたしは、
「今年」
今年、
「卒業したいです」
天谷高校を卒業したいです。
「森山先生……」
吐き出された言葉、それは手にした部誌の上で浮き上がっている。
当時の河井自身すらも投影された『飛べない鳥の』によって。
「卒業まで、よろしくお願いします」
「おう、任しとけ」
拓海は満足そうに頷くと、鞄から細長いものを取り出す。
「お前にこれを預けるよ。これから挫けそうになることだってあると思う。そんなとき、これを見て挫けそうにある気持ちをぐっと堪えてくれ」
ピンクのそれを、河井が持っている部誌の上に載せたのだった。まるで栞のように。
飛べない鳥の
河井 洋子
湖畔には緑豊かな鳥の国が存在します。
食べ物である木の実は豊富で、ここに天敵はおらず、鳥たちはいつでも自由に空を飛び回りながら楽しく暮らしていました。
と、一本の大きな樹木の根元に、空を羽ばたく多くの鳥を羨ましそうに見上げる一羽の鳥がいます。でっぷりと太った鳥は、みんなと違って翼を動かしても飛ぶことができません。いつもみんなが飛んでいるのを見上げながら、指を銜えて羨ましがるばかりです。
食べる木の実も、背の低い場所にはなかなか実っておらず、太っちょの飛べない鳥は他の鳥がつついて地面に落ちたものを食べて暮らしています。
飛べないことをみんなに馬鹿にされますが、飛べないことは事実なので何も言い返すことはありません。ただ、『みんなと同じように飛ぶことができれば、きっと楽しいだろうなぁ』と考えては、いつも地上で翼を羽ばたかせます。空飛ぶ自分を夢見ながら、しっかり努力するのです。
『あー、羨ましいな。僕も飛びたいな。なんで僕は飛べないんだろう? 空が飛べたらとっても気持ちいいだろうに』
飛べない鳥は、飛ぶことのできない自分の体を不思議がるばかりでした。
鳥の国にいくつかの問題が起き、みんなで協力して一つずつ解決していきます。そうして鳥の国は今日まで平和を築いてきました。そこに暮らす鳥たちの活躍によって。
そしてたくさんの季節が通り過ぎていき……しかし、突如として鳥の国に絶望が訪れることになります。
鳥の国に、これまでにない寒波が押し寄せました。気温の急激な低下に、草木は枯れ、多くの鳥からは体温が奪われていきます。体温を回復させようにも食糧がなく、鳥たちは弱っていくばかり。もはやこの国から生きる希望はなくなり、他の場所に移り変わろうにも、寒くて飛ぶことはおろか歩くこともできません。鳥は次々と地面に横たわり、身動きもできず……国が滅びるのは時間の問題でした。
太っちょの飛べない鳥は、突然の寒波にも太っている分みんなよりも動くことができます。弱っていくみんなに駆け寄り、話しかけることができます。一所懸命励ますことができます。けれど、どれだけ話しかけたところでみんなを元気にすることはできません。食糧を探そうにも、飛べないので探す範囲は狭く、そんな場所にある木の実はすでに食べ尽くされていました。
飛べない鳥は愕然とします。みんなと違って自分だけ活動することができるのに、みんなのために何もすることができない。
一羽、また一羽と仲間の命が失われていきます。そんな惨状に、ただ見ているだけで何もできない飛べない鳥は、自身の無力さを呪うばかりです。
このままでは、国が滅んでしまいます。飛べない鳥は最後の一羽になるまで、国中の死を目の当たりにすることでしょう。
死んでいく仲間をただ黙って見ていることしかできない現実……そんなのとても耐えられません。心が破裂して、ろくに前を向けなくなってしまいます。
『みんなが死んじゃうなら、僕も一緒に』
自分だけが生き残るなんて胸が裂けるような気持ちです。とてもそんなの苦しくてできません。だから、飛べない鳥は自ら死を選ぶことを決断します。それが自分にできる唯一のことでした。
けれど、いざ死のうとしても、どうしたら死ぬことができるのかが分かりません。冷たい地面に横たわっても寒さには強いので死ぬことはできず、自分を襲うような獰猛な動物は近くにいません。空腹は得ていますが、太っている自分が餓死する頃には、きっとみんなの方が先に衰弱死することでしょう。
みんなとともに死ぬ方法について、飛べない鳥が考えに考えた末、一本の巨大な木を見上げることになります。今は葉を失って寂しいものになっていますが、それでも空に向かった大きく立派に数多くの枝を広げていました。一部は湖の上にまで太い枝を伸ばしている、とてもとても大きな樹木です。
飛べない鳥は思いました。『あそこから落ちれば死ねるんじゃないかな?』そう思う一方で、もしかしたら最後の瞬間、あの高さから飛び立てば飛ぶことができるかもしれないと夢想します。飛べない鳥だって一応は鳥です。体には立派な翼があります。だったら、一度ぐらいは飛んでみたいです。だから、最後の瞬間は力いっぱいチャレンジしようと思いました。
考えがまとまれば、あとは実行に移すのみ。太い木の幹に翼を広げてしがみつき、翼と足を動かして少しずつよじ登っていきます。太い体ではなかなかうまく登ることができず、何度も何度も地面に尻餅をつくことになりますが、それでもめげることなく木を登っていきます。
そして飛べない鳥は、何回も何回も木登りに挑戦し、失敗に失敗を重ねていって……チャレンジしてから五十二回目、とうとう太い枝に立つことができました。立っている枝はとても太く、太っちょの飛べない鳥が立っても折れることはありません。高さは地面からは五メートルぐらいあり、考えてみると、そこはいつも地面から見上げるばかりの場所でした。そこに、ようやく立つことができたのです。
『凄―い』
初めて立った場所、そこからは湖が一望できます。きらきらと水面は光で反射しており、澄んだ水には多くの魚影が見えました。視線を上げてみると、吹く風が木々を揺らし、遠くに見える山々は雪化粧をしています。それは飛べない鳥にとって、これまで見たことのない神秘的な光景でした。空には真っ青な色がどこまでもつづいていて、ここまで届いてくる風は翼を撫で、とても気持ちのいいもの。
この景色が見られただけでも、生きていてよかったと思います。みんなと同じものを見ることができたのですから。
下を見ます。前方にある水面はあんなにもきれいなのに、下にあるものは自身を呑み込むような恐怖を感じます。落ちたことを考えると思わず眩暈がしました。くらくらっ。ごくりっと喉が鳴ります。でも、飛べない鳥は飛ぶことにチャレンジしたいです。だからこそ、この枝から飛び立たなくてはなりません。
円らな瞳で下方を見つめて、じっと見つめて鼓動の強さを感じます。どきどきどきどきっ! 今にも心臓は爆発しそうです。いっそのこと爆発してくれれば簡単に死ぬことができて楽なのですが……仰ぎ見るように空を見つめました。真っ青な色を目に、自分があの大空を飛び回っているイメージを思い浮かべて、翼を大きく上下させてから……いよいよ飛び立ちます。
飛べないけれど、飛べるように今まで地面で練習していた日々を思い出し、翼を大きく動かします。
飛べますように。飛べますように。飛べますように。飛べますように。
いざ、飛べない鳥は、飛び立ちます。
ばさばさばさばさっ。
『いくぞ!』
体を上下させることで勢いをつけ、枝から飛び立ちました!
枝から離れ、飛べない鳥は必死になって翼を動かします。懸命に懸命に……しかし、思いは虚しく、重力は太い体を持ち上げてくれることはありません。みるみると視界が低くなっていき、湖の青さがいくつもの筋になって縦に引かれていきます。
落下。落下します。やはり飛べない鳥では飛ぶことができませんでした。飛べない鳥だから、どうあろうと飛ぶことができないのです。どれだけ必死に翼を動かしたところで、それは変わりませんでした。
『みんな、さようなら』
死を覚悟します。結局飛ぶことはできませんでしたが、それでも最後の最後にチャレンジできたこと、それだけでも自分を褒めてあげたいです。
体がぐるぐると回転して、今ではどちらが上でどちらが下かも分かりません。そうこうしているうちに、飛べない鳥は冷たい湖へと落ちました。盛大な水飛沫を上げて。生涯で、一度として飛ぶことなく。
ばしゃーんっ。
水中に空気はありません。勢いよく落ちたために飛べない鳥は深く沈んだままに、水面にある光の揺らぎを見つめます。嘴から空気が抜け、観念するように意識を切ろうとするのですが……瞬間、これまで想像もしなかった感覚を得たのです。
『僕……』
飛べない鳥は、死ぬために枝から落ちました。あわよくば飛べるかもしれないと思いましたが、叶わないままに死に身を浸していく……はずでした。
なのに。
それなのに。
『飛べてる……』
驚き。驚きです。仰天した上で驚天動地です。これまで何度も何度も挑戦してできなかったことが、最後の最後で叶ったからです。
翼を動かします。自分が弓を放たれた一本の矢になったみたいに、勢いよく真っ直ぐに飛翔します。それから大きく渦を巻くように旋回します。刹那には下降してから一気に上昇すること、すべてが思うままです。
『飛べる! 僕、飛べてるよ!』
ここであれば、飛べない鳥も飛ぶことができます。地上にいた頃が嘘みたいに、前も後ろも右も左も上も下も、自由自在に飛ぶことができます。
やりました。ようやく飛ぶことができました。
『みんな、僕も飛べてるよ! 飛ぶことができたんだよ!』
もう世界のすべてが楽しくて仕方がありません。ずっと願っていたことを、こうして叶えることができたのですから。これでもう、自身の体を悲観しなくていいのです。飛ぶことができていますから。
『あっ……』
目の前には、多くの魚が泳いでいます。地上から覗き込んでいたときは素早く動いて、とても捕まえられそうになかったのですが、今なら手を伸ばせばすぐ届きそうなほど、たくさんの魚が近くにいます。
『みんな!』
飛べない鳥は、地上で待っている仲間のことを考えます。今ならまだ間に合うはずです。みんなのことを元気にすることができるはずです。
『これでみんなのことを!』
それからはもう一心不乱です。ぱくりっと魚を銜えては仲間の元に運び、魚を捕まえては仲間の元に運び、湖に潜っては地上に戻って……飛べない鳥はみんなのためにせっせと働きました。これまで飛べないことを馬鹿にする仲間もいましたが、それでも飛べない鳥はみんなのことが大好きです。みんなのために魚をいっぱいいっぱい捕まえます。いっぱいいっぱい与えていきます。みんなに元気になってもらうために。
『ほら、みんな、ご飯だよ。いっぱい食べて元気になろうよ』
そうして鳥の国は、飛べない鳥の活躍によって滅びの道を免れることができました。飛べない鳥が捕まえた魚を食べ、みんなが元気になったからです。
国のみんなは飛べない鳥に感謝して、それからは仲良く暮らしていきます。水中を自由に飛び回ることができた飛べない鳥は、みんなから尊敬の眼差しを受けるのでした。
こうして鳥の国は救われました。すべては、大空を飛翔するように水中を泳ぐ、一羽のペンギンによって。
※
一月三十日、月曜日。
昼休み。
「森山先生、わたし、ようやく分かった気がします」
天谷高校北校舎一階にある図書室。そこには隣接した資料室があり、一人の少女は玉子焼きを口に運ぼうとしたタイミングで声を上げた。
それは頬を大きく緩めた、実に嬉しそうな表情で。
「わたしのやりたいこと」
にっこりと微笑む。
「聞きたいですか?」
「僕は担任じゃないから、お前の進路について聞く必要はないけど。青海先生に話してみたらどうだ?」
「うー……」
唇を尖らせる河井。その目には軽蔑の色が滲んでいる。
「生徒がようやく見つけた夢なんですよ、先生ならしっかりと聞くべきです。諸手です、諸手」
「『諸手』って、どんな意味で使ってるのかがよく分からないけど……ああ、聞いてほしいなら、さっさと話すべきじゃない? もったいぶってないで」
「うー……その辺の空気を読むのが先生の役割だと思います。そんなことじゃ、税金の無駄遣いですよ。国民の血税をいったい何だと思っているのですか?」
「『税金の無駄遣い』って、払ってもいないやつが……」
拓海はメロンパンを齧る。さくっとした触感と噛むことで解れてくる甘味。いつもでないが、たまに食べたくなる味である。うまい。
「じゃあじゃあ、河井さん河井さん、どうか教えてくださいな。あなたはいったい何がしたいんでしょうか?」
「うーんとうーんと、どうしようかなー? 教えてあげようかなー、教えてあげないでおこうかなー」
「うわー、しょうもねー」
嬉しそうに笑う河井を正面について、拓海はメロンパンを齧ることで燻る感情を発散させていった。
河井洋子について。
年末に本人から直接『卒業したい』という意思を得た。である以上、拓海がすべきことは、それを叶えてやれるように動くのみ。
年末までの僅かな時間で、河井の授業を受け持つ教員全員に頭を下げ、何度も何度も頭を下げることで、レポートを提出すれば単位をもらえるように確約を得た。もちろん校長や教頭にも承諾してもらい、年末にその旨を本人に伝えたのである。
に対して、河井は冬休みの間に、微熱で苦しいその身に鞭打って、全教科のレポートを仕上げていった。やる気になった河井は、もう猫まっしぐらな勢いである。夏休みに文芸部で作成した部誌のように。
年明けの職員会議で、全教科のレポート提出と、拓海や青海先生の熱意によって、河井の留年は免れることが決まった。もちろん出席日数が足りないので、それは正式なものでない。もし教育委員会が調査に乗り出せば、問題になることは明白である。だが、河井の頑張りに、天谷高校の教員すべてが河井の卒業を認めてくれたのだ。
そして本日、一月三十日、体調が回復した河井が学校に戻ってきた。
昼休み、いつものように図書室に隣接する資料室で昼食をして。
「だいたい、なんでまたここで弁当食べてんだよ?」
三年生の三学期は、すべて半日授業と決まっている。昼休みのこの時間、河井以外の三年生は帰宅していた。受験生はさっさと家に帰って勉強であり、推薦が決まった人間は卒業までに軽いレポートが用意されているもののお気楽な時間が待っている。
「せっかくの憩いの場が……」
「うー……仕方ないじゃないですか、ずっとお休みしてたのですから、そんなことまで頭が回らなかったのですー」
唇を尖らせる河井。
「二年前を思い返してみると……そういえばそうですね、三年生の三学期といえば、半日授業でしたね。わたし、去年のこの時期はずっとお休みしていましたから」
「だったら、その弁当、家に持ち帰って食べてもいいんだぞ」
「うー……それは駄目です。だって、寂しいじゃないですか、一人でお昼なんて。せっかくお母さんだって学校で食べるように作ってくれたのですから。お母さんの心意気、無駄にするわけにはいかないのです」
にっこりと微笑む河井。箸で挟んだ小さなウインナーを口に入れる。細かく咀嚼して、ごっくん。
「わたし、お母さんにお願いして、明日からもお弁当持ってここにきますね。構いませんよね?」
「駄目だ、昼になったらさっさと帰れ」
「うー……だってだって、学校にいられるの、あとちょっとしかないのです。だったら、少しでも長くここにいたいじゃないですか。休んでた分を取り戻さないと」
「『少しでも長く』ね……はははっ」
おかしかった。だから、つい、込み上げた嬉しさが笑い声として出てしまう。だからこそ、きょとんとしている相手に、投げかける。
「四月とは別人だな」
留年したばかりで、学校にいたくないようなことを嘆いていた頃とは。
「最初はいやな場所でも、ずっといればいい思い出もできるってことか」
「そりゃ、頑張りましたからね。お休みしてるときもですけど」
そう言うと、河井は立ち上がり、今まで腰かけていた椅子に右足を載せた。行儀悪く。紺色のスカートを捲し上げて、白い靴下を足首まで下げていく。
すると、そこからピンク色が顔を出した。
「先生がくれたこのお守りのおかげで、ばっちり頑張りましたよ。熱のせいで朦朧として、ちょっとめげちゃいそうになるときも、心が折れそうになったときも、ずっとずっと、このお守りを見て頑張りました」
河井の右足首にはピンク色のリボンが縛られていたのである。
「これからも大事にして、頑張ります」
「……まさか、そんな風にしてるとは」
拓海が河井に渡したリボンは、亡くなった子猫がしていたもの。生きたくても生きられなかった小さな命の分まで、河井に懸命に生きてもらうために渡したのだ。
それを足首に巻いていようとは。
「ミサンガだって手首だぞ?」
「うー……仕方ないじゃないですか。手首にしてると、他の先生に見つかって怒られちゃいますから。こうやって忍ばしているわけです。二人だけの秘密ですからね。約束ですよ」
「約束はいいけど、早く戻せ。スカート捲り上げてる光景、誰かに見られて勘違いされたら目も当てられん」
「いつか、青海先生にそんなような誤解されましたね。懐かしいいなー」
河井はリボンを靴下にしまい、椅子に戻った。
「えへへっ」
「そうやって、よくかわいらしい笑みをするよな」
この場所にきて、そんな風にできていることだけでも、きっと幸せなことだろう。
「まあ、しっかり送り出してやるからな。卒業式、休むんじゃないぞ」
「うー……いつ熱が出るか分からないので、お約束できないのが悲しいです」
「約束しろ。熱が出て気合いでこい。這ってでもくるんだ。命令だぞ」
「うー……はい」
頷く。こくりっと。かわいらしく。
「熱が出ても骨折しても交通事故で瀕死の状態になっても、流血状態で這ってきますね。卒業証書、よろしくお願いします」
「よし、その意気だ」
「森山先生も、絶対きてくださいよ。急に『お腹が痛い』なんて休まないでくださいね。そんなことしたら、心の底から幻滅します。卒業アルバムの先生の顔に『教師失格』ってマジックで書いちゃいますから」
「ふふふっ。約束はできないな」
「してください!」
河井の頬が膨らんだ。リスのように。
「で、ですね、そろそろ聞いてくれてもいいんじゃないでしょうか? ほらほら、わたしのしたいこと」
「いや、別に。僕は生徒に無理強いなんてしたくない」
「言いますよ。言いますからね。ちゃんと聞いててください」
こほんと小さく咳払い。河井は真っ直ぐ前に向かって発言する。その瞳を星空のように輝かせて。
「お話を書きたいです」
自身の内側にその気持ちを見つけた。文化祭までの頑張りを経て、休んでいる間も、気持ちは膨らんでいくばかり。
「みんなと部誌作るの、とても楽しかったです。また書いてみたいです」
「じゃあ、留年するか?」
「うー……そういう意味じゃなくてですね、これから、お話に携わるようなことをしたいです。書ければいいですけど、そういった人のサポートをするとか」
目指すべき道ができた。河井にとっては生まれて初めてのこと。
「ですけど、進路はどうしたらいいでしょうか? 大学とか専門学校とか、きっといろいろ道はあると思うのですけど……」
「理系の僕にはさっぱりだけど……じゃあ、一ノ瀬に相談してみろよ。あいつは推薦組だから、この時期は暇なはずだ」
「一ノ瀬さんに相談ですか。そうですね、そうします」
にこやかな笑み。河井はご飯を摘んで口にしようとして……手を止め、ご飯を弁当箱に戻す。
「そうそう、動物園にいきたいです」
「……唐突だな」
「おもしろいじゃないですか。ペンギンさんはかわいいですし、ゴリラさんは逞しいですし、ライオンさんは寝てばかりですし」
「そういや、お前の部屋、ぬいぐるみでいっぱいだったな」
「小さい頃から集めてるのですよ」
なぜだか胸を張る河井。
「だから、動物園いきませんか? せっかくですから」
「『せっかく』?」
「わたし、新婚旅行だって動物園にいきたいです。ああ、いきたい、動物園。先生も動物園がいいですよね?」
「勝手に決めつけられても……新婚旅行ってさ、そもそも相手がいないから」
「いやだなー、いるじゃないですかー」
河井は目を輝かせ、自身を指差す。
「こ、こ、に」
「……いや、お前は動物園目当てだろうが」
くすくすっ笑う河井の笑みに、拓海は小さく吐息して、視線を窓の方に向けていった。
中庭では、今日も物凄く寒いはずなのに、元気にバスケットボールを触る男子生徒がいる。今日も元気だった。
河井洋子を含む三年生に無事卒業式を迎えさせること、天谷高校から巣立ってそれぞれの道を歩んでいく多くの背中を見送ること……拓海にとってそれは当たり前のことで、毎年繰り返してきた。
ただ、今年は少し、ほんの少しだけ感情が大きくなっている。早く旅立ってほしいような名残惜しいような、複雑な心境。
けれど、運命は望まない方向にだって転がることがある。大事な卒業式を迎えること、それ自体が極めて困難となる非常事態に見舞われる羽目となって。
そんなこと、誰も望みはしないというのに。
※
二月二十八日、火曜日。
「嘘ぉ……」
天谷高校三年E組の
「モリヤー、これないの……?」
朝のホームルーム、本来教室にやって来るはずだった担任は休んでおり、代理の先生に告げられた事実。
『三年E組担任の森山拓海は、今週ずっと休んでいる』
三年生は今月の十五日から休みとなり、久保田は久し振りに制服を着て登校した。二週間近く会うことのなかったクラスメートと騒いでいて、さっきまでとても楽しかったのに。ホームルームで告げられた事実、一気に気持ちが落ちていく。
明日は卒業式で、今日は全体練習が体育館で行われる。だというのに、担任が休んでいるなんて。
さらには、明日も休みになるなんて。
「どうにかならんの?」
そう口に出した久保田だが、口にしたところでどうにかならないことは分かっている。悔しい。ただただ悔しい。
久保田にとって担任の森山拓海は、子猫を部室で黙って飼っていてときにとても世話になった恩人。だから、卒業式では精一杯お礼をして、力いっぱいハグすることで感謝を伝えたかった。
なのに。それなのに。
もう会うこともできないなんて。
「…………」
これから体育館で卒業式の全体練習がある。明日を晴れの日にするために真摯に取り組まなければならないが……しかし、久保田の胸には生まれたばかりの黒色が、徐々に勢力を広げていくのが分かった。
このままでは、この学校に心残りを作ってしまいそうで。
いやな気持ち。
藤井崎にとって担任の森山拓海は、この学校で野球部を作ってくれた青海先生の次にお世話になった教員。野球部から卒業できないこと、受験することから逃げていた自分の目を覚まさせてくれたおかげで、見事私立大学に合格することができたのである。
加えて、明日の卒業式後に野球部の引退試合を提案してくれた。藤井崎が受験を頑張れたのは、卒業式後にある引退試合でプレーするのを目指すためだったといっても過言ではない。
今年の頑張りは、森山拓海によるものである。
なのに、そんな恩人が卒業式に出席できないなんて。
明日に控えた引退試合が、どこか霞む思いがした。
せっかくの晴れ舞台だというのに。
一年A組の河井洋子は、卒業式の全体練習をすることで、履いているスリッパがみんな赤色なのに自分だけ青色だったことを気にかけていた一年間が、ようやく終わることを実感する。その事実、四月の河井なら万々歳なのだが、今となっては一抹の寂しさを含んでいた。本当に、寂しい。
進路については、元文芸部の部長、一ノ瀬に相談した結果、専門学校に進むことを決めていた。
とはいえ、それは来春のこと。今年はずっと休んでいたので願書が出せなかった。進路を決めたのもつい最近だし。だから、来年。卒業後は暫くアルバイトをして、これまで見たことのない『社会』というものを経験しようと思っている。きっとそういった経験が、将来役に立つはずだから。お金ももらえるし。うまくいくかどうか、保障はないけど、頑張ってみる価値はあると思った。
今日はさすがに弁当を持ってきていないので、図書室に隣接する資料室にいくことはない。だからこそ、明日は、しっかり感謝を告げようと思う。今年一番お世話になった先生に。
そんな河井はもちろん知る由もない。森山拓海が今どういう状況であるかを。
明日という日がどうなってしまうことすら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます