第3話


 小さな温もり



       ※


 六月一日、水曜日。

 先月は衣替え期間で、生徒は冬服と夏服、どちらを着てもいいことになっていた。気温が上がることもあり、前半で大半が夏服になっていたが、僅かながらに冬服の生徒もいることはいた。しかし、今日からは全員が夏服に切り替わり、男女ともに半袖の白シャツ。毎年、冬服を着てくるおっちょこちょいがいないか心配になるが、これが不思議とない。拓海が通っているときもそうだった。生徒は忘れ物が多いくせに、なぜか制服は間違えないのである。これは紛れもなく学校の七不思議に入れてもいいだろう。

 そんな六月最初の放課後。

「…………」

 拓海は担任している三年E組のホームルームを済まし、『ひゃっほーい! 今日もいよいよ練習だぜぇ! あの太陽に向かってホームランだぁ!』と大きく跳ねるように教室から出ていった野球部キャプテンの藤井崎に苦々しい笑みを浮かべつつ、渡り廊下を渡り、階段を下って、北校舎一階にある職員下駄箱にやって来た。

 下履きに履き替えて、外に出る。すぐ前が体育館でその横に駐車場があり、教員の乗用車がたくさん駐車されていた。通り抜けていき、掃除道具入れから竹箒を取り出す。そのまま体育館北側へ。

 向かう先には運動部女子の部室があり、さらにその奥が敷地に沿って建てられているフェンスがある。フェンスを越えると外周となる一方通行の小さな道路で、その向こう側は堤防の斜面になっていた。雑草が茂る斜面を越えると、東西に流れるのは川がある。河口が近い影響もあり、川幅は五十メートル以上あった。とはいえ、堤防の高さが五メートルぐらいあるのでここから見ることはできず、北校舎三階ぐらいからでないと眺めることはできない。

「…………」

 拓海の習慣として、水曜日はここの清掃していた。外周を通る一般人から見えることもあり、ごみが落ちていたのでは印象が悪い。グラウンドの方は生徒が掃除しているものの、ここは生徒も教員も誰も気にかけていないため、拓海が自主的に行う、毎週欠かせない掃除であった。ただ、同じ掃除をするのでも、室内に比べて外の掃除はなんとなく気持ちいいものがあるから不思議である。

「…………」

 フェンスに沿って背の低い金木犀が十ほど植えられており、今は葉っぱだけだが、秋には小さな橙色の花をつける。手前にはコンクリートの側溝があり、そこにパンの袋が落ちていた。即座に回収。

「……っ」

 腰を屈めてパンの袋を手にした瞬間、違和感が。

(……鳴き声?)

 微かにではあるが、動物の鳴き声がした。敷地内はもちろんドームのような屋根があるわけでないので、鳥や猫が自由にやって来る。しかし、今のはあまりにも弱々しい、小さな鳴き声だった。

(……子猫)

 耳にしたのは、『みー……』という消え去りそうな細い声。フェンスの向こうにある堤防には多くの雑草が生えているが、しかし、声はそんな方向からではなかった。

 外ではなく、内から。

(…………)

 拓海の前にあるのは、クリーム色をした二階建ての運動部女子部室。その視界には、柵のある小さな窓がたくさんが並んでいる。早くも部活動の準備があるのか、女子生徒の声が漏れ聞こえてきた。

(……また)

 また声がした。間違いなく、この辺りに子猫がいる。もし親とはぐれたのなら、すぐ死んでしまうだろう。別に子猫が死ぬぐらい学校としては構わないが、しかし、死んでいる子猫を生徒が見つけたら騒ぎになるに違いない。その前に処理した方がいいし、生きているなら保健所に連絡する必要がある。

 耳を澄ましながら居場所を見つけるべく、部室の窓側でなく反対側、体育館の方に回ってみた。そこには簀の子が敷かれていて、等間隔に各運動部の扉が並んでいた。表示は『バレーボール』『卓球』『ソフトボール』などなど。

「……おっ」

 瞬間、一番手前、『バレーボール』の引き戸が開いた。

 瞬間、びくんっと体が揺れる。

「…………」

 拓海は今、女子更衣室の前で、子猫の鳴き声を探ろうと耳を澄ましているところ。下の方を注視しているので、中腰の状態。その様子を客観的に見ると、こちら側に窓はないものの、覗きや下着泥棒のような、かなり怪しい姿に見えるかもしれない、ということに気づいた。女子生徒に覗きや変態とでも勘違いされたら、目も当てられない。

 まずい。

 非常に、まずい。

「…………」

 拓海は慌てて姿勢を正し、変なことをしたわけでもないのに少し乱れた鼓動を意識する……そんな拓海の前に、一人の女子生徒が部室から出てきた。その姿に、拓海の瞼が僅かに上がる。後ろで縛った色素の薄い茶色っぽい髪の毛は、拓海が担当している三年E組の生徒だった。

「なんだ、久保田くぼたか」

 知っている人間だからといってほっとできる場面でないが、なぜだか安堵の息が漏れていた。

「今から部活なのか?」

 部室から出てきたのは、久保田みちる。三年生。さっそく制服から着替えたらしく、赤いTシャツに黒いハーフパンツ姿である。身長は百七十センチメートルの拓海と同じぐらい。女子としては高い方だろう。

「そうそう、この辺りで、猫見なかったか? さっき鳴き声が聞こえたんだが」

「ね、ね、ね、ね、ね、猫おぉ!?」

 信じられないぐらい声が裏返り、急に目があっちこっちに泳ぎまくる久保田。動揺が半端ない。

「し、し、し、知らんよ。うち、子猫なんて知らん知らん。だって、ここ、学校。猫、学校、勉強しに、こんし。あは。あは。あはははっ」

 たどたどしい口調。次に唇を尖らせ、頬を膨らませて息を吐く。しかし、どれだけ頑張ったところで口笛は出ない。

「い、い、い、いやだな、モリヤーったら。何を証拠に、そんな言ってんのぉ?」

「『森山先生』な。いつも言ってるけど、変なあだ名で呼ぶんじゃない。最後に『ま』をつけるだけだろ、変な省略しやがって」

「『モリヤー』って、『おんどりゃー』みたいで格好よくない?」

「ない。一切ない。で? 今の『証拠』って何の話のことだ?」

「い、言ってる意味が分からんし」

 また唇を尖らせるが、口からは空気が漏れる音のみで、やはりメロディーを奏でることはなかった。

「だ、だ、だ、だって、部室に子猫なんているはずないし。今朝河川敷で拾ってなんてないんよ。もちろん、かわしくなんて……知らんし」

 次の瞬間、『みー』というか細い声が、扉が開かれた状態の女子バレーボール部部室から響いてきた。

「し、し、知らんし。みー、みー、みー、みー」

 噴き出す汗が半端ない。

「みー、みー、みー、みー」

「……あのな、学校じゃペットなんて飼えないぞ。元の場所に戻してくるか、責任持って飼い主見つけるか?」

「分かってんよ。飼い主はみんなで探してるところ。それはちゃんとするし。そうみんなで決めたし」

「そうか……とすると、拾ったっていう子猫は部室にいるんだな。そうかそうか。河川敷で拾ったのを部室で飼ってるのか。それはいけないな」

「うえぇ!? 朝練の河川敷でランニングしてたときに子猫拾ってきたのがばれてるぅ!? モリヤーったら鋭い! もしかして探偵なん?」

「じゃないけど」

 逡巡する。優等な教員であれば、職員室に報告しにいくところだろう。優等とはいえない教員だって、きっと職員室に報告しにいくに違いない。

 けれど、拓海が取る行動は……。


       ※


 六月一日、水曜日。

 愛名市立天谷高等学校バレーボール部には、朝練がある。朝七時に集合して、学校北側を流れる比良川の河川敷をランニング。朝の静かな空気が少しずつ暖まっていくのを頬に、西方に向かって走っていく。

 河川敷にはコンクリートで舗装された道があり、ジャージ姿の年寄りも擦れ違うこともしばしば。すっかり顔なじみで、『おはようございまーす』と挨拶することもあった。

「はぁはぁはぁはぁ」

 赤のTシャツに黒色のハーフパンツ姿の三年生の久保田みちるは、運動部に所属しているのに走るのが得意でなく、というより、とんでもなく苦手。みんなが先にいって橋の下でストレッチをしているのを双眸に、本人としては懸命に、客観的には極めてスローペースで走っていく。苦手なものは仕方ない。体力はそこそこあるのだが、単純に走るのが苦手であった。

 みちる曰く、天谷高校に陸上部がないのは、『こんな罰ゲームみたいなことを好んでやる人間がいないからに違いない』であった。

「はぁはぁはぁはぁ」

 右手にある水面を見ると、穏やかな川面が自分と同じペースで流れていく。反対側の舗装されていない部分には背の高い雑草も生えていて、今にも虫が飛び出てきそう。『きゃーっ!』なんて乙女のような悲鳴を上げるようなことはないが、『いきなり』はどうしたところで驚くので、警戒する必要はある。

 走っている今は、そんなゆとりないが。

「はぁはぁはぁはぁ」

 走る。走る走る。橋の下にいるみんなに追いつくために、走る。走る走る。みんなについていけないこと、いつものことだけど、なんとも情けない。

「はぁはぁはぁはぁ」

 まだまだ橋までは距離があった。ここで立ち止まれば、向こうから物凄いブーイングが飛んでくるに違いない。そんなこと、最上級生である三年生の久保田がするわけにはいかないのだ。

 走る。なんとかして走る。

「はぁはぁはぁはぁ……んっ?」

 と、ここで視線を川とは反対側に向けた。理由は、なんとなくそちらに引かれるものがあったから。

 視線の先、久保田の胸ぐらいまである雑草が生えており、そこに茶色い物体が見えた。地面が露出しているわけでなさそうで、目を凝らしてみると……段ボールであることが分かる。

 誰からあんな場所まで持ってきて、捨てていったのだろうか? と過ったとき、その耳に小さな声が。

『みー……』

 鳴き声がした。猫。子猫。猫を飼ったことはないし、親戚も近しい友人も飼っていないので知識としては薄いが、でも、テレビぐらいの情報はある。

(子猫がいる!)

 なんて思ったらもう、足が止まっていた。朝練のランニングより、『捨て猫がいる!』という頭を過った状況を一刻も早く確認したかったから。

 舗装された道から外れ、草むらへ。

『みー……』

 また聞こえた。聞こえはしたが、実に弱々しい声。今にも消えてしまいそう。

 草むらに置かれた段ボールは両腕で抱えられるほどの大きさで、『鹿児島産じゃがいも』という文字とイラストが描かれていた。

「ああ、やっぱりー」

 猫がいた。子猫。毛玉のように小さく、白と茶色の毛。口と鼻がピンク色で、両足は綿棒のように細い。そんな毛玉が三つあった。

 今、真ん中にある毛玉が動いたかと思うと、

『みー……』

 鳴いた。とても小さく。


 もう朝練どころではなくなっていた。

 結局、段ボールに入っていた三匹の子猫は、二匹がすでに息をしていなかったため、みんなで近くに穴を掘って埋めて手を合わせる。残った一匹は、まだ瞼も開けられないような弱々しい存在ながら、しかし、そこから伝わってくる温もりは、確かな『生』を感じられた。とてもこのまま放置することはできず……みんなで相談した結果、女子バレーボール部員で保護することを決めた。駅前のコンビニで新しい段ボールをもらってきて、部室に運び込む。

 コンビニで買ってきた紙トレイにパックの牛乳を入れるも……衰弱した子猫は飲むどころかまともに動くこともできなかった。みんなこんな子猫を扱う経験はなく、ただおろおろするばかり。あっという間に時間が過ぎて、どうすることもできずに一時間目を迎えることとなる。

 子猫について考えると授業どころでなく、教員には分からない程度の声でクラスメートに情報を集めたところ……たまたま子猫の世話をしたことがある生徒がいた。世話の仕方を教えてもらい、昼休みに決行する。

 授業中も昼休みまでに衰弱して死んでないかと気が気でなかった。みちるは自分の昼食を後回しに、急いで走って部室に向かう。すると……まだ子猫の鳴き声が聞こえた。

 ほっと一安心である。

「あー、凄い凄い。飲んだよー」

 みちるは子猫を右手に持ち、指の谷間に牛乳を垂らしていく。すると、伝って届いたミルクに、子猫は飲んだ。少しずつ少しずつ、小刻みに震える体で、そうして懸命に生きようとしている。

 今朝、一部の他部員から、『そんなの世話できるはずない』なんて声も上がったが、この小さな命を前に、とてもあの河川敷に戻す気になれなかった。学校の飼うのが無理でも、飼い主を探してあげたい。こんなにかわいい子猫、死んでいいはずないから。

 生きているのだから。


 そして放課後。

 帰りのホームルームが終わると、いつものように教室を飛び出していった野球部の藤井崎と競うようにみちるも飛び出し、体育館北側の部室へ。制服からTシャツに着替えて、子猫の体を冷やさないように毛布や紙タオルのようなものが必要で、でも、そんなものないから、女子トイレからトイレットペーパーをもらってこようと考えた。

『みー……』

 鳴いた子猫に、五時間目の授業で考えた『ちゃしろ』と命名する。部室の引き戸を開けた、その刹那!

(げげげぇ!?)

 驚いた。女子更衣室のすぐ近くに、一人の教員がいたから。それも、担任のモリヤーだった。

 モリヤーは明らかにこちらを気にしている。というより、猫の話題をしてきた。でもって、部室からは『みー……』というちゃしろの声が。

 できれば今すぐモリヤーの耳を塞いでしまいたいが、もう手遅れだろう。映画や漫画みたいに首元に手刀をして、うまく気絶させられる技術があればいいのに。

 成す術がない。

 万事休す。

 絶体絶命。

(いやだ)

 このままモリヤーが職員室に報告して、部室からちゃしろを取り上げられ、保健所に連絡がいってしまう。

 それは、ちゃしろとのお別れを意味する。

 ちゃしろが処分されるだなんて……。

(いやいやいやいや)

 みちるの脳裏には『鋭い刃が鈍くきらめき、鮮血が地面に散ると同時に、ちゃしろの命が消える』といった悪夢が過った。回避したいが、術がない。

 みちるにできたこと、それは微動だにせずその場で硬直すること。

(……へっ?)

 しかし、一瞬のうちに脳内で展開された悪夢は、現実に訪れることはなかった。保健所にちゃしろが連れていかれることもなければ職員室に報告がいくこともない。

 なぜそうなったのかモリヤー本人に確認しないと分からないが、それから三つ四つと言葉を交わすと、

『まあ、しっかりやるこったな』

 モリヤーは、まるでこれまでのやり取りや部室から漏れてきた鳴き声のことなんてお構いなく、実に素っ気なく言い放ったかと思うと、竹箒を持って部室の北側へといってしまった。これから掃除でもするみたいに。

(うあー、助かったー)

 強張っていた全身から力が抜けていく。油断すると、コンクリートの地面に膝から崩れていってしまいそう。

 ちゃしろに関して、どうやらお咎めも職員室に報告もしないらしい。それがモリヤーの残した『まあ、しっかりやるこったな』に表れている。

(さっすがはモリヤー。うち、あの人は分かる人だって信じてたんよ)

 担任のモリヤーは、ホームルーム等でも生徒主導のことにあまり深く関わってこない。クラスの問題も全面的に生徒に任せ、教室隅で腕組みをして傍観するのみ。放任主義なのか、生徒との距離を一定に保とうとしているのか、単純にあらゆることに対して面倒なのか……ともあれ、そんなモリヤーだからこそ、ちゃしろのことは問題にならずに済みそうである。

 つまりは、これで飼い主が見つかるまで、部室で飼うことができる!

(ありがと、モリヤー、大好きだよぉ!)

 明日顔見たとき、そう力いっぱい伝えてあげようと思った。いや、この気持ちの高鳴りなら、いきなり抱きついてしまうかもしれない。

 絶対しないけど。


       ※


 六月十三日、月曜日。

 久保田みちるにとって大事件が起きた。

 直面した現実に絶望し、下がった視線を簡単には上げられなくなるほど。

 後悔は、みちるの存在を容赦なく押し潰していく。


 子猫のちゃしろについて、拾ってきてからもうすぐ二週間が経とうとしているのに、まだ飼い主は見つかっていない。クラスメートや親戚にも範囲を広げるも、なかなかうまくいかなかった。あんなにもかわいいのに、なぜだか引き取り手が見つからない。不思議である。といっても、みちるの家でも猫を飼うことはできないので、どうのこうのと言う資格はないのだが。

 みちるが河川敷から拾ってきた責任もあり、部の誰よりも率先して世話をしていた。日曜日なんかも部活がないのに学校にきて、新聞の取り替えやミルクをあげている。他の部員も協力してくれるが、やはり責任はみちるにあり、早く飼い主を見つけて外の世界を見せてあげたかった。

 ちゃしろの体調は、拾ってきたときは震えて弱々しい体だったのに、毎日ちゃんとミルクを飲んでくれて、鳴き声の『みー』も随分大きくなった気がする。線のように細かった体もふっくらとなり、毛並もよく、実にいい傾向だった。そんなちゃしろに、みちるはピンクのリボンをつけてあげる。首の後ろにはリボンの大きな蝶ができた。

 部室で飼っているちゃしろの存在について、部員以外には秘密ということになっているが……鳴き声はするし噂は流れるしで、昼休みや部活前にかわいいちゃしろを見にくる生徒はいた。ただ、場所が女子部室ということと飼っているのが秘密ということもあり、今のところ女子の間にしかちゃしろのことは伝わっていない。そういうところ、女子の間には打合せなしでもなんとなくの連携ができてしまうから、不思議である。

 ちゃしろはまだまだ小さく、片手に載る大きさ。口周りと肉球はピンク色で、豆のような黒目で真っ直ぐ見つめてくる。

 かわいい!

 綿棒みたいな脚が、ひょこひょこっと動くところなんて、力いっぱい抱きしめてみたくなる。実際にやったら両手で潰れてしまうのでやりはしないが、『孫は目に入れても痛くない』と老人がよく言う意味がなんとなく分かる気がした。

 ただし、みちるの生活にとってマイナスな面も生まれている。ちゃしろとの時間があったからこそ、他の時間を削ることとなり、その削った時間によって亀裂となる案件があった。

 平野洋平という彼氏との付き合いについて。

 ちゃしろとの時間は休み時間や放課後、さらには休日に及び、当然洋平といちゃいちゃするどころか、顔すら合わせられなくなった。

 そんな状況……単純に洋平がいじけた。会えないことに。ただただ。

 昼休みの最後にちょっとだけ時間を作ると、『こんなに擦れ違いがつづくなら、オレたち、別れた方がいいんじゃねーか。もうやってけねーだろぉ!』なんて言い出す始末。宥めるのが大変で大変で。

 ってなことで、日曜日はデートをすることになった。無理矢理そう約束させられて。それも朝から夜まで。でないと別れなければならなくなる。相手がそう言っているから、仕方がない。なんだか一方的な言い分だとも思ったが、まだ別れたくなかったし、渋々ながらデートを承諾してしまったのだから、これまた仕方がない。

 さて、困った。朝から夜までデートとなると、部室にいるちゃしろの面倒を見られなくなる。困った。本当に。

 これはまさに『あっちを立てればこっちが立たず』といった状況。自分が招いた事態で、筋違いだとは承知していたが、藁にも縋る思いでバレーボール部のみんなに相談したところ、

『そんなの駄目ぇ! あんたねぇ! 勝手な物言いして、いい加減になさいよぉ! 誰にも迷惑かけないって約束で飼い主が見つかるまで部室で預かることにしたんでしょうがぁ! 代わってくれなんて、そんなの言う資格ないのぉ! もしできないなら、元の場所に戻してきなさい。いい! みんなも、絶対協力しちゃ駄目だからねぇ!』

 と、司令塔のセッターであり、キャプテンのあんに一括された。元々杏里はちゃしろを保護することを反対していたので、みちるの都合を押しつけるような頼みが逆鱗に触れたのだろう。

 三年生なのに、みんなの前で、あんなにも……。

 さてさて、本当に困った。飼い主が決まっていない以上、日曜日もちゃしろの世話をしなければならない。しかし、日曜日は洋平とのデートの約束がある。でないと別れなくてはならなくなるし。

(…………)

 考えに考えて考え抜いた末……みちるは一つの結論を出す。

『洋平とデートを優先する』

 そう、約束は守らないといけない。

 に対して、ちゃしろの面倒は、

(一日ぐらい、平気よね)

 といった都合のいい考えで、日曜日の行動を決めていた。

 一つの大切な命を預かっておきながらも。

 この先に起きる事態を予測することもできずに。


 そして、久し振りということと最近のうまくいっていなかったことにより、多少ぎくしゃくした日曜日のデートを経て……本日は六月十三日の月曜日。

 部活の朝練は七時集合なのだが、みちるは昨日のことを気にして午前六時三十分に登校した。副キャプテンとして預かっているスペアキーで部室に一番乗りして……唐突に絶望の闇に突き落とされることとなる。

(ちゃしろ……!?)

 部室の隅に置かれた段ボールは側面にスナック菓子がデザインされていて、蓋は開けられていた。覗き込むと、土曜日に入れておいたミルクの紙皿があり、まだ白色は残っている。その近くにある新聞紙と毛布の中間部分において、小さな毛玉があった。茶色と白色の毛で、ぴくりっとも動くことなく。

 毛玉はとても冷たく。

 とても硬く。

 そうして、死んでいた。

 死。

 ちゃしろが死んでいた。

(っ!?)

 一瞬にして思想が爆発する。火山灰のように一面を覆う細かい粒子が嵐のように心を乱し、大混乱。目の前を白と黒の斑点が小刻みに振動しているようだった。

 月曜日に登校したら、ちゃしろが死んでいる。土曜日はあんなにミルクも飲んで元気だったのに。

 たった一日顔を見ないだけで、こんな……。

 一日世話をしなかったせいで、死んでしまった……。

 そんな……。

(いや……)

 少し早く登校したこともあり、まだ他の部員はきていない。である以上、ここにはみちる一人。

 ここには一人と、動かなくなった子猫一匹。

(いやいやいやいやあぁ!?)

 直面した現状に対して、誰にも縋ることができず、誰にも打ち明けることもできずに、置かれた状況がみちるの心身を狂わしていく。

 まるでプールに潜ったように音がぼんやりとして、流れている血が凍りついたように感覚が鈍くなる一方……今はただ、目の前のものが信じられず、どうしても受け入れられなくて、ただただ首を横に振る。何度だって、力の限り……けれど、どんなに首を横に振っても現実はどうにもならない。段ボールの中、ちゃしろは毛玉になったまま、動くことがないのだから。

 とても冷たく、小さく、死んでいる。

『みちるのせいで死んだ』

『みちるが世話をさぼったから』

『殺した』

『みちるがちゃしろを殺した』

『殺してしまった』

 一瞬の思想が、存在を圧縮していく。

 みちるが殺した。ちゃんと世話をすると決めたのに……さぼったせいで、ちゃしろが死んだ。

 絶対に守ってあげなければならなかったのに。

 みちるが守ってあげないといけなかったのに。

(いや……)

 胸に黒々とした思いが溢れてくる。

『こんなの、認めたくない』

 認めたくない。認めたくなんかない。こんな結末、どうあったところで認めていいわけがない。

(…………)

 まだ集合時間の七時には余裕があるので、周囲はとても静か。そんな静寂にさえ、今は重々しい。

(…………)

 誰もいない。誰もこの事実を知らない。ちゃしろの死、知られていない。

(…………)

 頭に過る思い。

『いいんじゃない? このまま、誰にも知られなくても』

 なかったことにしても。

 すべてなかったことにしても。

(……そ、そうよ)

 なかったことにすればいい。こうしてちゃしろが死んでいるのは、みちるしか知らない事実。死んだことは悲しいが、その事実はみちるだけ知っていればいいだけのこと。どうせみんなだって、昨日の世話を代わってくれなかったのだから。

 なら、なかったことにしよう。

 死なんて、すべてなかったことに。

(……飼い主が見つかったことにして)

 ちゃしろについては飼い主を見つけて、引き取られていったことにすればいい。それで万々歳。誰も疑うことなんてないだろう。これから急いでちゃしろを河川敷まで埋めにいき、それで、急いで段ボールも紙皿も処分することで、この死をなかったことにできる。

 そうすれば、誰にも知られなくて済む。

 死んだ事実、隠すことができるから。

 みちるが、殺した、だなんて……。

 そんなの、知られていいはずがない!

(早く! 早く!)

 早くしないと! 早くしないと、みんなが来てしまう。

 早く早く!

(早く!)

 朝練のためにこうして部室にいるのに、みちるは制服から着替えることなく、ほとんど重さを感じることのない段ボールを抱えた。一歩を踏み出したかと思うと、体からぶつかるようにして部室の扉を開け、外に飛び出す。

 刹那!

(ひぃぃ!)

 そこで、頭が真っ白になった。

 視界に、人がいたから。

 この現状を見られたから。

 しかも、知っている人に。

(ああ、あああああ……)

 見られてしまった。

 自身の罪を。

 子猫を殺した自分のことを。

 罪が存在を圧迫する。

 全身硬直して、表情は強張るばかり。

 自然と止まっていた呼吸……数秒後に口が次の息を吸い込むと同時に、みちるが止めていた足を強く前に踏み出していた。

 胸に段ボールを持ったまま。

 ちゃしろの死を抱えて。


       ※


 拓海は、今日も今日とて駅前のコンビニで昼食用の総菜パンと梅おにぎりを購入した。クレジットカードが使えると財布からわざわざ小銭を出さなくていいからとても便利。時間短縮になるし、ポイントも溜まるし。『大人になった』と思える実感の一つが、これだった。それからはカードが使える店を選ぶのが、買い物の重要ポイントになったのである。

 昼食はコンビニで購入……この現実、一人暮らしで弁当を作るつもりがない以上、こうして毎朝コンビニに寄らなければならない、という側面もあるにはある。学校に食堂があればこんなことにならないが、勤めている学校が公立だから仕方ない。『きっと私立は施設が充実してるんだろうなー』なんて思いを馳せるばかりでは、断じて空腹を満たせないのだから。着ているブルーのワイシャツは相変わらずノーネクタイで、ビニール袋をぶらぶらっさせながら歩いていく。

(…………)

 梅雨入りが発表されたばかりの六月中旬ということで、空にはどんよりとした灰色の雲が出ている。テレビでは昼ぐらいから雨という予報で、置き傘があるから持ってこなかったが、もしかしたらフライングして学校に着く前に落ちてくるかもしれない。急がなければ。

(…………)

 最寄りの北天谷駅から徒歩十分の場所に、拓海が勤める天谷高校はある。コンビニを出て、まずは駅前から国道沿いを東方へ。

 すぐ横に走る国道は交通量が多く、今日はまだ見かけないが、たまに教員の乗る車が横を通ることがあった。どうせ同じ場所にいくなら乗せていってほしいと心で懇願するも、まだ一度として成就されたことがない願いである。

 道路中央部には高速道路の高架が一定の間隔で設置されており、白色と緑色を空間に存在させている。見上げてみると、一部ガラス張りのようになっている部分があり、高速で通り過ぎていく乗用車やトラックが見えた。それは学校からも見える光景。生徒に問題を解かせているとき、ぼんやりと窓から見つめることがある。特に意味はないが。暇なときはなんとなく窓の外に視線が向くものだった。

(…………)

 右は国道、左手は住宅街で奥には十階建てのマンション。この道は駅を使う生徒の通学路だが、前方に夏服姿の制服が一つ見えるぐらいで、他には見当たらなかった。これは拓海の心がけであるが、さすがに教員が生徒と同じ時間に出勤するのはどうかということで、始業の九十分は早く学校に着くようにしている。朝の時間、職場でのんびりとお茶するのもいい。だから、見えている前の制服は、きっと部活で朝練のある生徒だろう。あの年代の子供が朝早く起きるのは大変だろうに。

 このまま国道沿いを真っ直ぐいくと、AMAショッピングモールに辿り着くことができる。一階の巨大なスーパーマーケットはもちろんのこと、衣料品や雑貨、ゲームセンターや映画館やパチンコまである大型ショッピングモール。当然のように、高校生の寄り道スポットになっていた。駅からはシャトルバスも出ており、買い物するにはとても便利である。拓海はあまりにしないが。

 AMAショッピングモール手前には住宅のモデルルームがあり、真新しい二階建ての住居がたくさん並んでいる。拓海はモデルルーム手前の道を左折すると、グラウンドの色濃い茶色が目に飛び込んできた。まだ七時前ということもあり、グラウンドにはほとんど人の姿がない。歩いていくことでグラウンドと奥にある四階建ての校舎が徐々に大きく見えてくると、グラウンドの隅に一人の野球部員がトンボをかけているのを発見した。上下白の練習着……直後、拓海の口角が僅かに上がっていく。トンボをかけていた生徒は三年E組の藤井崎塁だった。グラウンド整備なんて後輩にやらせればいいものを、今日も一番乗りで元気にトンボをかけている。こんなに朝早くから。放課後、いの一番に教室を飛び出していく姿が頭に過っていた。

(あいつから野球を取り上げたら、いったいどうなっちまうんだ?)

 頭には、水槽からまな板に出された鯉のイメージが浮かび……苦笑い。

(…………)

 歩を進めていくと、正面に門が見えてきた。駅から一番近い南門で、大勢の生徒が利用する。東方には自転車通学利用する東門があるが、拓海はそれらを通り過ぎていき、学校の外周をぐるーっと回って北門までやって来た。ここは主に職員が使う門で、天谷高校の正門である。車通勤もここを通ることになっており、体育館東方の広い駐車場には、しかし、まだ一割も車が駐車されていなかった。

 ここまではいつも通り。

(…………)

 門から右手には蒲鉾のような丸い屋根をした体育館、その壁にかけられた時計は六時五十分だった。反対の左手には四階建ての北校舎があり、生徒が溢れる昼間とは違い、人気のない静まり返った空気が漂ってくる。

 拓海は、北校舎にある職員玄関まで歩いていこうとして……視界の隅に動くものが映った。同時に歩を止めることになる。

(…………)

 別に興味があったわけでなく、ただ、朝の静かな時間に動くものがあったから、反射的に視線がそちらに向かい……見ているのは体育館のさらに奥……敷地内一番南に面している女子更衣室。

(……んっ?)

 瞬間、小さな疑問符が頭上に浮かんだ。

 明らかにおかしかったから。

(あいつ……)

 部室から出てきた一人の少女がいた。久保田みちるである。この時間に学校にいるということは朝練があるのだろう。確かバレーボール部だった気がする。しかし、部室から出てきたのに制服を着ていた。

 なぜ?

 さらには、その胸に抱える段ボールの不可解さ。

(なんだ……?)

 久保田もこちらを気づいたようで、距離にして五十メートルぐらいありそうだが、それでも視線が合った。と思ったら、急に動かなくなり、全身硬直している。『ぎくりっ』という言葉を絵に描いたようで、まるでいたずらがばれた子供みたいに。

(なんだなんだ?)

 ずっと硬直したまま仁王立ちで、一歩も動くことのない久保田……と思ったら、約十秒後にはこちらに向かって駆けてくるではないか!?

(わっ!?)

 胸にある不可解な段ボールを抱えたまま。

 後ろで縛った髪の毛は、リズム悪く揺れていた。

(……しまった)

 近寄ってくる久保田の姿に、面倒がやって来ることを悟る。ここで立ち止まったこと、今も立ち止まっていること、後悔しかない。こんなことならさっさと校舎に入ればよかった。

 まだどういった状況なのか定かでないが、厄介なやつが厄介を抱えて近寄ってくることは間違いない。

 段ボールを抱えながら小走りでやって来る久保田のこと、心を鬼にすれば無視してもいいのだろう。しかし、無視したら無視したで職員室まで追いかけてきそうだから不気味である。

(あーあ……)

 さらば、始業前の憩いよ。

 拓海はゆっくりと手を上げた。

「おはよう、久保田。どうした、そんなに慌てて」

「モリヤーッ!」

「……それはやめなさい。ホームズに出てくる天才犯罪学者の教授みたいじゃないか。ちょっと格好いいけど。こっちにだって教員としての威厳というものがあってだな」

「モリヤーモリヤー、どうしよどうしよ!? うち、うちね、とんでもないことしちゃったんよぉ!」

 久保田は顔を紅潮させ、瞳には光るものが。今は勢いよく抱えている段ボールを拓海に差し出した。

「どうしよどうしよ!? うち、どうしたらいいん!?」

「なんか一方通行だな……まったく、何がどうしたって……」

 一切説明がないままだが、切羽詰まっている状態はいやでも伝わってきた。

 拓海は差し出されているものに問題があるのだと察し、スナック菓子がデザインされた段ボールを覗き込む。底に新聞紙があって、薄いタオルケットのようなものがあって、そして、ピンクのリボンに縛られた薄茶色と白色の毛玉がある。

(んっ……)

 よく見ると、毛玉は毛玉でなく、丸まった子猫だった。

 その丸まった子猫が段ボールにいる。

 見ていても動くことは、ない。

「ああ。これが、拾ってきたっていう……」

 今から約二週間前、部室から聞こえてくる子猫の鳴き声を聞いた。そこから出てきた久保田が挙動不審だったので、部室で子猫を飼っているのだと察するも、拓海は知らない振りをした。

 関わり合いたくなかったから。

 だから、拓海は鳴き声だけで実際に姿を見たことはなかったが……目の前のは、本当に小さい。拓海の握り拳よりも小さいようで、簡単に握り潰せてしまいそう。

 ただ、その子猫がぴくりっとも身動きしない原因は、前にいる久保田の雰囲気で察することはできた。

 子猫の命がすでにないことを。

「そうか、死んじゃったんだな……」

「うち、うち! ど、どうしたらいいどうしたらいいぃ!? うちのせいでぇ! うちのせいでぇ!」

「なんだ、お前が殺したのか?」

「うちが殺したんよぉ!」

「へ……」

『そんなことないけど』と返ってくることを見越してだったのに、まさか本当に『うちが殺した』と返ってくるとは。

 拓海は逡巡する。かけるべき言葉を探して。

「あ、あのさ……」

 状況が分からないだけに、打つべき手も思いつかない。できることならこのまま立ち去りたい思いが強い。そうできればどれだけ楽なことか……久保田の瞳からは、今にも大粒の涙が零れてきそうだし、それ以上に拓海のことを縋るように前のめりになっている。まったく感情のない人間なら無視もできるだろうが、拓海は教員という立場もあり、冷血になることはできなかった。

(えーと……)

 頭をぽりぽりっ掻き、拓海はパニック状態の久保田から事情を聞くことになる。


 拓海は一旦職員室にいって買ってきた昼食を席に置いた。名札を引っ繰り返して、即座にまだ一割も埋まっていない職員室を後にする。

 職員玄関まで擦れ違う教員と挨拶を交わし、外にある掃除道具入れからスコップを取り出して、外に待たしていた久保田とともに学校裏にある河川敷に向かった。


 今日は風が強かった。河川敷は開けた場所にあるせいか、拓海の耳にかかる髪が何度も横に流れていく。空はどんよりと暗い雲が出てきて、早く校舎に戻りたい。偽りなき本音である。

 すぐ近くでは、Tシャツにハーフパンツ姿の女子バレーボール部員が、朝練のランニングをしていた。どうやら東西にある橋から橋まで走っているらしい。一キロメートルは軽く離れているだろうに、何往復もするなんて大したものである。こんな朝から走っていること、あの若さだからできるのだろう。と思ったら、ジャージ姿の老人の姿もちらほらあった。健康寿命は確実に伸びていることだろう。長寿国、日本、万歳。

 だがしかし、女子バレーボール部員はランニングしているのに、そこに所属する久保田は制服姿で、走ることはおろか声を出すこともなく、拓海のすぐ横にいる。しゃがみ込んだ状態で。元気なく俯いて。今はすぐ前にある直径一メートルほどの穴をじっと見つめていた。

 拓海と久保田は、ここに子猫を埋めるためにいる。スコップで穴を掘り、段ボールごと埋めてあげられる穴を空けて。

 周囲の背の高い雑草が揺れた。やはり今日は風が強い。

「ほら、お別れだ」

「…………」

「早くしないと、授業がはじまっちまうぞ」

「……うちのせい」

 穴を掘っているときはそうして作業に集中しているのがよかったのか、自分を責めるような言葉はなかった。しかし、今は久保田の瞳が光る。

「うちのせいで、ちゃしろ、死んじゃった……」

「何度も聞いた、それ」

 学校でもここにきてからも、拓海は同じことを耳にしている。

『うちが世話をさぼっちゃったから』

『うち、ちゃしろを幸せにしてあげられんかった』

『うち、最低だから、ちゃしろが死んだことをなかったことにしようとしたんよ』

『卑怯だから、嘘ついて飼い主が見つかったことにしようとした』

『うち、ほんとに駄目』

『うちじゃなかったら、ちゃしろは幸せになれたのに』

『うちだったから、幸せになれんかった』

『うちが悪い』

『うちがちゃしろを殺した』

『なんでうち、こんななんだろう……』

 久保田の言葉は自責に潰されんばかりで、視線はずっと下がったまま。激しく落ち込んでいるのは明白である。

 そんな久保田に、拓海はただ黙ってついてきた。近くに兄弟が眠っているとされるこの場所で一緒に穴を掘り、こうして見送ろうとしている。

「自分を責める暇があったら、早くその猫を楽にしてやれよ。ここに、そいつの兄弟もいるんだろ? だったら、一緒にしてやれてよかったじゃないか」

「…………」

「こうして見送ってくれる人もいることだし」

「…………」

 久保田はうなだれたまま、抱えた段ボールを穴に入れ、ゆっくり蓋をしようとした手を……止める。

「……うち、余計なことしちゃったよね。うちが拾わんかったら、こんなことにはならんかったのに」

「…………」

「うちが余計なことしたから、ちゃしろは、しなくてもいい苦しい思いをした……」

 誰もいない部室で、苦しんで死んでいった。

「うちの、せい……」

「……久保田」

「恨んでるよね、きっと。うち、ほんとに、駄目……」

「…………」

 拓海は、久保田からの話を聞いて、如実に伝わる苦しい心情に、一つの決断をする。本心としてはそんなことしたくはないが、けど、する。

 すると決めた。

「久保田、苦しいだろうから、リボンは取ってやろう」

 拓海はまだ蓋がされていない段ボールに手を突っ込み、小さな子猫の首に巻かれているピンク色のリボンを外してやる。

 その際、普段は意識して切っている内側にあるスイッチを入れた。刹那、込められた思いが拓海の内側に流れ込んでくる。


       ※


 暗い。寒い。暗くて寒い。

 このまま、すべて消えちゃう。

 消えてしまう。

 世界がこんなに暗くてこんなに寒いから。

 ゆっくりと吸い込まれるように、すべてをなくしちゃう。

 逆らうことはできずに、ただ一方的に消えていく。

 こんな真っ暗な世界で、ただただ消えていくのみ。

 消えていくだけ……。

 けど!

 けど、違った!

 違ったんだ!

 突如として世界が一変する。

 暗くて寒い世界に、明かりが生まれた。

 暗くて寒い世界に、温もりが生まれた。

 とても眩しくて。

 とても愛しくて。

 嬉しかった。


 けど、すぐにでも暗くて寒い世界がやって来る。やっぱり抗うことはできなかった。

 暗くて寒いのはいや。

 いやだけど、でも、どうすることもできない。

 運命は、受け入れるしかない。

 けど、その前に知ることができた。

 あのままだと知ることができなかったこと、こうして胸に残っている。

 明かりをありがとう。

 温もりをありがとう。

 知ることができて、とても心地よくて、だから、とても、ありがとう。

 幸せだった。

 本当に幸せだった。

 生きていたことが。


       ※


 溢れてきた思いは一気に霧散していく。拓海の体を通り抜け、世界へと拡散して。

 内側に痛みが残っていたが、けれど、仄かな温もりが心地よかった。

「……まあ、今のお前に言っても、気休めかもしれないけど」

 それでも拓海は、小さな命から伝わった思いがあるから、口を動かしていく。本当なら誰にも知られることのない、消えていく思いを形にするために。

「お前がやったことは……この猫を拾って面倒見たことは、決して間違いじゃなかったと思うぞ」

 拓海は大きく息を吐く。入り込んできた子猫の思いに、胸が苦しくて。今は落ち着けるように意識して息を出す。

「生まれてすぐの小さいまま、何も知らずに死んでいくのと、お前に生きることを教えてもらったんじゃ、比べるまでもない。だろ?」

「…………」

「久保田、お前はちょっとだけだったかもしれないけど、でも、この猫に『生きること』を教えてあげられたんだ。本来なら生きることもできなかった命に」

「…………」

「お前の手が、その温もりが、こいつに生きてる幸せを与えてやったんだよ。それだけで充分じゃないか」

 拓海は横を見ることはしない。ピンクのリボンを手に、ただ淡々と言葉をつなげていく。

「こいつ、人に捨てられたか親猫に見捨てられたのか分からないけど、でも、生きることを知らずに死ぬのと、生きることを体験できたことじゃ、断然後者がいいに決まってるじゃないか」

「……うち」

「子猫が死んでお前がそうして苦しいのは、生きてるからだ。生きてるからいろんなことを感じられる。楽しいことも苦しいことも笑顔になることも泣いてしまうことも。それはお前が生きているから得られるもので、それをこの猫にも与えて上げられたんだよ。いいことしたな」

「……うちがしたこと、この子のためになったん?」

「ああ。なんせ、生きられたんだからな」

 拓海が言い放つと、久保田は口を一文字に結び、溢れてくる強い感情を堪えるようにして、段ボールの蓋を閉めた。

 それから久保田は、段ボールを置いた穴にゆっくりと土をかけていく。ゆっくり、ゆっくり……そうして目の前からは穴がなくなった。

 こんもりと盛り上がった地面を目に、拓海はゆっくりと立ち上がる。まだ始業には早いだろうが、なんせ空から雨が落ちてきそう。西方の橋でストレッチをしている女子バレーボール部員を目にしてから、久保田に声をかけた。

「雨が降るから、もう練習はやめといた方がいいぞ。あいつらにもそう伝えてやってくれ。濡れ鼠はいやだろ?」

「……やだ」

 目を閉じて手を合わせていた久保田は勢いよく立ち上がったかと思うと、堤防の斜面を駆け上がっていく。元気。子猫の分まで。

「練習しないなんて、やだ!」

 にかっと歯を見せた。

「うち、朝練さぼるわけにいかんのよ。なんせ三年生だかんね」

「あ、そう……」

「ありがとね、モリヤー。大好きだよぉ!」

「あ、そう……」

 拓海の視界……久保田は短い雑草が生える斜面を勢いよく駆け上がり、向こう側へ消えた。きっと今から部室で着替えるのだろう。もうすぐ始業の時間で、着替えたところでろくにトレーニングなんてできないだろうに。

(まったく、大好きなのはどうでもいいとして、『モリヤー』ってのをなんとかしないといけないな)

 もう一度足元の地面が盛り上がっている箇所を目にしてから、スコップを手に、拓海も堤防の斜面を上がっていく。『始業前に、一杯でもお茶が飲めればいいんだけど』と思いながら。

(……これ、どうしよ?)

 スコップを持つ方とは反対の手に、ピンクのリボンが握られている。逡巡して、スラックスのポケットに入れた。

 風が吹く。髪を揺らすそれは、雨の匂いを含んでいた。

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