第5話


 一人で追いかける



       ※


 今年の夏は、日本各地で熱中症が連日警報されるほど猛烈な暑さだった。毎日寝苦しい夜を過ごし、大量のドリンクを口にしては汗として噴き出していく日々に、ひどく辟易したものである。『このままだと熱さのせいで頭がおかしくなるんじゃ!?』と考えては、夕陽を目にしてどうにか一日を無事に過ごすことに安堵して、また翌日の暑さに頭を抱えることに。

 そんななか、拓海が顧問する文芸部は、夏休みに北校舎の書道室に集まり、文化祭で販売する部誌の内容について連日打合せをしていた。

 拓海は教員なので生徒が夏休みでも関係なく学校にいることが多い。二学期に向けた授業の研究や教材の準備、また校内研修や外部研修のまとめなど、大忙し。生徒が休みだからといって家で呑気にテレビを観ているわけにはいかないのだ。一般的にはあまり知られていないことかもしれないが、教員は通常通りの勤務時間であり、毎日仕事なのである。朝から高校野球を観戦していていた日々が無性に懐かしかった。とても遠い日々。

 ただ、今年は少し変化があった。去年までとは違い、仕事の合間に文芸部の活動に顔を出す機会を作っていたのである。主にジュースの差し入れで、断じて活動に口は出さないが、教室に弁当を食べる友達もいない河井洋子が発言している姿を見ると、微笑ましい思いがした。補助輪なしの自転車に乗る練習をしている子供を陰ながら応援しているような……思い返してみると、ジュースの差し入れは彼女を気にかけての行動だったかもしれない。拓海らしくないが、ずっと昼食をともに仲となり、他の生徒にはない情が湧いたのだろう。留年したという境遇も境遇だし。

 そう考えると、なんとなく河川敷で子猫を拾って世話した久保田みちるの気持ちが少しだけ分かったような……いや、河井を子猫と一緒にすべきではない。

 拓海としては頑張っている河井の姿に『頑張れ!』と声をかけたくなるが、そんなことしては生徒を贔屓しているような気がして、自重している。『贔屓しているような気がして』なんてこと、気にしているのは拓海一人かもしれないが。

 そういえば文芸部の活動について、夏休みに入る前の昼食の際、河井に相談されたことがある。それは今も気にかけているし、今後楽しみにしていることでもあった。

『わたし、飛べない鳥さんのお話を書くことにしました。飛べないからみんなみたいに木の実をうまく食べられなくて、地面に落ちてるみんなの食べ残しを食べて生きているのです。みんなからも飛べないことを馬鹿にされてるのですが、でも、飛べない鳥さんはみんなのことが大好きで、もしみんなのために協力できることがあればいつの日か協力してあげたい、助けてあげたい、って思ってるわけですね。でも、なかなかそういう場面に遭遇できなくて。できることなら、飛べないことも克服してあげたいし、みんなの役にも立たせてあげたいのですが、お話をどう展開させていいのやら、なんです。一ノ瀬さんからは『夏休みもあるしじっくり考えて作ってみるといいよ。ポイントは最後の部分を考えること。どういうエンディングがいいか? そこから考えてから逆算してストーリーを作っていくといいって』って教えてもらったのですが、なかなかうまくいきません。うー……森山先生、どうしたらいいでしょうか?』

 拓海に相談されたというより、河井が口に出すことで状況を整理しているような言い方だった。だから、アドバイスらしいものは口にせず、『楽しみにしてるからな』とだけ伝えたことを覚えている。この夏休み、どんな話を作ってくるか、楽しみだった。

 ただ、三年生なので、部活動はほどほどにしてもらい、受験勉強に精を出してもらいたいところである。


 一週間のお盆休みがあり、拓海は太平洋に面したかわ郡にある実家に一度帰っていた。今年のゴールデンウイーク以来である。

 実家に帰省して驚かされたことがある。なんと、七月に父親が倒れて病院に運ばれたというのだ。連絡がなかったので一切知らなかったが、父親は『ただの熱中症だから連絡する必要なんてない』と言い張ったらしい。

 癌の手術以降、ますます痩せ細っていく体はごぼうのようで、頬骨が浮き上がっている。相変わらず忙しい趣味な毎日を過ごしており、三日間いた間、ずっと畑の手伝いをした。『させられた』というのか。ただ、収穫したとうもろこしとスイカは、形はともかくそこそこ食べられるものになっていた。上達したのだろう。数年前は小さくて食べるところがほとんどないような状態だったから。

 そんな実家での日々が、拓海にとっては唯一の夏の思い出だった気がする。


 うんざりするほど強烈で猛烈に暑かった夏も、振り返ってみればあっという間に過去のものとなっていた。季節は秋。永遠につづくと思われた猛暑も、九月に入ると一気に和らぎ、夜は窓から入ってくる涼しい風を感じながら眠りにつくことができている。油断していると風邪を引きそうになるほど。一日の寒暖差が激しく、体調管理には気をつけなければならない。

 九月から十月にかけて、愛名市立天谷高等学校は大きなイベントが目白押しだった。九月二十二、二十三日に文化祭があり、三十日には市立大会、そして十月十日は体育祭である。このお祭り期間が終わると、一気に秋は深まっていき、三年生は完全たる受験生として勉学に向き合うこととなるのだ。

 そんなイベント三連発の一発目、文化祭に向けて、拓海が顧問をする文芸部は部誌に掲載する原稿がすべて集まった。目を通してみるとなかなかの力作揃いで、例年通り近くにある小さな印刷会社に依頼する。全部で百誌。文化祭で売り出すのだが、毎年売れるのはせいぜい三十誌がいいとこで、保管用に十誌必要でも約五十誌があまることとになるのだ。だが、例年通りに百誌を注文した。最低印刷数が百なのだから仕方ない。今年こそ完売を目指して文芸部一同には頑張ってもらいたいところである。

 いざ文化祭がはじまり、学校が普段にない雰囲気に包まれることに。どこか浮き足立つというか、華やいでいるというか。もう生徒ではないのだが、準備期間も含めて、いつもと違う学校の雰囲気に教員の拓海もうきうきする。

 拓海は各教室を周り、コーヒーを飲み、ホットドッグを食べ、演劇を観ては将棋部員と将棋して勝利を収めた。充実した文化祭である。

 顧問を務める文芸部は、通路に長机を出し、部誌である『残響』を販売した。一部五百円。青カバーに楓がデザインされている。

 結果として、今年は五十誌売れた。十誌は保存用に残して置くため、残りの四十誌は残念ながら廃棄処分となる。図書室に一部寄付したところで、残数が残る段ボールを抱えるのは、なんともやり切れない思いだった。

 そんな文化祭に関して、残数が出たことよりも残念なことがある。それは河井がまた熱を出し、文化祭を欠席したこと。文芸部には四月に入ったばかりだが、誰よりも懸命に活動し、生まれて初めて作った話はなかなかの力作だった。きっと本人も売り子をしたかっただろうし、最後のイベントを楽しみたかっただろうが……病気では仕方がない。せめて原稿が載った部誌を渡してやりたくて、河井用に一部ストックすることにする。早く渡してあげたかった。

 そうして唯一といっても過言でない文芸部の活動は幕を閉じる。三年生は引退となり、受験生として本格的に勉強に向き合うこととなった。部長だった一ノ瀬は頭がいいので、国立大も夢ではないだろう。本人は推薦を狙っているのだとか。反面、今は休んでいる河井はいったいどうなるのか? そういえば進路についてはっきりと聞いたことがない。今度の昼食にでも確かめてやろうと思う。

 すぐ学校に復帰すると信じて疑わずに。


 九月三十日の市立大会は、愛名市立の学校で競う運動部の大会。生徒は愛名市内各会場を自由に応援することができる。もちろん運動の部活に入っているものは試合に汗することになるのだが。

 拓海が担当したのは西区にあるスポーツセンターで、そこはバスケットボールの試合が行われた。といっても拓海がするのは生徒の出欠を確認するのみ。朝と昼過ぎにスポーツセンターにやって来る生徒の名簿を作り、それを持って生徒の出席が認められる。言い換えると、家が近い人間なら、朝と昼にちゃんと顔出せば、帰って昼寝しようがテレビゲームをしようが構わない規則。その辺の自由さは、最後まで会場に残らなければならない教員からすれば羨ましいことであった。こういった面や夏休みの大型連休など、教員が生徒を羨ましがることは多々あるが。

 大会は夏休みから予選があり、約二十校の順位をつけることが大会本番の役割。だいたいどの学校も二試合が予定されていて、予選で成績がいいグループの学校は準決勝と決勝、次に成績がいい学校は五位から八位決定戦、次は九位から十二位、次が十三位から十六位を決める。天谷高校男子バスケットボール部最初の試合に勝ち、次に負けて十四位となっていた。一試合でも勝つことができたのだから、立派なものだろう。同会場の女子も似たようなものだった。

 別会場の女子バレーボール部は、拓海が顧問する三年E組の久保田みちるの活躍もあり、見事三位となっていた。後日久保田が『初めての賞状だ。しっかり額に飾らないかんね』なんて教室で騒いでいたこと、微笑ましく思う。

 そんな市立大会が終了すると、各運動部は三年生が引退となる。早い部だと春に引退しているが、この大会が三年生の出場できる最後の大会で、各部活とも世代交代となるのだった。


 十月十日の体育祭は天候にも恵まれ、心も晴れやかに開催した。特に三年生にとって学校行事はこれが最後ということと、受験勉強の息抜きという意味合いもあってか、随分ハッスルしている。三年E組の藤井崎塁も、最初から最後まで声を出し、一番楽しんでいたと思う。

 拓海は生徒にそそのかされて、借り物競争に出る羽目となった。一応順位を競うものだから軽く走ったものの、体が重たくてうまく走ることができないことに、運動することのないここ最近の生活習慣に改善の必要性を痛感したものである。翌日は筋肉痛になり、大変だった。

 学年対抗の成績は、三年E組は四位。惜しい。もうちょっとで三位入賞できたのに。結果を一番残念がっていたのは、やはり藤井崎塁であった。体育祭や球技大会のような行事に半端ない意欲を燃やしている。経験上、そういうやつは、だいたいクラスに一人はいるのだろう。


 そうして、秋の三大行事があっという間に通り抜けていき、秋はどっぷりと深まっていく。空は高く、日差しは和らぎ、もう外を歩いていても汗を掻くことはなく、半袖を着る機会もなくなる。徐々に徐々に到来する厳しい冬を待ち構えることに。

 しっかりと寒さに耐えられる準備をして。


       ※


 十一月二十八日、月曜日。

 放課後に行われた職員会議で、一つ大きな議題が出た。

『三年A組、河井洋子の出席日数不足』

 河井は九月の文化祭前から一日も登校することなく、ずっと休んでいる。幼少期からの悩まされてきた原因不明の発熱に、家から出ることができないのだとか。それは出席日数が足りずに留年することとなった昨年と同じく。

 このままだと、二年連続の留年ということになり、本人はもちろんのこと、学校側としても頭を抱えることとなる。

 河井が席を置くA組の担任、青海先生はどうにか卒業できる道を模索しようと躍起になっていたが、あまり芳しくない様子。今のところは様子見だが、期末テストのある来月もこの調子だと、二度目の留年を覚悟しなければならなくなる。そんな空気が職員会議で漂っていた。

 河井が二度目の留年をするなんて……そんなの、あまりにやる瀬ない。成績はよく、慣れない文芸部の活動も率先して取り組んでくれたのに。拓海もどうにかしてあげたいと願うのだが、救済方法が思いつかなかった。


「森山先生、ちょっとよろしいでしょうか?」

「はい?」

 職員会議が終わり、時刻は午後五時三十分。拓海は職員室の席に戻って、鞄を手にしてから周辺にいる教員に『お疲れさまでした』と声をかける。かけられている札を引っ繰り返し、帰宅するために職員玄関につづく半螺旋状の階段を下っているとき、上から声をかけられた。

 見上げたそこにいるのは、体育教室の青海先生。今日もジャージ。まるで青海先生の正装みたいに。

「すみません、もう帰るところなんです。といっても、帰ったところで急ぎの用はないですがね」

「ああ、お帰りのところ申し訳ありません。少しだけ、その、お時間いただけないでしょうか? ご相談したいことがありまして」

「少しだけ、ですか。少しだけねー……」

 なんとなくさきほどの職員会議のことだろうと思い、それが五分程度の『少しだけ』とは思えなかった。

「でしたら、あっちにいきましょう」

 職員玄関近くにある図書室に隣接した資料室に移動する。

 九月の前半まではここで河井と一緒に昼食をしていたが、今はまた一人。以前は一人でも平気だったのに、今はぽっかりと空気に穴が空いたような、一抹の寂しさを得ている。これが教室で弁当を食べる相手ができたといういい方向のものならいいが、ずっと休んでいることが要因となると、あまり気分のいいものではなかった。

「河井のやつ、随分長引いてますね。あいつが参加した文芸部の部誌、まだ渡せてないんですよ。早くよくなるといいんですが」

「河井のやつ、そんなに頑張ってたんですか?」

「ええ、そりゃもう。誰よりも多い、原稿用紙百五枚の大作です。『飛べない鳥の』って話なんですけど。『の』で終わるところが実に意味深長ですよね。『希望』とか『勇気』とかがつづくんですかね。よかったら読んでみます? 部誌、たくさんありますから差し上げましょうか」

「ええ、是非……」

 読む気があるのかないのか、曖昧な感じで青海先生は返事をして……再び口を開ける。

「あの、実はですね、相談というのは河井のことでなくて、塁のことなんです」

「えっ……あ、そ、そうなんですか。さっきの会議でも出てたから、てっきり河井のことかと……」

 拓海は、昼食をともにしていたことや部誌を頑張っていた部活動について頭に思い描いていたが、早とちりだったようである。

 頭をリセット。

 相談を受けるのは藤井崎塁について。拓海が担任する三年E組の生徒。秋の市立大会で引退した元野球部。

「元気だけが取り柄のあいつに、何かありました? ご迷惑をおかけしてないといいんですが」

「迷惑といいますか……実は、野球部のことについてなんです」

 野球部の活動について、三年生は九月三十日に行われた愛名市立大会にまで出場することができる。といっても受験があるので全員がそこまで残るわけでなく、希望者のみがその日まで野球部員であるということ。夏の大会で引退する者もいれば、春に引退する者だっている。その辺は自由だった。ただ、最後まで残っても市立大会が本当に最後の最後。当然試合が終われば強制的に引退となる。三年生は部活から離れ、来春からの進路に向き合わなければならないのだ。大抵の者は、受験のための勉強に専念することになるのだが……藤井崎は違った。

「塁のやつ、まだ部活に出てきてるんですよ」

 今日は十一月二十八日。本来の引退から二か月が過ぎようとしているが、朝も放課後もグラウンドで声を出している。誰よりも元気よく。誰よりも情熱を持って。

「ああ、率先して後輩を指導してくれるのはいいことです。ですが、あいつの場合は、指導というより、受験に向き合えてないように思えるんです」

 受験に向き合えない。

「もう試合に出れないので形としては引退しました。けど、野球部に未練があるというか心残りがあるというか……あいつを見ていると、次のステップに進めてないんでしょうね。本当はもういちゃいけない場所なのに、居心地がいいからいつまでも縋りついているといいますか」

「えーとですね、藤井崎の進路は大学進学ってことになっています」

 夏休み前の三者面談で、そういうことになった。当時の藤井崎は野球のことしか頭にないようだったが、進路希望にはそう記載したのである。

「今の成績だと、『学校を卒業できない』っていうレベルじゃないですけど、進学となるとどうでしょう?」

 来週の水曜日から期末テストがある。内申書に影響する最後のテスト。進学を希望するなら、なんとしてもいい点を取らなければならない。けれど、まだまだ専念できていないとなると、厳しいかもしれない。

「藤井崎は、受験勉強の気晴らしにグラウンド、ってわけじゃないんですね」

「だったら、毎日はこないと思いますから」

「ですね……分かりました、僕からも言っておきます」

「そうしていただけると助かります。塁がいることが迷惑ってわけじゃないんですが、あいつのはそういう雰囲気じゃないですから。本当にしなければならない、その、勉強に向き合うことを避けているだけだと思うんです……やっぱり大好きな野球を離れて受験生になりたくないんでしょうね。まだまだ高校球児でいたいといいますか、縋っていたいといいますか」

「まあ、誰だって受験生はいやですけどね」

 拓海は小さく笑ってみたが……藤井崎について、まだ野球部の練習に参加していることは知っていた。出退勤時にグラウンドにいることを何度も見ているから。

 そして、そんな姿を野球部後輩があまりよく思っていないことも知っている。

『なんであの人、まだいるんだよ。うぜー』

『来年のために今からしっかりやれって、お前がまずやってみろってんだ』

『うるさいくせにそんなうまくないから、しょうもねーよな』

『ほんと迷惑ー』

 拓海が帰る際、グラウンドの隅にある手洗い場にいた野球部員の声がそれだった。ようやく引退してくれた三年生が、いつまでもああして練習に顔を出しているのを心よく思っていないのは明白である。

(さあ、どうしたもんだろ?)

 頭が痛いところである。鼻からは、出したくもない長い息が漏れていった。


       ※


 十一月二十九日、火曜日。

 拓海は、三年E組朝のホームルームで藤井崎塁に声をかけ、放課後に図書室隣の資料室に呼び出した。

「先生、早くしてくださいよ。練習が待ってるんですから」

 そう言いながら資料室に入ってきた藤井崎は、すでに白い練習着姿で、左手には青いグローブをつけている。一刻も早くグラウンドに出て練習する気満々だった。

「分かってます? 明日から一週間前で練習できないんですよ。今日はほんとに貴重な時間なんです」

 天谷高等学校では、定期テスト一週間前は部活動禁止となっている。それが明日からだった。

「で、どうしたんですか、先生? この全校生徒の模範を呼び出して」

「はははっ。お前を模範にしちゃ、学校中がうるさくてしょうがない。まあ、元気なことはいいことだけど……でさ、藤井崎は今も部活に出てるみたいだな」

「そりゃ、見ての通りです」

「そんな調子で勉強は大丈夫か? 大学進学を希望してただろ」

「大丈夫じゃないですか? これでも勉強は勉強でちゃんとしますからね。明日から期末テストの勉強もしますし。じゃあ、もういいですか? 最近すぐ日が暮れるんだから、早く練習いかないと」

「ちょ、ちょっと待て」

 今にも飛び出していきそうな藤井崎を宥め、正面のパイプ椅子に座らせる。

「勉強、嫌いか?」

「そりゃ、好きなやついないっしょ」

「野球、好きか?」

「もちろん!」

「即答できるところが凄いな」

 素直というのか、純粋と呼べるのか。

「けど、そうやって野球ばかり見てると、大切なことに気づけなくなるんじゃないのか? 今は受験生なんだから、勉強に専念しないと」

「勉強は大事かもしれないけど、今しか野球できないっしょ。なら、やるべきことは野球でしょ」

「いや、卒業してからだって充分できるだろ」

「それじゃ駄目なんです。今ですよ、今!」

「……困ったな」

 平行線を辿るというか、会話が成立しなかった。拓海はどうやって勉強に向き合せるか、思案することになるも……いい案が思い浮かばない。

 唯一、例外的な奥の手が頭に過るも、それはあまりしたくなくて……けど、このままでは埒が明かない。

 溜め息とともに、苦渋の選択を余儀なくされる。

「ちょっとさ、そのグローブ見せてくれないか?」

 それを預かれば、万一の藤井崎逃走の恐れもなくなるし、それに、これまで見えてこなかった部分も知ることができる。

「へー、結構使い込んでるんだな」

 所々で革が剥げ、ほとんどぺちゃんこになった青いグローブを受け取る……同時に、内側のスイッチを入れた。

 込められた思いは、濁流のように流れ込んでくる。


       ※


 藤井崎塁。小学生の頃からずっと高校野球に憧れていた。夏休みにテレビで観たお兄ちゃんたちがとても格好よくて、ああなりたいと思って、どうしても高校で野球がやりたいと思った。それが生きている使命だとすら思えるほどに。

 小学校でも中学校でも部活で野球をやってはいたが、とても上手とはいえなかった。試合にだってスタメンで出ることがあるかないか、毎回どきどきな実力。それでも高校では思い切り白球を追いかけたかった。青春のすべてを懸けて。

 中学三年生の夏以降、野球のできない半年間の苦しい高校受験を経て、どうにか高校に合格した。学費の高い私立は無理なので、公立学校に進学。愛名市立天谷高等学校。愛名市西区の北西部にある、野球の強豪校とはいえないが、自転車で通える距離にある学校がよかったので、第一志望だった。

 合格したときは本当に嬉しかった。『世の中は自分のためにあるのでは!?』なんて小躍りをしてはハッピーの渦に巻かれたものである。

 それが、いざ入学してみると……直面した現実に、愕然とすることに。そのショック、顎が外れるかと思った。

 天谷高校に、野球部が、なかった。

 ない。ないのである。野球部が。高校なのに。

 凡ミスでしかない。こんな簡単でありとてつもなく重要なこと、ちゃんと入学前にリサーチしておくべきだったのに……まさか野球部のない高校があろうとは、塁からすれば想像だにできなかった。

 一瞬だが『転校』という言葉が頭を過る。けれど、そもそも理由になるほど野球がうまいわけでないし、学校の成績だっていいわけでないので、こんな自分が入学早々に転校する意味なんて思いつかなかった。

 入学して、暫く無気力な日々を過ごすも……めげない。塁は妥協して他の運動部に入るなんてことはなく、あくまで『野球部』を目指した。あのテレビで輝いていた人たちみたいになるために。

 じっとしていても埒が明かない。自ら声を上げ、一年生で部員を募った。上級生たちはもう部活に入っているから声をかけることなく、あくまで一年生でメンバーを募り、その呼び方に数人が賛同してくれたのである。

 そうして数人ながら野球部希望の貴重な人材を確保できた。とすると、野球部発足の条件として、顧問が必要となってくる。野球経験者が望ましいが、当時は他の部活の顧問をしていたため、断られてしまった。残念。

 困った。志の同じメンバーはいても、顧問がいなければどうにもならない。八方塞がりで頭を抱えていたところ、助け船を出してくれたのが、体育教室の青海先生だった。野球経験はないが、塁たちの気持ちに応えてくれたのである。

 そうして塁が一年生の一学期、天谷高校に野球同好会が誕生した。人数といい実力といい、まだまだ試合できるレベルでないが、懸命に練習することで、二年のときには新入生も合わせて九人を上回った。これで野球ができる。と同時に、同好会は部に昇格した。これには顧問の青海先生が大きく尽力してくれたという。

 一年という時間を費やしたものの、塁にとっては、ようやく憧れていた高校野球の船出。『目標は甲子園』としたいところだが、自分たちの身の丈は分かっている。目指すところとして、単純に試合がしたかった。でもって、できることなら勝ちたかった。顧問になってくれた青海先生に一勝をプレゼントしたかったのである。頑張ってグラウンドにバックネットを用意してくれたのだ、期待に応えなければならない。

 悲願の勝利のため、毎日懸命に練習した。朝も放課後も、毎日泥だらけになって、誰よりも大きな声を出して。けれど、なかなか試合に勝つことができず、連戦連敗。一勝が物凄く遠かった。

 結果を求めて毎日邁進し、しかし、それが実を結ぶことなく、気がつけば三年生となる。新一年生が入ってきて、最後の一年がはじまった。『今年こそ勝利を!』という思いを念頭に、塁は練習に勤しんでいく。

 けれど、駄目。駄目だった。

 春の大会も負けて、夏の地方予選も一回戦負け。最後の最後である市立大会も予選から負けに負けて、最下位の十六位となった。

 結局、勝てなかった。塁の努力では、たった一つの勝利にすら手を届かすことができなかったのである。

 二年前、自分のわがままではじめた野球。顧問の青海先生にもみんなにも、『勝利』という二文字をプレゼントしてあげられなかった。情けない。

 すべて自分のせい。

 でも、それでも勝ちたい。往生際が悪いと思われようとも、なんとしても野球部を勝たせてあげたい。今年は無理だった。もう塁は公式戦に出ることができない。けど、けれど、来年だって再来年だって高校野球はつづいていく。塁は今年で卒業だが、市立大会で部活は引退しても、それは試合に出られないというだけで、練習には参加できる。

 まだグラウンドを走り回ることができるのだ。

 だから、引退後も朝早く登校した。放課後も残って練習に汗したのである。毎日、練習着を泥だらけにして。

 勝たせてあげたいから。

 勝つ喜びをみんなで分かち合いたちから。

 勝ちたい。

 テレビみたいにはいかないけど、勝ちたい。

 勝ってみたい。

 それは、一年生のときにわがままを通した塁の使命であるから。


       ※


 図書室に隣接する資料室。拓海と机を挟んで座る坊主頭の思いが、使い込まれたグローブを通して伝わってきた。思いはとても熱く、けれど、どこか切羽詰まった強迫観念のある強い感情。

(勉強に向き合えない、というより、チームのために練習か)

 青海先生の話だと、受験や勉強から逃げて野球をやっているようなニュアンスだった、少なくとも拓海にはそう聞こえた。しかし、藤井崎にあるのは、大事な受験の年を費やしても野球部に貢献しようとする強い気持ち。その思い、拓海の胸をひりひりさせる感覚があった。

 そんなことを目の前の藤井崎が抱いていたなんて……思わず拓海の頬が緩みそうになるが、慌てて奥歯を噛みしめる。

(ただ、自己犠牲が押し売りになっては意味がない。それでは意味が……)

 拓海は腹の中心に力を込める。相手に精一杯伝える言葉を紡ぐために。

「藤井崎さ、お前は野球部が強くなれば嬉しいよな?」

「そんなの決まってるじゃないですか!」

「それは、『お前が』でないと駄目なのか?」

「……どういう、こと?」

「つまりな」

 瞬きの回数を増やし、きょとんとしている藤井崎に、拓海は告げる。それはもしかしたら、物凄く残酷なことかもしれないが。

「お前が強くさせないと駄目なのか?」

 藤井崎が関わらないと満足いかないのか?

「後輩たちを信じてやることはできないか?」

「し、信じるって、信じてるよ。あいつらなら、きっと強くなる。チームを勝利に導いてくれる」

「なら、みんなを信じて身を引いてもいいんじゃないのか?」

 言葉に詰まる相手に、拓海は言葉をつなげていく。

「高校生相手に『老兵』っていうのは適切じゃないかもしれないけど、現役を退いた者は、もう関わるべきじゃない。無関心とか無関係っていうのも違って、遠くからそっと見守っていればいいんじゃないか?」

 残った者を信じ、そこにしっかり背中を向けて。

「話を聞いたとき、引退したお前が今も練習に出てるのは、単純にお前が野球をやりたいだけだと思ってた。けど、お前はチームのために、チームを強くさせたいために頑張ってるんだろ。その気持ちはいいと思う。けど、距離を取るのも大事なことなんだよ」

「…………」

「お前は野球部からきっぱり身を引いて、お前の道をしっかり見据えるべきだ」

「…………」

「卒業するんだよ、野球部から」

 来年の受験に向けて。

「まあ、あれだな……残してきた今の野球部が、信用できない後輩や顧問だっていうなら別だけど……」

「そ、そんなことない!」

 藤井崎は頬を紅潮させる。

「先生もあいつらも、きっと来年には勝ってくれる!」

 天谷高校野球部に初勝利をもたらしてくれる。

「だから! だから……」

 一度は上げた顔。しかし、萎れるように徐々に顔を下げていく藤井崎は、残された言葉を吐き出すように呟く。

 その胸に、今日まで練習に汗してきたたくさんの記憶を抱えて。

「おれは、信用してる、から……」

 みんなことを。

「だから……」

 俯き、唇を噛み、深く瞼を閉じた。握る拳をぶるぶるっと震わせて。

「もう、練習には……」

 あのグラウンドには、

「出ません……」

 出ない。もう二度と。残してきた者を信じて。

 けじめをつける。


 静まり返った資料室。

 相手の視線が上がってこないことを目に、拓海はゆっくりと口を開ける。

「うん、よく決心したな」

 拓海は腕を伸ばし、手にしていたグローブを渡した。

 この資料室に入ってきたとは違い、すっかり元気をなくしてずっと俯いている目の前の相手に、拓海は小さく手を上げる。

「こういうのはどうかな?」

 一つの提案を告げた。それは藤井崎とこうして対面することを決めたときから告げようとしていたこと。

「卒業式の日に、卒業生と在校生とで試合をするってのは。それならお前も張り切って勉強ができるだろ?」

「えっ……」

「引退試合ってやつだな。それがあれば頑張れるだろうし、それに、引退試合しようと思うなら、『受験したけど全敗でした』なんて惨めな結果で後輩の前には出られないだろうから、頑張るしかないもんな」

 拓海がにっこりと微笑むと、正面の藤井崎は『はい!』と大きく頷いていた。


 その日以降、天谷高校のグラウンドに藤井崎の声が響くことはなかった。毎日耳にしていた方からすれば少し物足りなさがあるが、それが本来の形。

 拓海にできることといえば、それは藤井崎が笑顔で卒業式を迎えられることを祈るばかりだった。

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