第4話


 思われない思い



       ※


 六月十七日、金曜日。

『最近、河井さんが部活にこないんですけど、どうかしたんですか?』

 それは放課後、図書室の資料室でティータイムを満喫していたとき、文芸部部長であるいちノ(の)さわから伝えられた情報。

 初耳だったが、しかし、拓海はそれをなんとなく察していた。なぜなら、月曜日からずっと、昼休みを一人で過ごしているから。

 拓海としては、もう六月なので結構クラスにも馴染んできたのだと思った。『きっとクラスに弁当を食べる友達でもできたんだろうな。よかったよかった』なんてお気楽に考えていたが……どうやら違うらしい。ただ、違うということ以外のことが分からない。担任しているクラスでないし、授業を受け持ってもいないし、文芸部の活動に口出し以前に顔も出さないので、さっぱり。

 ただ、一ノ瀬に『確認してみる』と約束した手前、どうにかしなければならない。

(仕方ないな)

 どうにかしなければならない方法として……河井のクラスである三年A組の担任、青海先生に会いにいくことにした。

 あまり気が進まないが。

 仕方がない。


 太陽の光は随分と茜色を有している。グラウンド南方には野球専用のバックネットがあり、野球部が守備練習をしているところだった。部員は全部で二十名ぐらいはいるだろう。野球部員としては少ないだろうがスポーツ推薦があるような強豪校でないので、こんなものだろう。拓海が通っている学校もこれぐらいだった。ただ、ジャージ姿の女子マネージャーが四人もいて、『やっぱり高校野球は人気があるのかな?』なんて思ってしまう。

 そんなグラウンドに『よっしゃーっ! ばっちこーい!』と一際大きなかけ声をした部員がいると思ったら、ショートを守る藤井崎塁だった。あの気合いを少しぐらい勉学に回してもらいたいものである。まあ、成績はそれほど悪くはないが、いかんせん、教室で落ち着きがない。気持ちはいつもグラウンドに向かっているに違いない。青春である。

(あ、いたいた)

 目的の青海先生は、バックネット横のベンチに腰かけていた。元々陸上の経験者のため、野球のことを知ってはいるが教えるほどのプレーができないのか、ベンチに座っている。そうして腰かけたままバットを握ることも声を出すこともない。

 青海先生に用がある身としては、声がかけやすかった。ノックでもしていたら、入っていくのが大変だったから。

「お疲れさまです。青海先生、野球部の指導ですか、精が出ますね。にしても、藤井崎のやつ、あんな大声出して、ほんとグラウンドでは活き活きしてますよね。教室とは大違いだ」

「…………」

「青海先生、あの、ちょっとお時間よろしいでしょうか?」

「……ふはぁ?」

「んっ……」

 拓海の斜め前にいる青海先生は、瞼が半分閉じ、目の下に隈がある、魂が抜けたような、実にだらしない表情をしていた。だから、用があるにもかかわらず、拓海は言葉に詰まることに。

 ただ、こうして声をかけた以上、用を果たさなければならない。『なんでもないですよ』なんて回れ右をするわけにはいかないから。

 なんとなく、今の青海先生には近寄り難い雰囲気があって、十回見たら十回とも目を逸らしたくなるものがある。容赦なく。

「ちょっと伺いたいことがあるんですが、先生のクラスの河井、最近部活に出てないみたいなんですよ。どうかしましたか? ああ、河井は僕が顧問している文芸部に入ってましてね、今週はずっと出てないみたいでして」

「ああ、河井のことですか……」

 青海先生は小さく息をつき、緩慢な動作で首を小さく右側に傾けると、こきっと音が鳴った。

「母親から連絡がありまして、河井は少し熱が出たそうです。今週は月曜日からずっと休んでますよ。去年みたいなことがありますからね、無理はさせられません……」

 河井は昨年、病気の影響で出席日数が足りなくて留年した。

「来週にはよくなっていればいいですけどね……」

「そうでしたか、熱が……」

 文芸部の活動を休んでいる河井が欠席していることは分かった。学校を病欠しているなら、放課後の部活だって当然休むことになる。河井のいる三年A組には他に文芸部員がいないから、その情報が文芸部に伝わっていなかっただけのこと。現に、顧問である拓海が知らなかった。

 解決。

 ここで得た情報を一ノ瀬に伝えれば完了なのだが……しかし、本来なら足を校舎に向けて歩を進めるはずだった拓海は、ベンチから離れることをしなかった。

(……にしても)

 離れなかった理由、それはあまりにも目の前の青ジャージが寂しそうに見えたから、気になった。普段のお気楽な体育教師でなく、なんだか哀愁を漂わせているような……。

「いったいどうしたんですか、青海先生? なんだか元気ないようですが……」

 口に出してみて、本人がびっくりした。そんなつもりなかったのに、相手と深く関わらないことをモットーとしている拓海が、あろうことか相手を気遣う声をかけたのだから。

 声をかけた方が動揺している状況は不可解なものがあるが、そうなのだから仕方ない。

「青海先生?」

 またしてもこちらから声をかけたのであれば、もう引き返すことはできないだろう。木製のベンチに腰かけ、ただ視線は青海先生でなく正面のグラウンドに向ける。

「いつもみたいに呆れた目をしますから、『もはや結婚秒読みで、幸せの絶頂なんだよね。あっはっはっはー』っていうの、ないんですか?」

「っ!?」

 青海先生の全身が大きくびくりっ! と揺れた。まるでいきなり氷を背中に突っ込まれたみたいに。

 半分瞼を下げた覇気のない表情のまま、青海先生は視線を隣人に向ける。

「……あの、森山先生」

「はい」

「同僚というだけで、こんなこと言うのはどうかと思うんですが……」

 呟くように、青海先生の口は言葉を零す。

「俺、いったいどうしたらいいんでしょうか?」

 悩みを抱えていた。落ち込むまで大きな悩み。

「これ、なんですけど……」

 青海先生は青ジャージのポケットから、掌サイズの木箱を取り出す。左手に載せて、蓋を開けると、そこには銀色に光る指輪が入っていた。

「プロポーズしてみたんです」

「あ……そ、そうなんですか……」

 拓海に動揺にも似た驚きが巡っていく。ポイントとしては二つ。

「そのリングケース、随分と和風なんですね。漆塗りの木箱なんて、なんて素敵ですよ。はい。でもって、そうやって肌身離さず持ってるんですね。へー……」

 驚きだった。プロポーズをして、こうして元気がないのだから、得られる結論は『うまくいかなかった』ということになる。そして、ずっと持っているということは、未練があるということで、だからこその覇気のない現在の状況があるのだろう。

「げ、元気出してくださいよ。元気は青海先生の取り柄じゃないですか?」

「取り柄なんてあるんでしょうかね、俺に……あーっ! もうわけが分からないんです。なんでプロポーズ、受けてもらえなかったんでしょうか? 別に喧嘩したわけじゃないし、夜景のきれいなレストランだっておいしかったし、ロケーションとしては悪くなかったのに。これだって給料三か月分ですよ。なのに、あんな風になるなんて……あーっ! どうしたらいいのやら……」

 青海先生はこの前の日曜日、三年間交際していた彼女、水瀬みなせみさきを駅前にある高層ホテルのレストラン個室に呼び出し、デザート前に指輪を出してプロポーズをした。去年ぐらいから結婚についても仄めかしていたし、もうあのタイミングしかないと青海先生は確信していたのだ。

 タイミングといい、ロケーションといい、プロポーズとしては非の打ち所がないほどに完璧だった……だったのに、いい返事はもらえなかったのである。

『幸せになりたいと思う気持ちはあなたと同じよ。でも、ごめんなさい。私、それは受け取れないわ』

 届けられた言葉に、瞬間、青海先生の思考が停止した。そこで両者が席を立つなんてことにはなかったから、それから先も会話をいくつか交わしたのだろうが……断られると思っていなかった青海先生は顔面蒼白になり、どうやって帰ってきたのかも分からないぐらい、記憶が飛んでいた。

「どうしたらいいと思いますか? 幸せになりたいっていうのは同じなんですよ。でも、プロポーズを受けてもらえないなんて、そんなことあります? ほんと、意味が分かりませんよ。なんで俺、こんなことになってるんでしょう……」

「えーと、受けてもらえる自信はあったんですよね。あんなにも『もうすぐ結婚するんだ!』なんて言ってたわけですから」

「なきゃしませんね。ってより、森山先生は『言霊』って知ってますか? 自分がしたいという気持ちを言葉に出すことで、必ずそれが叶うんですよ」

「えーと、『必ず』と言い切れるかどうかは……」

「必ずなんです」

 きっぱり。

「少なくても、俺はずっとそうしてきました。高校受験のときだって、大学受験のときだって、当時の成績よりちょっと高い偏差値の学校でも『俺はあそこにいく。絶対合格する』って言いつづけることで合格できたんです。それは教員免許のときだって同じですし、今回のことだって……」

「ああ、前にそんなことを言ってましたね。だから、ああして大々的に言ってたわけですか? 周囲に言い触らしていたというのか」

「はい。口にしての言霊ですから。学校のみんなはもちろんのこと、家族や友達に『俺はもうすぐ結婚するぞ! あっはっはっはー』って」

「はあ……」

 拓海の額に汗が浮かぶ。

「もしかして、そういうのが、あの、相手に合わなかったのでは……」

「そ、そんなことありませんよ。そういった話、岬にもちゃんと言ってきましたからね。ああ、『岬』っていうのは彼女の名前です。なのに……」

 なのに、うまくいかない現状が残されている。どうしたらいいか、青海先生では皆目見当もつかない。

「俺、いったいどうすればいいんでしょうか? ああ、さっきからこればっかりですね。でも、こう言うしかなくて……」

「あ、いや、どうなんでしょうか……すみません、プロポーズもしたことのない僕には、なんとも……」

 いつものならあまり深入りせず、ここで『お力になれず、すみません』とでも言って立ち去るところだが……隣人の出した特大の溜め息が、あまりに重々しいものだったので、つい手を差し出してしまう。

「それ、後学のためにも見せてもらっていいですか?」

 拓海は右手を出して受け取る。指輪の入った木箱を。

 同時に、内側にあるスイッチを入れる。

 刹那、濁流のように込められていた思いが伝わってきた。


       ※


『結婚! 結婚! 結婚! 結婚!』


 近しい親戚がどんどん結婚していく。

 結婚式に出席しては、祝福の拍手を送る。

 友人がどんどん結婚していく。

 結婚式に出席しては、祝福の拍手を送る。

 兄が結婚していく。

 結婚式に出席しては、祝福の拍手を送る。

 実家に帰れば、『次は昭太郎の番だね』と言われる。親からも親戚からも。

 周囲を見渡してみれば、未婚者なのは昭太郎だけ。

 みんなが結婚して、自分だけが未婚。

 だから、結婚しなくては。

 早く結婚しなくては。

 ちゃんと恋人はいる。一つ上の女性。水瀬岬。

 指折り数えてみると、かれこれ三年も付き合っていることになる。三年付き合えば、もう充分だろう。大丈夫に決まっている。きっと。必ず。絶対。

 結婚する。

 結婚しなくてはいけないから。

 だから、結婚する。

 早く結婚しなくては。

 早く結婚しなくては。

 岬は長女だから、もしかしたら名字が変わるかもしれないが、関係ない。結婚したい。しなければならない。

 向こうは働いているので、寿退職を頼まなければならなくなるかもしれないが、関係ない。結婚したい。

 そう、結婚したい。

 とにかく結婚したい。

 どうしたって結婚したい。

 なにがなんでも結婚したい。

 結婚したい。結婚したい。結婚したい。結婚したい。

 結婚したい!


『結婚! 結婚! 結婚!結婚!』


       ※


 きーんっ! という金属バットの快音が鼓膜を振動させた。打球はセンター方向に大きな放物線を描き、『よっしゃーっ! 任せとけぇーっ!』と大声を出した藤井崎のグラブに収まる。藤井崎はさっきまで内野にいたはずなのに、気がつけばセンターを守っていた。『もういっちょこーい!』と白球を元気よくホームベース方向に返球。その姿、実に活き活きとしていた。

(…………)

 拓海は、内側に溢れた濁流のような強く激しく一方的な思いに、胸が強く痛んだ。そして、とんでもなく頭が痛くなった。今すぐ帰って布団に入って眠ってしまいたいぐらいに。できるなら、なにもかもをこの場に投げ捨てて。

(……我が)

 我が強いというより、我しかなかった。結婚は一人でするものでないのに。

 結婚すること……どうやらそれは青海先生の願いに違いない。

 青海先生のみの。

「あの、青海先生……僕が言う資格なんてあるかどうか、ですけど……」

「今はどんなだっていいです。何かアドバイスがあるなら、お願いします。あーっ! なんであのプロポーズがうまくいかなかったんだろう?」

「えーとですね……」

 慎重に言葉を選ぶ。あまり言いたくない種類の言葉であるから。できることなら関わりたくないが、そんなことを言っている場合ではない。

「確認なんですが、相手の方とは、別れたわけじゃないんですよね?」

「おかげさまで、まだそんな話にはなってません。『まだ』っていうのがちょっと不安になりますけど……今は、その、ただちょっと時間を置いているというのか、そういうものです。きっと。ええ、きっと。いや、俺にも定かじゃありませんけど……」

「別れていないなら、互いに好意はあるわけですよ」

 そこにも『まだ』という言葉がつくかもしれないが。

「だとしたら、じっくり二人で話し合ってみるべきですね。そうじゃありません? 青海先生は結婚したい。相手の方も二人で幸せになりたいと思っているわけです。でも、結婚はしようとしない」

 好意があって幸せになりたいと思っている相手が、結婚は望んでいない。つまりは、『好意』も『幸せ』も、青海先生の目指す『結婚』に直結するものでないということになる。

「なら、そこに何があるか? 何かがあるからそんなややこしい状況になっているわけですから、それを突き止めてみるべきです。そうするために、まずはしっかり話し合ってみてはいかがでしょうか?」

「話し合い、ですか?」

「はい。ポイントは、まず相手の話を聞くことです。青海先生、ちゃんと聞いてあげてくださいね」

 念押し。

「いいですか、青海先生は聞く側に回ってくださいよ。相手から質問されない限り、なるべく意見は口にしようとせずに。とにかく『会話』してください」

 拓海だって二人の間に何があるのかは分からない。分からないが、少なくとも、指輪からは青海先生一方的な願望しか伝わってこなかった。なら、相手の希望を天秤に載せる必要はあるはずである。

「冷静に、客観的に、自分のことでなく他人の話を聞いているみたいに、話し合ってみてください。しつこいようですが、ちゃんと聞いてくださいね」

 風が吹く。拓海の耳までかかる髪が小さく揺れる。かけている四角い黒縁眼鏡に触れ、そこから見える斜め四十五度を見つめた悩める体育教師が『はい……』と小さく頷いたのを目に、ゆっくりと立ち上がった。

 拓海はそのまま校舎へ帰っていく。部活動をやっているグラウンドをぐるりーっと遠回りして。

『おらおらぁ! ばっちこいやぁーっ!』

 グラウンドには、やけに藤井崎の声が響いていた。野球部顧問が置かれている状況なんて知る由もなく。


       ※


 六月二十日、月曜日。

「そうか、ずっと微熱だったのか。そりゃ、大変だったな」

「そうなのです。ちょっと熱が出ただけなのですが、お父さんもお母さんも大げさだから、一週間も休んじゃいました。学校いこうとすると、『駄目だ駄目だ』って、制服も着せてもらえないのです。困ったものでして。えへっ」

「まあ、最後の笑顔はかわいいけど……うん、治ってよかったな。一ノ瀬も心配してたから、ちゃんと声かけとけよ」

「ご迷惑をおかけしちゃました。部活のときに謝っておきますね」

 ピンク色の小さな弁当箱。ミートボールを箸で挟み、口に運んでぱくっとする河井。背中までのストレートな髪が僅かに揺れた。

「そうそう、森山先生は、小説をお読みになるのでしたっけ? 以前、ここでそのような話をしましたよね。えーと、どういったものがおもしろいと感じますか? 読者マスターの意見が聞きたいです」

「随分と唐突だな。マスター?」

「えーとですね、文化祭に向けて、部誌の制作をしないといけないのです。名前は、えーと……」

「ああ、『残響』だろ? さすがにそれは知ってる。なんたって顧問だからな。立派な、かどうかは別として」

 拓海は小さく胸を張る。毎年印刷所に注文するのは拓海の役割。いくら怠惰な顧問とはいえ、毎年のことなので覚えていた。そう考えると、やはり文芸部の顧問なのである。本人の自覚は極めて薄いが。

「ってことは、もしかして、お前も何か書くのか?」

「そういうことになっちゃいまして。去年のを急いで読んで猛勉強してるのです。みなさん上手ですよね、どうしてあのようにお話が書けるのでしょうか? できることなら、アドバイスをいただきたいです」

「そんなこと言われても書いたことないかな……」

「でも、顧問です」

「うん、まあ……」

 考えてみる。拓海が文章を書くとすれば、テストの問題だったり、レポートだったり。どうやって書いていたか?

「部誌のテーマはあるのか?」

「フリーです」

「そう……」

 テーマに合わそうとした作戦は、一瞬にして崩れ去る。

「じゃあさ、作文なら書いたことあるだろ? そんな感じで書いてみろよ」

「どういうことです? 作文は、あったことを書けばいいですけど、お話はそんなわけにはいかないです。作らないといけませんから」

「好きに書けばいいんだよ。っていうのが一番難しいのかもしれないけど」

 拓海は今朝コンビニで買った昆布のおにぎりを口に放り込み、緑茶を啜る。

「りんご、って知ってるか?」

「うー……なんか馬鹿にされたような気がします。アッポーですよね」

「アッポー、ね……」

 なぜだか拓海の口元が引き攣る。気にしないが。

「どういうものか説明できるか?」

「うー……また馬鹿にされた気がします。えーと、りんごは……赤いです。甘いです。おいしいです。デザートです。大好きです」

「それはお前にとっての『りんご』なわけだよ」

「どういうことです?」

「もしかしたら赤くない青りんごを想像する人がいるかもしれない。好みの問題だから、苦手な人だっているかもしれない。甘さより酸っぱさをイメージする人だっているかもしれない。『りんご』っていう共通した言葉は同じだけど、そこから受ける印象はそれぞれ違うわけさ」

「そう、ですね」

「だから、小学生に遠足の感想文を書かせれば、みんなが同じ場所にいって同じものを見たつもりでも、それぞれ違うものになる」

 文章も違うし内容も違うことになる。

「だから、お前が当たり前に思ってる常識だって、他人からすれば非常識なことだってあるかもしれない。お前には想像できない世界に当たり前のようにいる人だっている。お前はお前で、お前以外の人間じゃないから、お前が見ている世界はお前にしか見えていない世界ってことになる」

 人間は個人単位でそれぞれが別のものを見ている。別のものを感じている。別のものを認識している。同じ教室で同じ授業を受けているつもりでも、好き嫌いや得意不得意が生まれるように。

「だから、部誌にはお前の日常を書いたっていいわけさ。お前にとっては当たり前でおもしろくないものだって思ってることでも、他人からすればおもしろいかもしれない。そうだな、考えてみれば、留年して教室に一緒に弁当を食べてくれる人がいなくて図書室で食べようとしていた現実は、それはそれで興味深いだろ。多くの人には体験できないことだ」

「うー……やっぱり馬鹿にされてる気がします」

 河井は頬を膨らます。けど、すぐに元通り。

「分かったような分からないようなですが……頑張って書いてみます。ただ、アイデアがないといけないです」

「なんだったら、『金太郎』を書いてみるといい。うろ覚えのままお前が書いたら、きっと大筋は原作通りだったとしても細部が違ってくるはずだから。その細部こそがオリジナルってなことになる。おお、これはいいアイデアだ」

「『金太郎』ですか……」

 河井は少し遠い目をして……五秒後、目を見開いた。

「森山先生、わたし、金太郎のお話知らないです」

「まあ……実は、僕もあまりよく知らない。熊と相撲するとかだけど、あれって、どんな話なんだろうな。『金』って前かけみたいなのをした半裸状態のインパクトがあまりに強くて」

 もうさっぱりだった。知名度は高いのに、ストーリーが思いつかない。

「まあ、桃太郎でも竹取物語でも、なんでもいい。頑張ってみることだ。おもしろい話、待ってるぞ。期待してるからな」

「うー……作るのも大変なのに、変なプレッシャー与えないでください」

「それも青春だ」

 拓海は、自分でもわけの分からない締め方で会話を区切った。

 言葉がなくなると、隣の図書室から話し声が聞こえてくる。きっと勉強や読書というより、ああして話したくて堪らない年頃なのだろう。話したいなら別の場所でもいいようなものを。あまり度が過ぎるようなら注意するが、出しゃばらずに当番の図書委員に任せることにする。

 昼食について、話しながらなので少し時間がかかったかもしれない。出たごみをコンビニの袋にしまう。五時間目がはじまる前にこれを職員室のごみ箱に入れるため、落ち帰りやすくするべく丸めた。

 と、拓海の視界、図書室とこの資料室とを区切る扉のガラス部分に人影が映る。と思った矢先、内側に開けられた。同時に、青ジャージが入ってきたのである。

 拓海の瞼がぱちくりっ。

「あれ、珍しいですね。どうしたんですか、青海先生? 約束、はしてなかったと思いますけど……ああ、何か必要な資料でもありましたか?」

「あ、いや、森山先生がここにいると伺ったものですから……って、河井? こんなとこで飯食ってんのか?」

 青海先生は、ピンク色のかわいらしい弁当に箸を伸ばした河井と、正面に座る森山先生の顔を交互に見て……交互に見ては交互に見て……咳払い。ごほんっ。

「森山先生、こういうのはまずいですよぉ」

「まずい……?」

「だって、相手はまだ女子高生ですよ。未成年です、未成年。それなのに、こんな昼間から。恥というものを知らないんですか、森山先生は? ここ、学校ですよ。ああ、嘆かわしい。こんなことが現実にあっていいはずないでしょう」

「ちょ! ちょっと待ってください。猛烈に想像が暴走してません?」

「こんな若い子と、ってより、教え子ですよ。教え子! 現役の女子高生とだなんて、俺は断じて認めませんよぉ! ええ! 認めませんともぉ!」

「……わけの分からない想像で突っ走った誤解に一方的に巻き込まれて、ただただ頭が痛いです。それに……あのさ、河井、こんな状況でそんな呑気に弁当食べてんじゃないよ。いや、そうやってさ、『はい、どうしましたか?』ってな具合にかわいらしく小首傾げられても……」

 なぜか顔を赤くして声を荒げる青海先生と、現状に構うことなくマイペースで弁当に箸を伸ばす河井に、拓海は四月まで確かにここにあった平穏な昼休みがどれだけありがたいことだったか、改めて痛感した。

(なんてこった、火のないとこに煙を立てられた……)

 嘆息。


「ああ、そうでしたか、河井と一緒に昼飯を食べてあげていたんですか。それはそれは。留年しましたからね、友達作りも大変ですよね。すみませんね、気がつかずに。俺はてっきり、昼間から女子高生と不純なことでもしてるのかと」

「どうしたらそんな発想になるんですか? あまりに突飛な……」

「いやー、扉開けたら、二人が向き合って食事している姿が、仲睦まじいといいますか、まるで初々しい夫婦みたいに見えたものですから。あっはっはっはー」

 声高らかに笑う青海先生。

「そんな事情だったとは、河井には悪いことしちゃったかなー」

「僕にもですけどね……」

 あのまま三人でいたら話がややこしくなりそうだったので、図書室の資料室に河井を残し、拓海と青海先生はグラウンドに出てきた。青海先生が抱いた妙な誤解を解く必要もあるが、そんなことより青海先生の方から話があるということで。きっと『あの話』だろうと察して。

 場所は、前回同様にバックネット近くのベンチ。

 昼休みだが、グラウンドには誰の姿もない。小学校なら元気に走り回る子供の姿がたくさんあるだろうが、さすがに高校生が外を走り回っていることはなく、誰の姿もなかった。明るい時間帯なのに、なぜだか寂しい雰囲気がある。

 見上げる空には、灰色の雲が見受けられた。晴れ間も見えるため、すぐ雨が落ちてくることはないだろう。

「河井がちゃんと教室で弁当食べられるように、面倒見てあげてくださいよ」

「力不足で、すみません……」

 小さく頭を下げた青海先生は大きく息を吸い込み、口を窄めて長い息を出す。

「実はですね、昨日、岬に会ってきました」

 青海先生の彼女、水瀬岬。先日プロポーズを受け入れてもらえなかった彼女。

「この前は受け入れてもらえなかったことにショックだったから、どんな話をしたか覚えてなかったので、今回はしっかり相手のことを聞こうと思いました。森山先生のアドバイス通りに」

 その結果、思いもしない展開となっていた。


       ※


 水瀬岬、三十歳。大手の広告代理店に勤めている。入社以降の献身的な業務内容が評価されてか、この春、新プロジェクトのリーダーに任命された。まだまだ荷が重いと思うも、仕事としてやり甲斐はあったので、全力で取り組む覚悟である。

 リーダー業務はこれまでしたことがなく、自分のことをこなしていればよかった一担当とはまるで違い、苦労の連続だった。指示がうまく伝わらなかったり、チーム員の実力差を把握できなかったり。そういった難しいことを岬なりチーム員で協力して一つずつクリアーしていき、ようやくプロジェクトがまとまりかけたのが六月、日々が充実してきたと実感を得ることができた。『やり甲斐』というものを感じられたかもしれない。

 そんな矢先、仕事とは関係のないプライベートで驚きが待っていた。いきなり彼氏からプロポーズを受けたのである。結婚については前々から話していたことだったが、結婚したら岬には家に入ってほしいらしく、会社を辞めなければならない。

 困った。

 今年に入って特に、仕事がおもしろくなってきたばかり。こんなタイミングで寿退社では、チームのみんなにも申し訳ないし、それ以前に、岬が納得いかない。ただ、結婚はもちろんしたい。幸せになりたいと願うのは、誰だって一緒だろう。

 けど、今ではないと思った。

 今抱えているすべての業務を投げ出して結婚すれば無責任だし、間違いなく後悔するだろう。『幸せになるべく結婚するのに、今したら後悔する』なんて、咄嗟にそう思ったのである。

 だから、プロポーズされたことは嬉しかったけど、承諾はできなかった。彼氏のことは嫌いではないし、できることなら一緒にいたいと思う。たまに一人で暴走するようなこともあるが、根はいい人なのは知っているから。

 プロポーズを断ったときの彼氏は、顔面蒼白で魂が抜けたように惚けていた。断られるなんて思ってもいなかったのだろう。申し訳ない……それから一週間、プロポーズのことを引きずったこともあり、仕事で些細なミスを連発した。尻拭いを上司や後輩に頼むことにもなり、それが情けなくて申し訳なくて。

 幸いにしてミスはまだ挽回できる段階のものだったが、このままいくと取り返しのつかない事態に陥るかもしれない。その危険性はかなり高かったと思う。自分のせいでプロジェクトが失敗するなんて、断じて許されるはずがない。

 なんとかしなくては。

 なんとかするのに、解決策を模索すると……決意するしかなかった。岬はもやもやする気持ちに決着をつけるために。

 日曜日。彼氏と向き合い、一つの結論を導き出す。


       ※


 天谷高校グラウンドにある、バックネット近くのベンチに二人の教員が腰かけている。

 その一人、青海先生は、小さく開かれた口から零れるように、言葉を発した。

「実はですね、振られてしまいました……」

「ええぇ!?」

 拓海は目が白黒。互いに好き合っているのに、結婚してもおかしくない二人だったのに、それがいきなり別れるなんて。

「そ、それでいいんですか?」

「俺もそれは受け入れました。俺には俺の人生があって、あいつにはあいつの人生がありますから……」

「それじゃ、聞き分けがあまりにも……」

 このような結果となり、拓海は話し合いをアドバイスした手前、いやでも責任を感じてしまう。胸が痛い。拓海が指輪を手にしなければ、こんなことにならなかったかもしれないのだから。

 他人を不幸にする、余計なことをしてしまったのでは……。

 こんな気持ち、今まで何度だって抱いてきた。これがいやだったのに……。

「それで、だ、大丈夫なんですか、青海先生は。あんなに、その、結婚を……」

「はい、大丈夫ですよ。まだ希望はありますから」

 俯き加減ながらも歯を出して笑う青海先生。それは少し無理があるようでもあり、いつもの笑顔のようでもある。

「一つ、約束したんです」

「約束ですか?」

「二年後にまた会って、もし互いが互いにまだ気持ちが残っていたら、その時は結婚しようって」

 二年間という距離を置き、互いの気持ちを確かめること。結婚を望む者からすれば二年のお預けは途方もなく長いように思えるが、でも、結婚して夫婦となれば一生の問題で、二年なんて僅かなものでしかない。

「岬が言ってました。『二年間で立ち上げた仕事をなんとか軌道に乗せてみせる』って。その間に、もしあいつに別の男ができたとしても、それはそれで仕方ありません。俺は俺でただ信じて待つのみですから。うまくいけたら最高ですけどね……」

「そうですか……それ、叶うといいですね。青海先生の希望が」

「叶いますよ。だって、俺、んですから」

 言霊は、口に出してこそ意味がある。

「結婚か、今から楽しみだなー。あとたったの二年ですよ。あっはっはっはー」

 青海先生は、いつものように声を出して笑った。そうすることが、今ある幸せであるかのように。

 南校舎の下駄箱からジャージ姿の男子生徒が現れた。とほぼ同時に、予鈴が鳴る。あと五分で五時間目の授業のはじまり。

「さあ! 森山先生、午後の授業ですよ」

 体育教師は、このままグラウンドに残ることとなる。校舎から生徒が出てくるのをひたすら待って。

『待ち』の延長線上に、これまでにない輝きがあると信じて。

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