第2話


 過去



       ※


『勘がいい』

 そんな言葉が拓海の耳に残っている。それは幼少の頃からずっと、周りの人に言われてきたこと。なんとなくいやなことは避けてきて、避けてきて避けてきて、避けられるようになって、当然のように避けられるようになった。

 拓海にとって当たり前の状況、『げん』という不可思議な能力があれば造作もないこと。けど、幻思のことを知らない人間からすれば、『勘がいい』ということになるのだろう。その感覚、その記憶、伝わる思いは、拓海にしか分からない。

 ただし、幻思があるからこそ、他人にはない数々のトラブルを抱えることになる。他人にない能力は、必ずしもいい方向にのみ作用するわけでないのだから。


 幻視に関して残っている一番古い記憶は、拓海がまだ就学する前のこと……五歳の夏。

「おばあちゃんってぇ、もっともっと髪の毛長いんじゃないのぉ?」

 盆休みに父親の実家に帰ったとき……拓海の舌足らずの問いかけ。瞳を大きくさせて見上げてみると、皺が多くほっそりとした祖父は首を捻っていた。だから、拓海は自分の手を後方に向ける。

「もっともっとぉ、この辺まであったんでしょ? この写真のおばあちゃん、白くて短いよぉ」

 仏壇の前、祖母の遺影は白髪で肩にも届かない髪の長さだった。けれど、拓海には違う姿が見える。その違いが不思議に思えた。単純に。

「ねぇ、おじいちゃん?」

「髪の毛が長い、か……拓海は、どうしてそう思うんだい?」

「んっ……? だってぇ、そんな風なんだもーん」

 部屋に置かれた箪笥に触れている拓海には、背中まで髪の長い祖母の姿が見えている。いや、目で見ているというより、自身の内側にあるスクリーンに写っているような……毎日毎日、家族のために洗濯した服を丁寧に折り畳み、箪笥に収納する姿。縛られた髪は背中まで達し、地味な羽織姿で額の汗を拭う。顔の皺は、遺影よりも少なかった。

「ねぇ?」

「そうか、拓海にも『幻思』があるんだね……」

 口にした祖父は、少し逡巡するように視線をどこでもない虚空に彷徨わせてから……拓海の頭にぽんっと手を載せる。

「拓海、じいちゃんと約束してほしいことがある」

 拓海を見つめる顔はいつも笑顔だったのに、能面のように表情をなくして、祖父は膝を曲げて真っ直ぐ拓海のことを見つめる。

「これから話すのは、決して誰にも言っちゃいけないこと」

 幻思。

 森山家にはそういう物に籠った思いを見ることのできる人間が生まれるという。少なくとも、祖父は有していた。だからこそ、拓海の家族には理解できないことだって共感できるし、これまでの人生で得た教訓も伝えられる。

『幻思』という言葉、祖父も自身の祖父から言い伝えられていたもの。

「約束、できるね?」

「うーん……」

 幻視に関していろいろ説明を受けても、拓海はすぐには理解できなかった。『幻思』というものが特別であること、それは友達にも家族にも見えていなくて、拓海にしか見えていないもの。

 そういった特別な力を持っていることは凄いことだと思うけど……けど、やはり理解には乏しく、それがどういったものか理解できないまま『幻思があることを誰にも言わないように』と口止めされても、どうすればいいのか分からない。

 ただ、その時の拓海は、これまで見たことのない祖父の真剣な表情に気圧けおされるように、小さく頷いた。

「約束、するぅ」

 念押しするように何度も何度も首肯。相手に返事するというより、自身に刻み込むようにして。

(これは、誰にも、言っちゃ、いけない、こと)

 理解からは程遠いものだが、置かれている現状に少し不気味な感じ。そんな気はないけれど、どこかいけないことをしているような気がして……当時の拓海には、祖父の姿がぼやけて見えたことをよく覚えている。


       ※


 小学二年生のとき……祖父とした約束の意味、その断片に触れる出来事があった。

 春。

 日曜日。夕食前の台所、帰ってきた父親の背広に触れた瞬間、見たことのない女性の姿が入り込んできた。茶色の髪はふわふわっとして丸まっており、目の上が青色で、頬が赤くて、とってもとっても華やかな女性。父親もその女性も、とても楽しそうで、とても仲がよさそうで……だから、問いかける。

 これから先、発言の影響がどう出るかなんて、これっぽっちも考えることなく。

「ねぇねぇ、お父さん、『かずみちゃん』って誰ぇ?」

 瞬間、笑顔だった父親の表情が強張る。けれど、その変化、拓海にはどういったものか分からない。

「楽しそうだよね、お父さんたち。いつも仲よしさんでぇ」

 ここから先、どうなったかは拓海に分からない。ただ、これから夕食を食べる予定だったのに、なぜだか食べられなくなった……拓海の前、テーブルを挟んで父親と母親が声を荒げて言い合うこととなる。二人とも見たことのない形相で、髪の毛を振り乱し、激しく罵り合って。投げつけた茶碗が割れた。

 拓海は五つ上の兄と二階の部屋に避難。突如として訪れた両親の豹変に、もはや扉を開けることも怖かった。部屋の隅で膝を抱えて小さくなり、嵐が過ぎるのを待つのみ。

 いつの間にか拓海は眠ってしまい……次の日から母親が家からいなくなった。それから一週間、外食をしたり兄が買ってきたコンビニの弁当だったりで、それはそれで珍しいから新鮮な毎日だったが……家に母親がいない日々は、とても寂しいものだった。暮らしている家から明るさがなくなり、まるで他人の家みたいに居心地が悪くなって。

 記憶はそこで途切れているが……いつの間にか、また母親と一緒に暮らせるようになっていたが。

 母親が家にいてくれること、とても嬉しかった。


 母親が家に戻ってきて、ほっと一安心……そんな矢先、学校で事件が起きた。拓海が席を置く二年三組のクラスメート、伊藤の筆箱がなくなったのである。伊藤は女子児童で、体育の授業から戻ってきて着替え、次の授業の準備をしようとして筆箱がないことに気がついたという。

 泣きじゃくる伊藤の姿に、クラス全員でなくなった筆箱を探すことに。

 ロッカーや廊下、下駄箱の方など、みんなで探していき、でも、なかなか見つからなくて……最終的に筆箱を見つけたのは拓海だった。教室後方にあるごみ箱から筆箱を見つけたのである。見つけたヒントとして、なんとなくごみ箱に触れた瞬間、いやな感じがしたから。誰もごみ箱なんて探そうとしなかったから、中を何枚かのプリントが入っているところを探って見つけたのだった。

 筆箱は赤色のもの。取り出そうとした触れた瞬間、クラスメートの男子児童、ふるが意地悪をしてわざとごみ箱に捨てたことが分かった。ごみ箱に触れた瞬間のいやな感じは、筆箱を隠そうとした古次の悪意だったのだろう。伊藤は口うるさく、どうやら体育の授業前にああだこうだと言われたことに腹を立て、実行に移したみたいである。筆箱から古次の伊藤に対する憎々しい思いが伝わってきたから。

「古次、こんなことしちゃいけないよ」

 それは幻思による犯人当てであり、拓海にとっては確信があって本人に告げたのだが……展開はおかしなものに変貌する。

「ちゃんと謝りなよ」

「はあぁ!?」

 古次の表情が歪んだ。

「馬鹿言ってんじゃねーよぉ! オレがやったって証拠あんのかよぉ!? だいたい、お前が見つけたんだから、ほんとはお前が隠したんじゃねーのかぁ!? ごみ箱なんて、普通探さねーだろ。なのに見つけたんだから、やっぱりお前が隠したんだろぉ!?」

「ち、違うよ」

 違う。隠した本人だから見つけられたわけでなく、けれど、幻思のことを秘密だから言えない。

「違う、から……」

「じゃあ、どうしてそこにあるって分かったんだよぉ?」

「それは……」

 問いに、教室中の視線が集まるも……説明なんてできるはずがない。幻思をヒントにしただなんて。

「…………」

「そらみろ! 黙ってるってことは、お前が犯人だってことなんだよ。謝るんだったら、お前だろうがぁ! 他人に罪押しつけてんじゃねーよ」

「…………」

「もし違うってなら、オレがやったって証拠出せよ! ほらぁ!」

「それ、は……」

 言い淀む拓海。

 客観的に状況を整理すると……誰も見つけられなかった筆箱を見つけたのが拓海。それも誰も目をつけようとすらしなかったごみ箱から。

 みんなの視線が集まっていることに、ぐっと奥歯を噛みしめていく。

「…………」

 何も言えず、どうすることもできずに……拓海がそうしてまごまごしている間に、古次は大きな声でクラス中を誘導していった。

 犯人が拓海であるように。

(違うのに。隠したのは古次なのに……)

 見兼ねた担任の声に犯人探しは中断されたが……クラスメートの認識として、犯人は拓海ということになった。

 やり切れない思い、ただただ歯痒く、胸が苦しかったこと、拓海はじっと拳を握りしめることとなる。

 自分が幻思という能力を持っていたばかりに。


 そうした小学校二年生の出来事により、脳裏には祖父との約束が蘇る。

『幻思について、誰にも言ってはいけない』

 拓海のせいで両親が喧嘩をして、拓海は関係ないのに筆箱を隠した犯人にされてしまった。そんなの、誰も喜びはせず、ただただ自分が傷つくだけ。

 それ以来、拓海は心に蓋をする。もう辛い目はたくさん。幻思のせいで周りがおかしくなるなんて、そんなの拓海の望むことでないから。


       ※


 中学二年生。

 人生を八十年とすると、中学生はまだまだ子供だが、しかし、この頃になると、体も心も成長し、『幼さ』という言葉が消えた。幻思についてある程度ならコントロールできるようになっていたのである。

 小さい頃は一方的に物に込められた思いを吸い寄せるだけだったが、今は違う。心の内側にスイッチがあり、OFFの状態なら、思いが流れてくることを止められるようになっていた。正確にはスイッチというよりボリュームで、意識を弱めていれば、感情が入ってくることを防ぐことができるようになったのである。ただし、体調が悪かったり、込められた思いが余程強いものは、どうしても食い止めることはできなかったが。

 とはいえ、そうそう大きな感情にぶつかることはないし、体調が悪い日は家でおとなしくしていればいいだけのこと。心のボリュームを絞ることで、幻思という拓海しか得られない感覚によって生ずる多くのトラブルを未然に回避できている。

 ただ、客観的に現状の自分を観測すると……それは多くのものに『無関心』を装うものだったかもしれない。どこにも触れようとしないで。

 しかししかし、中学生といえば感受性の豊かな年代であり、多感であって、精神的にも不安定な年頃。

 それは抑え込もうとしてもどうすることもできず、これまで伝わってくる思いの強さによって痛い目に遭ってきた拓海でも例外ではなかった。


 この年、これまでの人生で考えられないぐらい、世界が輝いていた。初めて『彼女』というものができたのである。周囲にある全部が光に満ちていて、存在そのものが『有頂天』だったかもしれない。毎日がハッピーで、浮き足立って、気がつくとつい笑みが浮かんでしまう……そうなれたのは、ずっと抑え込もうとしていた幻思のおかげだった。

 隣の席に座った女子、授業中に落とした消しゴムを拾ってあげたとき、相手からの感情が流れ込んできた。

『好き』

 流れてきた桃色の思いに、瞬間、コントロールしていた感情が崩壊していく。同時に、隣の彼女について強い関心が生まれ、必然的に、普段は弱めている幻思のボリュームを上げる日々。

 拓海自ら、禁じていた幻思の能力を開放したのだ。相手への強い関心を得て。

 相手から伝わった思い、拓海は覚えていないが……以前荷物を持って教室に入ろうとして、けれど、扉が閉まっていて困っていたことがあったらしく、たまたま通りかかった拓海が開けてあげたことがきっかけらしい……ただそれだけのことで、相手から意識されたことを知った。

 当時の拓海はサッカー部で、けど、うまくもないしユニホームがもらえないから試合に出られないし足だって遅いし冴えないし成績だってよくないし……そんなぱっとしない自分を好きな女子なんていないと思っていたのに、すぐ隣にいたなんて……その事実、拓海という存在を狂わせ、歩いているだけでも地面がふわふわっする感じがした。

 勇気を持つ。そして、告白する。誰にもない幻思という能力に背中を押され、百パーセントうまくいく告白であると分かっていたからこその勇気で……とんとん拍子で付き合うことになった。

 彼女ができて、一か月が過ぎ、二か月が過ぎ……彼女と一緒に下校するだけでも大きなイベントで、日曜日にデートで映画にいったり、公園にいったり……初めてのことなので、いつどこでどうしたらいいのか分からないが、とにかく二人でいることが楽しかった。

 生きているだけで、幸せだった。

 けれど、三か月が過ぎた頃……突如として雲行きが怪しくなる。

 彼女から揺れる思いが伝わってきた。彼女は吹奏楽部で、音楽室で部活動をしているとき、窓からグラウンドをよく見ていた。拓海のサッカー部は練習しているも、拓海は補欠にすら選ばれておらず、試合形式の練習ではグラウンドの周りでボール拾いや声出しばかり。最初は彼女も微笑ましく見てくれたみたいだが……補欠にすら選ばれない拓海に対し、グラウンドには運動神経のいい男子がたくさんいる。自然と彼女の視線は拓海から離れていって……とうとう他男子に気持ちが移ってしまう。本人は隠しているようだが、拓海にはそれが手に取るように分かるだけに、歯痒い。

 そして……秋の体育祭。学校中がグラウンドの競技に熱中しているとき、テニスコートのある中庭に二人となるシチュエーションが生まれた。

 彼女はずっと黙ったままだが、明らかに別れを告げようとしていた。拓海は懸命に説得しようと相手を見つめ、力いっぱい手をつなぐも……触れた彼女のジャージから、すでに心は拓海になく、他男子生徒に向いていることを突きつけられてしまう。

 愕然とするしかない。入り込んできた思いに打ちのめされて……拓海には、どうにもできなかった。

 相手はただ俯き、ただただ別れを言いにくそうにしていたので、拓海の方から別れを告げることにした。それでお終い。

 もし、幻思さえなければ、相手の本心さえ分からなければ、まだまだ諦めることなく付き合いつづける気持ちがあったかもしれないが……結局、幻思によって相手の好意を知り、幻思によって相手が離れていくのをどうすることもできなかった。

 後悔した、幻思によって付き合った日々を。


 その秋、拓海に幻思のことを教えてくれた祖父が他界した。

 瞬間、拓海の心は閉ざされていく。もうこの世界に自分の理解者は皆無となり、この苦々しさに重苦しさを誰とも共有することができず……もしかしたら、二度と人前で笑うことはできないかもしれない。それぐらい、心は荒んでいった。


       ※


 高校、大学は、誰にも深入りするようなことはしてこなかった。ただ学校にいき、ただ授業を受けて、ただ部活動をして、ただ気持ちを揺らすことなく毎日を過ごす。テレビドラマのようにきらめく時間なんて拓海には存在せず、友人を作っても相手の本心に触れたとき、一気に気持ちが冷めてしまう。そんなの、知りたくもないのに。そういったことを回避するため、ただただ社交辞令な日々を過ごしていく。

 誰とも関わらないようにしながらも……しかし、生活はしなければならない。燕の子供が巣から飛び立つように、親に育ててもらう期間は終わり、これから自立する必要がある。それにはどうしたところでお金が必要。なら、就職して仕事をしなければならない。

 就職……拓海には大問題である。

 人間関係には辟易しているので、なるべく人と関わり合いの少ない仕事がいい。けれど、就職となると定年の六十歳までその職場にいなければならないだろう。きっと多くの人と同じ時間を過ごすことになる。それだけ長い時間を過ごせば関係性も深くなり、ふとした拍子に受ける裏切りや嫌悪は、もううんざりだった。なるべく関係性の薄い仕事を考えていって……教員に決めた。

 通ったことがないので私立は知らないが、公立の高校教員なら長くても十年ぐらいしか同じ職場におらず、転任となる。それが毎年行われているなら、同僚とそんなに親密になることはないだろう。それに、職員室より各教科の準備室にいれば多くの人と関わる必要もなくなる。あと、『お客さん』となる高校生は担任をしていても一年で変わるし、長くたって卒業まで三年がリミット。なら、関係だって希薄でいられるだろう。

 そもそも、生徒にとって教員は、余程インパクトがあるか声が大きいか怖いか目立つか、といった個性があれば記憶に残るだろうが、だいたいの先生は忘れていく。事実、拓海が振り返ってみても、二、三人ぐらいしか思い出せない。つまり、互いの関係はそれほど薄いのである。

 これしかない。


 そして拓海は教員免許が取得できる大学に進学し、就職を決めた。

 赴任した愛名市立天谷高等学校に席を置くこととなる。

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