冬の町

かおり

冬の町

 冬は、ひどく彼を気落ちさせる。

 凍えるような寒さ。それに耐えるために、どんどん厚くなっていく防寒具。クリスマスや新年を迎えるまでの、浮ついたようなムード。それらは彼に気苦しさと、どことない寂しさを与えるのだった。

 すっかり雪化粧した町並みが彼を迎える。数年ぶりだろうか。社会人になり、両親にも戻ってきなさいと散々に言われていたため、彼は仕方無く帰郷したのだった。

 彼は高校を卒業してすぐ、これから通うことになる大学のある町へ引っ越した。大学は勉強したい分野があるというのもあったが、この田舎町を出たいという理由が半分である。引っ越し先の街は背の高いビルが建ち並び、道は多くの人がせわしなく行き交う。夜も人通りは途絶えることが無い。それに比べ、こちらの街は静かすぎた。冬であるせいもあるだろうが、まず道端に人がいない。街外れに行けば、車さえあまり通らなかった。

 高校への通学路でもあった商店街。所々に開店休業のような店もあったが、すっかりさびれて、シャッター商店街と化していた。薄暗く、ちらほらとゴミが散乱している。活気溢れたあのころの面影も感じられなかった。大きなショッピングセンターが出来ていたから、それに押され、客足が遠のいてしまったのかもしれない。

 ベンチに座って、ぼんやりと風景を眺める。公園にも人影は無い。子どもたちは家に籠もってゲームでもしているのだろう。

 息を吐く。手を温め、擦り合わせる。白くなって、ふわりと広がった。

 町中まちなかの古本屋のそばに立ち寄った。といっても、本を購入するつもりは無い。外から店内を覗くだけのつもりだ。カウンターの奥の椅子に、こげ茶色のエプロンを身につけた女性が、背筋をぴんと伸ばして座っている。背中まで伸びた赤みがかった髪、本に印刷された文字を真剣に追う黒い瞳、ほんのりと桃色に染まる頬。あのころと同じように、熱心に本を読む。周囲などまったく気にしない、関係ないと言うみたいに。

 ちりん、ちりん。彼は無意識に、その本屋のドアを引いていた。静寂の世界に、ドアベルが柔らかく響く。彼女は無言である。気付いていないのかもしれない。

 このまま突っ立って彼女を見ているのは、なんだかおかしく見えるだろう。彼はひとまず、本棚をざっと眺めることにした。たくさんの本が詰まっている。どの本のページも、日に焼けて茶色い。彼は本とは縁遠く、もしかしたら有名なものもあるのかもしれないが、知らない著者、タイトルばかりだ。本棚の陰から、たまに彼女を盗み見る。彼女は手元から目を離さない。彼女が座る手前にあるカウンターの上には、何故倒れないのか疑問に思うくらいうずたかく積まれた本。ぺら、という、彼女がページを捲る音。

 次に彼は、本棚に並ぶ背表紙たちを目で追うことにした。どういった順序で並べられているのだろう。もしかしたら、明確な順番などは無いのかもしれない。

 彼は、はたと本棚の途中で目を留め、一冊の本を取り出した。ある日本の作家の著書だ。これは知っている。見覚えがある。

 ――中野くん、でしょう?

 あの日、机を動かし終えて席に着いた彼に、彼女はそう話しかけてきた。

 高校生になって、彼ははじめて、彼女の隣の席になった。小中学校とも同じ学校で、生徒数はそう多くなく小学校は一クラス、中学校では二クラスであったというのに、だ。

 ――そうだよ。よろしくね。それは、小説?

 何気なく彼は尋ねる。本心を言ってしまうと、これは、興味を抱いたからというよりも、ただ単に会話のきっかけとしての質問だ。

 ――ええ、そうよ。この本ね、好きでよく読むの。まず、装丁が素敵でしょう。そしてもちろん、テクストよ。瑞々しい描写で、登場人物たちの心情を浮き彫りにさせるの。物語はおもしろいというよりも、世界観に吸い込まれていく感じの楽しさかしらね。文字を、言葉を、目で追っているうちに、次第に夢中になっていくの。その感覚が、たまらない。

「すみません」

 カウンターまで、手に取った本を持って行き、彼女に声を掛ける。彼女は本から目を離し、彼を見上げた。

「はい。お買い上げですね?」

 椅子から立ち上がり、本を受け取る彼女。

「そうです」

 彼女はやはり彼に気付いていないらしい。いたって普通の、一人の客に対する店員の対応だ。彼女は彼が手渡した本を、じっくり見る。

「****円です」

 彼は、コートのポケットから財布を取り出す。

「中野くん、帰ってきたのね」

 財布の中からお金を取り出そうとする彼の手の動きが、ぴたりと止まる。目を丸くして、彼女を見た。

「気付いていたんだ」

「ええ。店の外で、こちらを見ているときから。本棚の陰からも見ていたわね」

 彼は頬を赤らめた。抜け目が無い。店の外、本棚の陰からも彼女を見ていたことすら、バレているなんて。気付いていないだろうと思って行動していた先刻の自分が恥ずかしい。

「この本……」

「うん。本棚を見ているとき、偶然に見つけたものだから。読んでみようかな、と……思って」

 彼女はくすりと笑う。

「貴方は気まぐれに聞いたんでしょうけど、よく覚えていたわね」

「はは……そっちもバレてたのか」

「別にいいの。貴方は本を読まないみたいだし、そういうものよ」

「それは、えっと……良かった」

 おどおどしながら財布を探り、お金を出しつつ、彼は答える。

「ただね……私はきちんと答えたつもりだったから、憶えていてくれて、嬉しい」

 彼女はお金を受け取り、指で数えながら、呟くように言った。

「変わらないわね」

 お釣りを渡し、本を紙袋に入れ、という作業をする合間、彼にちらりと視線を向ける彼女。

「……きみも」

 容姿の変化は多少あれど、彼女は昔と変わらないようだった。本を読む姿勢、話しぶり、細やかな気遣い。そのせいか、彼女と会話を交わしていると、高校生だったあのころを思い起こされるような、ノスタルジックな感覚を覚える。

「そうかしら? 久々に同級生たちに会うと、変わったねって、よく言われるのだけど……」

「外見については、僕もそう思うよ。前以上に……うん、すごく綺麗になったと、思う……」

 後半の声の大きさは尻すぼみになってしまったが、彼は勇気を出して言う。

「そ……それは、どうも……。お世辞だとしても、ありがとう……」

 目を逸らし、ずいと彼に紙袋を差し出す彼女。その顔は、耳までも赤く染められていた。

「お世辞なんかじゃないよ。お世辞だったら、もっと上手く言えるよ」

 紙袋を受け取りながら、彼女に言い含める。

「……そう」

 小さく咳払いをして、彼女は切り出す。

「えっと、つまり……外見については、ということは、内面は変わってないと言いたいのね」

「そのとおりだよ」

「ふーん……」

 まだ彼女は目を合わせてくれない。学生時代でも、動揺する彼女はあまり見ることが無かったので、なんだか新鮮だ。言えて良かったと、彼は密かに思う。

「それじゃあ、僕は行くよ」

 彼は、ドアのほうへ踵を返しながら言う。

「えっ、もう?」

 驚いた彼女は、カウンターの向こうからこちらへ出てきて、彼に駆け寄りながら、唐突に質問攻めをはじめた。

「えっと……貴方って、いま働いているの?」

「うん」

 彼が答えると、間もなく新たな質問が飛ぶ。

「どうして帰ってきたの? 同窓会や成人式にも来なかったわね。何年ぶりなのかしら。高校を卒業してからだから……」

「五年ぶり、かな。単に、実家から催促があったからだよ。いい加減に帰ってきて、顔を見せなさいって」

「じゃあ……どうしてこんなに長く、帰ってこなかったの?」

「……ただ、帰りたくなかったんだ」

 実家からの催促が無ければ、今年も帰ろうとはしなかっただろう。

「どうして? どうして、帰りたくなかったの?」

 彼は、ぴたりと足を止める。……どうして、帰りたくなかったのか?

「分からない」

「面倒くさかった? この町に帰るのが。辺鄙なところだものね」

「違う。ほんとうに、ただ、帰りたくなかっただけ」

 彼はふたたび、ドアに向かって歩き始める。彼女はその場に留まった。地面を見つめ、棒立ちになる。

 何故だか分からないけれど、彼は、この町には帰りたくないと思っていたらしい。彼女に直接的な質問を受け、考えてみるとそれで納得がいったのだから、これはたしかだ。

「そうなの……」

 口をへの字にして考え込んだのち、彼女は顔を上げる。その顔には、微笑みをたたえていた。

「うん、今日はありがとう。久しぶりに会えて、話せてよかったわ」

「僕もだよ」

「ありがとうございました。またのご来店、お待ちしております」

 彼女の声を背中に受けながら、古本屋から出ると同時に、高校生のころ、彼女との会話で交わされた言葉のいくつかを思い出す。

 ――この本ね、好きでよく読むの。まず、装丁が素敵でしょう。そしてもちろん、テクストよ。瑞々しい描写で、登場人物たちの心情を浮き彫りにさせるの。物語はおもしろいというよりも、世界観に吸い込まれていく感じの楽しさかしらね。文字を、言葉を、目で追っているうちに、次第に夢中になっていくの。その感覚が、たまらない。

 お気に入りの本について、嬉しそうに語る彼女。

 ――あら、中野くん。教科書忘れちゃったの? 私のを一緒に見る?

 ――そんな、悪いよ。

 ――いいのよ。気にしないで。

 授業中、机を寄せて、教科書を見せてくれる彼女。

 彼と彼女は、友達だった。隣の席に座る、親しいクラスメイトのひとりだった。

 こんなこともあった。ある日の、騒がしい教室。沸くクラスメイトたちを眺めながら、彼女は呟くように言った。

 ――**くんって、ほんとうに人気者よね。

 **は、小中学校からずっと、二人と学校が同じである男だ。いま教室が騒がしいのは、**の誕生日祝いに賑わっているからである。

 ――そうだね。

 そのとき、彼女はたしか、彼にこう頼みごとをした。

 ――ねえ、中野くん。お願いがあるんだけど……。私、**くんに、お祝いのプレゼントを渡そうと……思うのよ。でも直接渡すのは恥ずかしいから、下駄箱に入れておきたくて。中野くんって、**くんと仲が良いでしょう? **くんって隣のクラスだから、出席番号が分からないの。教えてくれない……かな?

 下駄箱は、扉を開け閉めすることで靴を入れることができる仕様だ。クラス毎に出席番号順に並び、各扉には、名前ではなく出席番号が表記してある。そのため、出席番号が分からないかぎり、どれが誰のものなのかも分からない。

 彼は、**の出席番号を彼女に教えた。忘れないようにと、数学のノートの端に、出席番号をメモする彼女。

 ――ありがとう、中野くん。

 ――あの、言いたくなかったら、言わなくても良いんだけど……もしかして、**を……

 ――……うん。実は私、中学二年生のころから、**くんを……

 頬を赤くし、彼に秘密をこぼす彼女。

 その日の放課後。彼しかいない教室に入ってきた彼女は、動揺しているようだった。学生時代、彼女がこんなに動揺する姿を彼が見たのは、いま思い出せるだけであるなら、この日だけだ。顔を真っ赤に染めている。

 ――あっ、中野くん……。

 彼女は早口で、まくし立てるように言った。

 ――どうしよう! あのね、さっき、プレゼントを下駄箱に入れるのを、彼に見られちゃって。気まずくて、どうしようって思っていたら……そうしたら、**くんから、私……!

 彼と彼女は、友達だった。隣の席に座る、親しいクラスメイトのひとりだった。少なくとも、彼女にとっては。

 彼は、改めて想起する。紙袋を渡したときの彼女の左手、薬指には――……

 ――どうして、帰りたくなかったの?

 どうして。

 地面に降り積もる雪をゆっくりと踏みしめながら、歩き始める。さく、さく、と音がする。黒いマフラーの中の、彼の息遣いも。そんな小さな音すら明瞭に聴こえるほどに、辺りはしんと静まり返っていた。

 彼は苦笑した。気付かなかったのは、僕だ。何もかも、自分自身の想いさえ。

 もやがかかったような彼の心中とは反対に、世界は純白に染まっている。

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冬の町 かおり @da536e

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