神様のいじわる

@miumiumiumiu

第1話


 ただただ思いが先走る


       ※


 四月十八日、月曜日。

「いただきます」

「いや……ちょっと待て」

 突如として飛び込んできた情報に対して反射的に出た言葉が、『ちょっと待て』だった。考える前に発したものである。

「どうしてそうなる?」

 疑問を疑問として口に出す。そうすることで、目の前の女子生徒と関わりを持つことを頭の片隅に得ながらも、口から出てしまったものは仕方がない。

 少女と向き合うことになった。

 その行為が、今年一年を大きく変える契機となることも知らずに。


 森山もりやまたく、三十一歳。耳にかかる髪、顔には四角い黒縁眼鏡をかけている。青色のワイシャツはノーネクタイで、下は黒のスラックス。身長百七十センチメートルで痩せ型。特に運動神経がいいわけでもなく、収入だって多いわけでない、平凡を絵に描いたような高校教員。担当は物理、場合によっては地学も教える。現在、あい市立天谷あまたに高等学校に勤めていた。

 昼休み。拓海は通勤時にコンビニで買ったおにぎりを持って北校舎一階にある図書室に入っていく。なぜこの場所かというと……二十三歳のときに赴任した際、『図書委員』と『文芸部』の顧問が空席だったというだけの理由で引き受けることとなったから。『理系の拓海がそんな務めをやるのはせいぜい一年ぐらいなんだろうな』と安易に考えていたが、なんと今年で九年目。『仮』のつもりで引き受けたのに、『仮』がいつの間にかなくなり、時間は刹那的に過ぎていった。振り返ってみれば、瞬く間に二十代が過ぎ去っていたことになる。『年々、一年の日数が減っているのでは?』なんて本気に考えるほどに。『結婚』といった何か大きなイベントが拓海にあったわけでもないのに。

 といった理由で国語教員でもないのに図書館の管理をすることとなり、拓海にとって図書室で過ごす時間はそこそこ長い。授業以外はほとんどここにいるといっても過言でない。なんといっても、図書室という多くの知識で埋め尽くされた場所なのに、教員も生徒もほとんど訪れることのないところが最大の魅力であった。だからこそ、昼休みは図書室に隣接する『資料室』という名の『森山拓海休憩室』に入っていこうとしたのだが……途中で目に飛び込んできた光景に目が丸くなる。

「いや、それはまずいだろ」

 図書室は各教室の三倍ぐらいある広い空間で、見渡し手みると木目調の六段ある本棚が並んでおり、南側の窓側には自由席が並んでいる。そんな自由席の一つ、窓から入ってくる光に照らされる席に、一人の女子生徒が座っていた。背中まである長い髪の毛で、白々の肌、おとなしそうな印象である。着ている紺色のブレザーに同色のスカートは、この愛名市立天谷高等学校の生徒であることは間違いないが……その女子生徒の横を通り抜け、資料室に向かおうとして、そこから聞こえてきた『いただきます』という言葉、鼻孔を刺激する白米の匂い。釣られるように目を向けた席の上には、広げられた花柄のナプキンの上に、楕円のかわいらしい弁当箱が置かれていた。

「まずいよ。ここ、飲食禁止だから」

「うー……」

「ほら、あそこにも貼り紙があるし」

「うー……」

 女子生徒は、手を合わせた際に握っていたピンク色の箸はそのままに、納得いかない状況下に身を置いていることを示すかのごとく唇を尖らせている。抗議しているみたいに決して横にいる拓海と目は合わそうとせず、ナプキンの上の弁当箱から目を離すことがない。その目には、白米と唐揚げとウインナーと下に敷かれた菜っ葉と銀紙で囲われたポテトサラダとこれまた銀紙で囲われたりんごが映っていた。

「駄目、ですか……」

「駄目ですね」

「うー……」

「教室いったら?」

「…………」

「粘ったって駄目だよ。ルールはルールだから」

「…………」

「もはや『うー……』すら出なくなったな……」

 拓海が見つめる女子生徒は、半分ぐらい瞼が下りた覇気のない表情で、ただただ弁当箱を目にしている。スリッパは青色なので、入学したばかりの一年生ということになる。推察するに、高校という新しい環境に、見たことのないクラスメート、そして当人があまり積極的に行動するような活発な少女でないことが雰囲気から分かる以上、昼休みという賑やかな教室には居づらいのだろう。

 そんな姿を見ていて、

「あー、まー、大変なことはあるわな……」

 ふと最近よく耳にする『便所飯』という言葉が拓海の頭に過った。教室に一緒に食事ができる相手がいないことを引け目に感じ、そんな姿を誰にも見られたくなくて、トイレの個室で弁当を食べるのだとか。それは学校だけでなく、会社でも同じ現象が起きていているらしい。なんでも当人たちは一人で食べている姿を見られることに一種の恐怖すら覚えるのだとか。中高と賑やかな教室で淡々と一人で弁当を食べていた拓海からは到底信じられない話だが、現代人にはそういったコミュニケーションの障害というか葛藤があるのだろう。

 ただ、人との接触を極力避けていた拓海は拓海で、それまた特殊なのだろうけど。人を避けること、それは今も変わりはしないが。

 だというのに、不覚にもこうして関わってしまった以上、さらには立場も教員ということもあり、何かはしてあげるべきと考える。できるなら関わり合いたくないが、こうなってしまっては仕方がない。

「そんな大したアドバイスはできないけど、これはお前が乗り越えるべき問題だ。逃げずに頑張るのが一番だと思うぞ」

「…………」

「最初の一歩さえクリアーすれば、なんとかなるはずだから。きっと。多分だけど」

「…………」

「ファイト」

「…………」

「まあ、とにかくだ……図書室で弁当はまずいわな」

 そう告げると、女子生徒は小さく肩を落として、鈍い動作で広げていたナプキンで弁当箱を包みはじめた。ゆっくりと、無念そうに。

 そんな姿があまりに寂しそうで、儚くて、弱々しくて……別に悪いことをしたわけでもないのに、なんだか拓海がひどい仕打ちをしている気分になった結果……拓海は慌てて女子生徒が片づけようとしていた手を止めた。

 と、その際、畳まれようとしていたナプキンに触れる。

『今日も元気に頑張ってらっしゃい』

 母親らしき人物が娘に対する愛情いっぱいに花柄のナプキンを包んでいる光景が心のスクリーンに映し出された。きっと今朝のことだろう。

 鼻から息を出す。細く、長く。

(まあ、弁当に罪はないか)

 朝早く起きて弁当を作った母親の愛情も罪はない。

 だからといって、立場上このまま見逃すわけにもいかない。仮に拓海が見なかったことにしても、図書委員が黙っていないだろう。

 逡巡して……妥協案は一つしかなかった。

「よかったらさ、奥で一緒に食べるか? お茶ぐらいなら出せるぞ」

「っ!?」

 ぱっと顔を上げた女子生徒。あろうことか、目には光るものが浮かんでいる。

「いいん、ですか?」

「まあ……まあな」

 顔を上げて初めて目が合ったと思ったら、相手が涙を浮かべていた。それはきっと、いいことをしたのだろう。そうに違いない。でないと困る。

 なんとなく、表情が引き攣る思いがした。


 図書室に隣接する資料室には資料が保管されている。というのは方便で、図書室に置けない本を詰め込んでいる場所が、資料室。目測からすると十畳ほどのスペースがあるが、六段あるスチール棚が、部屋を取り囲むように置かれている。北側の扉にも面して三台置かれているため、そちらからの出入りは物理的に不可能であった。

 棚に囲まれた狭い中央部には申し訳程度に木製のテーブルが置かれていて、横には拓海が持ち込んだ小型な電気ポットがある。水道はないので、廊下の手洗い場からペットボトルで運んでこなければならない。掃除は細目にしているが、それはあくまで自分が生活するテーブル周辺だけであり、本棚には埃が大量に積もっていた。主はこれといって気にしていないが。

「そっか、お前も大変なんだなー」

 図書室からこの資料に移動し、女子生徒と向き合って一緒に食事をすることで、分かったことがある。

 女子生徒の名前はかわよう。文系の三年A組の生徒なので、拓海が授業を受け持つことはない。と、ここで驚きなのだが、なんと河井は一年生でなく三年生であったという事実。スリッパの色が今年度の一年生を示す青色なのは、どうも留年をして二回目の三年生なのだとか。そう言われると、先月まで中学生をやっていたようなあどけなさは感じられず、学校の雰囲気にも慣れた感じで、『ああ、来年は二十歳なんだな』と思わなくもない。

 河井が留年した理由は、勉強が駄目で単位が取れなかったというわけでなく、もちろんやんちゃな生徒で停学等を繰り返したわけでもない。小さい頃から病気がちで、昨年は出席日数が足りなかったことが理由だという。そんなようなことを去年の職員会議で聞いた気もするが……直接関わり合いがないことだったので、覚えていなかった。これまでずっと授業も受け持ったことがなかったし。

「半年も休んでたんじゃ、そりゃな」

「そうなんですぅ」

 半分閉じられた瞼のまま、箸で玉子焼きを挟んで口にする前に、河井は小さく息を吐いた。いかにも気怠そうに。

「春休みにようやく調子がよくなって、久し振りに登校してみれば……右を見ても左を見ても、もうそこにいる誰も彼もが知らない人ばかりです。クラスメートはみんな一つ下の人で、当然知ってる人はいません。隣のクラスも、そのまた隣のクラスも。ここ、わたしが通っていた学校じゃないんです」

「まさに浦島太郎状態だな」

「はい?」

 目をぱちくりっ。

「それはどういうことですか? わたし、太郎じゃありません。洋子です。森山先生の授業は受けたことないから名前は知らないかもしれないですけど……って、さっき名乗りましたよ。名前を間違えるの、失礼です。ましてや『太郎』だなんて男の子の名前じゃないですか」

「…………」

 拓海の口から『そういう意味じゃないんだけどな』と出かかったが、高校三年生相手にいちいち説明する内容とは思えなかったので、逡巡している間にこの件の補足も謝罪も、タイミングを逸していた。

「……部活は入ってなかったのか?」

「そうなんです、病弱ですから……だから知っている後輩っていう人もいないです。本当にわたし独りぼっちなんです。ずっとずっと、独りぼっちなんです……」

「そうか……」

 なんとも話題に困ってしまい、湯飲みの緑茶を啜る拓海。河井にも紙コップで緑茶を淹れているが、まだ口にしていない。

「…………」

 河井を前に、次に投げかけるべき言葉が思いつかず、拓海はおにぎりを齧る。シーチキンマヨネーズと梅を買っており、今は梅。酸っぱさと甘いが口に広がって、あっという間に口の中に消えた。またお茶を啜る。

 見てみると、河井の楕円側の弁当箱は色とりどりで、とてもおいしそう。

「弁当、うまいか? そりゃ、やっぱりうまいんだろうな。なんたって、お前のお母さんが丹精込めて作ってくれてるもんな」

「はい。お母さんは料理上手ですから、とってもとってもおいしいです。毎日楽しみで仕方ありません……あれ、でも、先生はどうしてお母さんが作ってるって知ってるんですか?」

「えっ……? そ、そりゃ、どこの家もだいたいそんなもんだろ?」

 回答としてそんな曖昧なものになる。断じて『さっきナプキンを触れたとき、そんなイメージが伝わってきたから』とは口に出せず。

「それに、お前が早起きして弁当作ってる姿なんて、これっぽっちも想像できないしな」

「うー……」

「ああ、別に今のは責めるわけじゃないからな。高校生なんてそんなもんだろ? おいおい、しゅんとするなよ」

「お茶、いただきますね」

「お代わりもあるぞ。なんなら、浴びるぐらい飲んでも構わないからな」

「……するわけないじゃないですか。どうしてお茶で頭洗わなきゃいけないんですか? 意味不明です」

「野球で優勝とか」

「野球なんてやったことないです」

「だろうね……」

 両手で紙コップを持ち、ゆっくりと口にする一切冗談の通じない河井を前に、拓海は窓の外に目を移した。

 ここから見える中庭には自転車通学の自転車がたくさん並べられており、向こう側にあるバスケットゴールには、早くも昼食を済ましたのか、学らん姿の男子生徒がボールを弄っていた。元気である。

「友達、できるといいな」

「ですねー」

「勇気を持って、一歩を踏み出してみろ」

「ですねー」

「おう」

 壁越しに隣から話し声が聞こえてきた。図書室の利用は昼休みと放課後のみ決まっており、当番の図書委員と利用者がやって来たのだろう。ああしてみんな、昼食を済ませてやって来るのである。そう、断じて図書室は昼食を取る場所ではないのだ。

 さて、図書室の利用者が現れた。だからといって、拓海にすることはない。毎日カウンターは図書委員にお任せだから。いつもであれば五時間目前の予鈴が鳴るまでここで一人の時間を過ごすのみ。

 今日は一人でないが。

「明日は、教室で弁当食べられるといいな」

 ぽろっと口から零れていた。相手がまた『うー……』と唇を尖らせることをなんとなく察しながらも。

 一秒後、相手の反応は案の定だった。


 翌日。

 昼休みとなり、拓海がコンビニのサンドイッチを持って図書室に隣接する資料室に訪れると、

「あっ、先生、お疲れさまです。お茶は淹れておきましたからね」

 さも当然のごとく、弁当に箸をつけている河井の姿があるのだった。

 拓海の内側に渋い感覚が広がっていく。


       ※


 四月二十五日、月曜日。

 野良猫に餌をやると、あっという間に懐かれて、毎日餌をもらいにくるのだとか。少なくとも、拓海の実家では最近そんなことが起きているらしい。ちっとも猫に興味のなかった両親が、気紛れで朝食の鮭の骨をやったところ、毎日通うようになったという。

 母親談では、それがまたかわいいらしい。猫は庭に糞をしていくので嫌っていたのに、変われば変わるものである。

「馴染んでるな、お前」

 昼休み。拓海の場合、餌というかお茶と場所を一度提供しただけだが、あっという間に一人の女子生徒に懐かれてしまい、毎日昼食をともにすることとなった。野良猫と同じようなものだろうか? そんなこと、間違っても相手に伝えることはできないが。

「お前さ、部活やってないって言ってたよな。だったら、入ってみないか」

「うー……」

「ああ、体がよくないんだろ。体使うような部活じゃないから安心しろ」

 拓海は赴任したときから文芸部の顧問をしている。やっている内容は年五回発行予定の部誌を作ることだが、実態としてはとても怪しいものがあり、去年は文化祭に配布する部誌のみの発行に終わった。きっと日々の部活動は、執筆活動をそっち退けで漫画でも読んでいるのだろう。自由気ままである。

 活動は北校舎二階の書道室を利用しており、活動すべてを部員に任せているので、拓海に詳細は分からないが、分からなくても問題ないので大丈夫。仮にあったとしても、あったときに対応すればいいだけのこと。

 そういう距離感というかスタンスがちょうどいい。

「高校生活といえば、醍醐味は部活動だろ? 野球でいったら甲子園目指そうぜ! ってなもんだ。どうだ? みんな気さくなやつらばかりだし……」

 文芸部に問題児もいなければ威張るやつもいない。いい言い方をすれば穏やかな部だし、そうでない言い方をするなら主張がなく、運動部や軽音部といった華のない、クラスのおとなしいやつが集まった部活である。もちろん部内では多少個性が出るものの、他生徒と比べればほぼ皆無。

「よかったら紹介してやるぞ、なんたって顧問だし。ああ、でも、体がしんどいなら、別だけど」

「先生は、どうしたらいいと思いますか? 部活入っても、わたし、すぐ休んじゃうし、みんなに迷惑かけるでしょうから……」

「そうだなー……よし、じゃあ、今から言うことを考えてみてほしい」

 悩める少女に問いかけたい一言。

「こうして埃っぽくて湿っぽいこの場所で僕と一緒に弁当食べてる方がいいか? 友達作ってそいつらと楽しく笑顔いっぱいに弁当食べてる方がいいか?」

「うー……」

 口を尖らせ、河井はプチトマトのへたを取る。その後は視線をあっちにやったりこっちにやったり、箸を握ったまま動かすことなくすっかり考え込んでいく。自分がどう返事すべきか、どう行動すべきか、そしてその行動のメリットとデメリットを懸命に検討して。

 そうこう逡巡していった河井は……弁当の時間に約五分間の長考の末、小さく頭を下げていた。

「……よろしくお願いします」

「賢明だ」

 拓海は満足そうに頷いた。その頭では『これで一人の昼休みを取り戻せるかもしれない』なんてことを考えながら。道を外れた一人の少女を立ち直らせる、というのはオーバーな表現かもしれないが、せっかくの高校生活、楽しい方がいいに決まっている。

 果たして文芸部が楽しいかどうか、そんな一切保証できないが。好きは、人それぞれだから。


 放課後。

 拓海は図書室で待ち合わせた三年A組の河井洋子を連れて、北校舎二階の書道室に向かった。河井は相変わらず半分瞼の閉じられた覇気がないというか、夢も希望もないような感情の薄い表情をしていたが、それでも部員の前では頑張って自己紹介をし、仮入部という形で文芸部に体験入部する運びとなる。二名ながらまだ新一年生が入ったばかりとあり、文芸部はまだ落ち着きがない分、もしかしたら河井も馴染むのが早いかもしれない。この学校にいる生徒の誰よりも年上である河井なら、もしかしたら隠されたリーダーシップぐらい発揮して、より部を活性化する……なんてことは高望みだが、竜宮城から帰った別世界にも一人ぐらい友達ができるべきだろう。切に願うばかり。

 文芸部の活動について、顧問の拓海は何もしないので、河井を残してそそくさと書道室を後に……廊下に出た瞬間、首を小さく傾けることになった。

「……どうかしましたか、青海おうみ先生?」

 書道室は二階の一番東側にあり、正面には教室五個分はある大きな職員室がある。その廊下に、こちらを興味津々といった表情を浮かべる人物がいた。

 別に見られて困ることはしていないが、なぜだか視線を逸らしてしまう。

「にやにやして、いいことでもありましたか?」

「いやー、森山先生もやっぱり生徒を愛する先生なんだなー、なんて思っちゃったりしちゃいまして。うんうん」

 青海おうみしょうろう、二十九歳、体育教師。百七十センチメートルの拓海よりやや背が低く、しかし、横幅は広くてがっちりした、ハムスターのように小回りがききそうな体型をしている。そして短髪で眉毛が立派なのが特徴的。体育教師としての暗黙のルールでもあるのか、今日も今日とて青ジャージに身を包んでいた。

「いやいや、森山先生がまさかまさか河井の面倒を見てくれるなんてね。文系クラスなのに」

「ああ、そういえば、A組は青海先生のクラスでしたね」

「河井は病気で留年して、クラスで浮いてましてね、『なんとかしないといけないなー』なんて思ってたんですけど、こちらも忙しさにかまけてしまいまして……いやいや、担任でもなければ授業すら受け持っていない森山先生が面倒を見てくれるとは」

 笑みが増す。

「普段は無愛想の極まりで人類を忌み嫌っていると思っていましたが、いいところもあるんですね」

「……そんな風に見てたんですか、僕のこと?」

「森山先生のこと、見直しましたよ」

「…………」

 年下の妙に歪んだ笑みを目の当たりに、拓海の額に大粒の汗が浮かんでしまう。ただ、気にしない。人との関わりを避けている節が否めないので、そう見られていたのだとしたら、そういうことなのだろう。社会人としてどうかとは思うが、本人が望んでいる結果なので仕方がない。

「彼女、病気持ちなんですってね。クラスでも気にかけてあげてください。ああ、安心してください、文芸部でも無理させるつもりはありませんから。って、まだ仮入部しただけですけどね」

「そうですね、気をつけます。にしても、やっぱり河井のことは気がかりでしたが、こうして森山先生にも協力してもらえるとなると、一安心です。もはや大船ですね。これで晴れて俺も結婚することができますよ。あっはっはっはー」

「……それ、相手から返事もらってるんでしたっけ?」

「まだです」

 きっぱり。

「というより、プロポーズもまだです」

 なぜだか胸を張る青海先生。

「言霊ですよ、言霊。こういうのは口に出すことで実現するんです。教員免許のときも大学受験も高校受験も、『俺は絶対受かるんだ!』と口にしておけば、不思議と叶うもんなんです」

「つまり、周りに言うことで、自分にプレッシャーをかけるわけですね?」

「そのプレッシャーに打ち勝つことが大事ですけどね」

「そ、そうなんですか……」

「週末からはいよいよゴールデンウイークですからね、この連休は必然的に婚前旅行となるわけですわな。あっはっはっはー」

「『婚前』になればいいですね」

「結婚前だから、どうあっても『婚前』ですよ。あっはっはっはー」

「…………」

 拓海には、この青海の熱は少し眩しく、ちょっと苦手。

「そうそう、部活あるんですよね? 早くグラウンドにいってやってください。ふじさきが今日も張り切って教室から出ていきましたよ」

 藤井崎とは、拓海が担任する三年E組の生徒のことで、野球部員。『毎日野球のことしか考えてないのでは?』といった感じで、青春のすべてが野球に向けられている。そして、青海先生は野球部顧問。野球経験もないのに。

「練習、頑張ってください」

「生徒の熱意に負けてられませんよ。今日もかっ飛ばしてきます」

「はい、いってらっしゃい……かっ飛ばす?」

 職員玄関へ下る幅の広い螺旋状態の階段をリズムよく、たんたんたんたんっと下っていくジャージ姿を見送る拓海。

 二年前。野球部のなかったこの学校に野球研究会を作ったのが、藤井崎たち現三年生と野球経験のない青海先生。藤井崎からすればとにかく誰でもいいから顧問になってほしく、青海先生としては学生時代にやっていた陸上部をやりたかったが部がなく、ただ運動部の顧問をやりたかった。そんな互いの思いが交錯してできたのが野球研究会である。昨年、部に昇格し、放課後のグラウンドで大きな声を出している。まだまだ弱小チームらしく、公式戦で一勝もしたことがないとか。『なんとか今年は勝つぞぉ!』と野球部の藤井崎が教室で張り切っているのをよく目にする。

「…………」

 青梅先生がいなくなると、放課後の静かさに包まれることに。意識してみると、どこからともなくトランペットの演奏が響いてきた。放課後といえば部活動。みんな懸命に練習しているみたいである。

(さて、戻るか)

 一度だけ扉の閉まった書道室の方を目にして、姿は見えないがきっと河井が部に馴染んでくれるだろうと切に願いながら、職員玄関の方ではない階段を下っていく。図書室に戻るために。

(これでまた昼休みの平穏が戻ってくる。よしよし)


 そして翌日の昼休み。

 拓海がコンビニで買った総菜パンを持って北校舎一階の図書室に隣接する資料室にいくと、

「あっ、森山先生、お先にいただいてます。お茶、淹れときましたよ」

 当然のように河井が弁当を食べていた。しかも、この資料室に存在しなかった自分のマグカップを持参して。かわいいペンギンがイラストされている。

 拓海の頬が痙攣しては、表情が引き攣った。


       ※


 五月三日、火曜日。

 世間一般でいうなら、ゴールデンウイーク後半がスタートしたことになる。高校に勤める教員としては、学校の授業は休みだが、部活動の顧問となると練習や試合のために休みを返上しなければならなくなるケースが多い。しかし、試合なんてものはなく、休みの日まで活動するなんて熱意とは無念の文芸部は、当然休み。拓海にとって今日は世間一般通りゴールデンウイーク後半開始であった。今日から木曜日までの三連休。どうせなら六日の金曜日も休みにすればいいものを、公立の高校ではそういう融通がきかないのである。

 三連休だが、拓海はどこかに遊びにいくどころか何の予定もなかった。遊ぶような友人は皆無で、だからといって教員宿舎で三日間過ごすのも非常に退屈。すでに先週の金曜日からの三連休はずっと宿舎で過ごしており、やることといえばテレビを観るか読書をするぐらい。外に出るのもゴミ出しとスーパーへの買い出しぐらいで、多くの娯楽を生み出した人類として考えられないほど無気力な時間を過ごしていた。だからこそ、連休後半も同じ時間を過ごすのはご免である。

 というわけで本日は、愛名市から電車で一時間半の場所にあるかわ郡にやって来た。目的は、帰省である。

 美河郡は、太平洋に面していて、かつ、反対側はすぐ緑溢れる山。途中には田畑がいくつも見られるが、最近は使用されていない田んぼも多く見られた。住民の高齢化と過疎化が進んでいるのだろう。そういったことが問題視されて結構時間が経つが、解決どころか悪化の一途を辿っているように思える。

 拓海だって、離れていった方だし。


「お父さん、お昼食べたらすぐ畑いっちゃったのよ。病人なんだから、少しは安静にしてくれればいいのにねー」

 木造二階建ての住居、ちゃぶ台の置かれた居間で湯飲みを出す初老の女性は、森山咲さき。六十三歳。肩まで伸びた髪はかなり細く、根元だけ白くなった茶色をしている。大きなポケットのあるエプロン、顔には茶色い縁の眼鏡をかけ、大きな瞳の目尻に皺を増やして呆れたような笑顔を浮かべた。

「あの人、本当にじっとしていられない人なんだから」

 母親は大きく息を吐く。

 拓海の父親、森山海かいは今年六十六歳。六年前まで某一流企業に勤めていたが六十歳で定年となり、延長することなく退職した。同時期に胃癌が見つかり、胃の三分の二を摘出することとなる。そのせいもあり、七十五キログラムあった体重が、今では五十キログラムを切っていた。頬はこけ、がりがりである。

 十八歳で家を出た拓海の記憶では、父親は多趣味で、よく仲間と一緒に遊びにいっていた。バイクだったりギターだったり釣りだったりスキーだったり……とにかく趣味の幅が広く、休暇を取っては出かけていったものである。家族サービスなんて二の次で。仲間も多く、いろんな人が家に遊びにきたり、父親を連れ出しにきた。

 それが定年後の手術を契機に、極端に減ったのである。代わりに、近くの土地を借りて畑をはじめた。今までそんなの見向きもしなかったのに、気がつくと農具を購入し、素人ながらも図書館で調べたり近くの畑仲間に話を聞いて、太陽の下で土を耕しているのである。最初は小さな実しか生らなかったようだが、去年ぐらいからそこそこ実るようになり、食事に自家製の野菜が並ぶようになったのだとか。

「最近暑いから、畑で倒れなきゃいいけど。お茶は渡したんだけどね、あんまり飲んでくれないのよね、あの人。ああ、飲まないってより、お茶のことを忘れちゃってるっていうのか」

「五月だけど、こんなに暑いからねー」

 窓にかけられた白いカーテン越しに、青い空が見える。最高気温は三十度を超えたとか。午後四時でも汗がじっとりするほど暑い。室内だからシャツを一枚脱いでTシャツになっている。

「まあ、家でじっとしてるよりはいいんじゃない? 父さん、そういう人じゃないでしょ、病人かもしれないけど」

 元気なのはいいことで、外出できているのだから、きっといいことなのだろう。布団の上にいるなんて、父親らしくない。


 結局、拓海は次の日とその次の日、父親が世話している畑の草むしりを手伝うこととなった。何度も屈んだり立ったりして、腰が痛いのなんの。日頃の不摂生を実感することになる。

 実家に休みにきたのか、父親の奴隷として体を酷使しにきたのか……帰りには収穫したキャベツを持たされそうになるも、電車だし、料理もしないし、虫食ってるし、丁重にお断りした。


       ※


 五月十六日、月曜日。

 昼休み。

 図書室に隣接する資料室で、通勤時に駅前のコンビニで買ったクリームパンを齧る拓海。今日も今日とて着ているワイシャツにネクタイはつけてない。面倒ということと、ネクタイしている教員の方が少ないので、ありがたく便乗している。毎日ワイシャツなのは、これまた着る服を選ぶのが面倒だから。一部の会社のように制服があればいいのに、なんて真剣に思ってしまう。

「まあ、勉強は大変だわな。なんたって勉強だからな」

「どうして勉強しなくちゃいけないのでしょうか?」

「それは、哲学的なやつか?」

「単純な疑問です」

 五月下旬となり、随分と気温が上がってきたが、河井洋子はまだ冬服のブレザーに身を包んでいる。長い髪を小さく揺らし、首を傾けた。仕草は子供っぽいとてもかわいらしいが、本人は狙ったものでなく癖である。

「テストなんて、生徒を試すようなことしなくてもいいのに……」

「おいおい、今さらだな。もう十二年も同じことやってきたことを」

 机を挟んでさも当然のように向き合っている河井と、来週からの中間テストについて議論していた。二人の昼食風景、すっかり定番となっている。去年までは話し声のない静かな時間を一人で過ごしていたのだが。

「テストは大事だ」

「どうしてですぅ?」

「生徒は学校にきて授業を受ければそれでいいってわけじゃない。授業をしっかり理解したかどうかが肝心だから、それを確認する必要がある。つまり、授業でインプットとして、テストでアウトプットするわけさ。正常にできているならよし。一定の点数ならよし。けど、赤点になると理解していないことになるから、よしにはならない。その判断基準がテストであって、点数っていう数字であるわけだ。数字ってのは誰が見ても同じ評価ができて、嘘をつかないからな」

「先生、またおかしなことを言いますね。嘘をつく数字なんてないと思います。先生、時々変なこと言います」

「いや、今のは冗談ですらないんだけどな……」

 鼻から息を吐く。もう慣れた。

「まあ、『必ず百点を取らなきゃいけない』ってもんじゃないから楽なもんだろ? こっちとしてはそうあってもらいたいけど。あ、でも、そうなるとそうなったで『こんな簡単なテスト作るようじゃ駄目だ』なんて難癖がつくから、うーん……難しい。まあ、卒業できる程度でいいんだよ」

 赤点さえ取らなければその教科は単位がもらえて卒業できる。それだけのこと。ただし、目の前の少女は成績がいいのに留年していた。残念。

「お前らはそうやって大変なのかもしれないけど、そもそもテストってのは、受けるより作る方が大変なんだからな。簡単だったら簡単で文句言われて、難しかったら難しかったらで文句言われて……って、そんなこと言っても仕方ないけど」

「簡単なのに文句言う人、いないと思います」

「そっちサイドはそうだろうけど、こっちサイドは違うんだよ」

 これ以上は言っても仕方ないと、口に手を当てて、咳払い。こほんっ。

「まあ、頑張れよ。お前にはきっと明るい将来が待っているはずだ」

「明るいでしょうか?」

「ああ、明るいさ。あとはクラスに弁当を一緒に食べてくれる友達の一人でもできれば完璧だ」

「うー……」

「学校の前に、早くここから卒業するんだぞ」

 湯飲みを持ってお茶を啜る。クリームパンなら牛乳がよかったなと思うも、いちいち買いにいく面倒さが上回ったので、我慢した。飲んだ分、急須からお茶を補充する。湯気が出た。

「そういや、聞いたことなかったけど、進路はどうするんだ?」

 拓海もホームルームで生徒に配布した進路調査票を担任する三年E組で回収していた。野球部キャプテンのふじさきるいが『プロ野球選手』なんていう、ちっともおもしろくない回答をしていたので、放課後に再提出させた。『こんなことより、練習させてくれよぉ!』なんて涙ながらに訴えていたが、『練習いきたきゃ真面目に書け』と一刀両断。

 大変である。

「河井はどうするんだ?」

「そんな遠い未来のこと、分かりません」

「遠くない、次の四月のことだ。もう目と鼻の先だぞ」

 来年の四月なんてすでに一年切っている。まあ、相手が三年生なので当たり前の話だが。

「そんなの、あっという間だぞ」

「うーん、どうでしょう? 果たして来年の今頃は、わたし、ちゃんと卒業できているのでしょうか……」

 体調を崩して留年した今年がある。しかも、それはいつ再発するか分からない。河井の来年は、他三年とは違うものなのだろう。

「去年は短大で書きましたけど、一年後もこうしてまだ高校にいます……」

「……そうやって寂しい目をするんじゃない。じゃあ、今年も短大でいいんじゃないか。青海先生から成績がいいことは聞いてるから、四大だっていいだろうし」

「進学とか就職とか……進路や将来って、わたし、ぴんっとこないんですよね……」

 箸を口にしたまま、どこでもない虚空を見つめる河井。明後日の方角に何を見つめているのか、本人すら分からないだろう。

「……あの、先生はどうだったんですか?」

「どうっていうのは?」

「どうして先生になったんですか?」

「…………」

 口籠もる拓海。

 こうして教員をやっているのだ、それが話題になることは初めてではない。そして当然、教員になっているのだから、教員を志望した理由はある。

 あるのだが……志望動機は胸を張って言えるものでなかった。

「そ、そりゃ、お前たちのような生徒をだな、しっかりというか、清く正しく、大人へ成長させるべく、えーと……きっちり次の場所に送り出すために、だよ。大学とか専門学校とか、就職したってそれでいいし……」

「わたしたちのことじゃなくて、先生はどうしてですか? どうして先生になろうと思ったんです? 参考にさせてください」

「……なるようなもんじゃないから、教えない。ほら、さっさと食べろ。教室いって、友達作れ」

「うー……」

「時間がない。急いで急いで」

「なくないです。まだ三十分あります。早く食べたら健康によくないのですよ。ゆっくり噛んで食べないと」

「いいか、お前たちにとっての三十分はきらめく宝石やダイヤモンドと同じだ。とても貴重なもので、断じて無駄にしちゃいけない。ほら、急ぐ。急ぐんだ」

 首を傾げながらも、箸を動かした河井に、拓海は盛大な息を漏らす。

(僕のは、動機が動機だから、な……)

 拓海が教員になろうとした理由は、これまで誰にも言ったことがない。

(『人とあまり深く関わり合いたくなかったから』なんて……)

 拓海は自身の半生を振り返り……また一つ大きな息を漏らしていった。

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