第04話 雛、天覧氷舞の開催を知ること

 雛妓すうぎ破瓜はかを迎えて宮妓きゅうぎとなり、宦官かんがんの場合は十五の成人を迎えた際に楽人がくじんとして認められる。

 六つ離れた玉蝶ぎょくちょうの兄、玉鸞ぎょくらんは十三歳でこの世を去った。

 彼は楽人見習いとして宮中に記録されている。

 技芸の披露中に落命し、郊外にある宦官墓園ぼえんで眠っている――はず、だった。

 玉鸞の棺は、彼が亡くなった一週間後に何者かに盗まれたのだった。

 帝国では貴賤を問わず土葬が基本となる。

 とりわけ見目がいい者や、玉鸞のように縁起物の髪色をした人間は――死してもなお、その価値を発揮する。

 不老長寿に至るための偶像として。

 あるいは、常人には理解できない考えを持つ者の、慰み物として。

 だから、銀漢帝国の芸能分野を掌中に収める礼部では、皇帝陛下に拝謁を賜った玉鸞の名誉を死後も守るために、彼は雪女神ゆきめがみに乞われたと語るしかなかった。

 そして玉蝶は、兄の御霊が安らぐように喪に服していた。

 帝国では親またはそれに準ずる人を喪えば三年の喪に服す慣習がある。この期間は華美を控えねばならないため、教坊で舞いや音楽に適した肉体や聴覚、演奏技術の基本を仕込まれていた六歳の玉蝶は中断する形となったのだ。

 年齢と玉鸞の唯一の遺族であったことを理由に、前線を退いた老宦官たちの終の住処でもある宦官墓園にて、玉蝶は九歳までの三年間、小間使いとして働いていた。

 なだらかなつづら折りの道か、千を越える急斜面の石段を往復して、老いた宦官たちのために、麓の住人から必要な食料品を買い求め、代わりに、宮城を仰ぐように設けられた宦官墓園で余生を過ごす彼らから、読み書きに算盤、宮中の行儀作法を躾られた。

 だから三年が経って、教坊の宿舎へと戻ってきた玉蝶は、同年代と比べて、官僚を相手にする官宴に出演する宮妓と同程度の詩を諳んじたり、読み書き算盤は優れていたが、歌舞音曲の基礎的な技能はなく、簡易な動作や振り付けの群舞の稽古に参加して、十二歳で初演となったのだ。

「殿下は、なにかご存知ですか!? なぜっ、どうしてあに様は死んでも辱しめを受けたのか――」

 玉蝶は、兄の死体が雪女神に乞われたなどと信じていない。常人に理解できないような考えを持つ者に盗まれたと考えていた。

 けれど、兄が亡くなった当時の玉蝶は、六歳で、十二歳の今も、ただの無力な子供だ。

 宦官とは、その心身を皇帝陛下に捧げた存在。たとえ楽人見習いであっても、死体を盗まれるという故人と遺族の尊厳を汚されても――――

 玉蝶には、なにもできなかった。

 できなかったから、三年間、兄がいないからの棺に向かって、花を供え、蝋燭を灯し、祈りをささげた。

 子供心におかしいと、はっきりとわかっているのに、けれど己の無力さを理由に、押し寄せる日々の雑事に気が取られ、もう兄については諦める以外には方法がなかったというのに。

 思わず声をあげる玉蝶だが、珪雀にやんわりと両肩を掴まれた。

「申しっ、申し訳ありません!」

 己の無礼な振る舞いに我を取り戻した玉蝶は青ざめて額づく。

 ぎゅっと眼をつぶると、衣擦れとともに、良い匂いが玉蝶の前方から運ばれた。

「顔を上げてちょうだい。 本宮もとみや足下そっかと同じことを知りたかった」

「殿下……」

 ゆっくりと顔をあげた玉蝶は、己の前で両膝を折る公主を見て言葉を忘れた。

 珪雀と似た面差しの女性が口を開く。

「辛いことを訊くが。足下は、玉鸞がどのように亡くなったか知っているか?」

「……天覧氷舞てんらんひょうぶ奉献の最中に、氷が割れたためと聞き及んでおります」

 氷舞とは、凍った湖や川で披露する舞だ。滑氷鞋かっひょうあいという、底に刃がついた鞋を履いて氷上を旋回したり跳躍するため、地上での踊りとはまた異なる技能が求められる。

 そして皇帝陛下の御前に披露する氷舞を天覧氷舞と言った。

「そう、割れた。あの年の天覽氷舞は、一週間も前から寒さが続き、当日は日中ですらも、前夜に置いた桶の氷が溶けなかったと太史局たいしきょくは記録しているというのに」

 公主は柳眉を寄せた。太史局は天文気象を研究する部署である。

「正確には、奉献の最中……終わる直前だ。舞の――龍の眼を描くと同時に、氷が割れた」

「……龍の?」

 天覧氷舞で披露する舞は、氷上で描く軌跡が龍となる。

 龍こそは、帝国そのもの、すなわち皇帝陛下を示す。御物たる龍を、舞で表現できるのは選ばれた者だけだ。

 公主の説明を受けて、玉蝶の脳裏に、凍りついた湖に、兄の滑氷鞋が刻んだ龍の姿が浮かび上がった。

「玉鸞が着地したと同時に氷が割れた。割れた氷は睡蓮の花弁のように次々と湖面に咲き、その花弁の繋がりはまるでうねる龍のごとく。それだけじゃない。たゆたう真っ黒な水面は、銀世界に現れた黒龍だった。本宮は龍がまさに降臨したと思った。そして玉鸞の姿は、天蚕湖てんさんこのどこにもいなかった!」

 天覧氷舞の舞台となる天蚕湖に、宦官たちが舟を出した時にはすでに遅く、引き揚げられた玉鸞はすでに息をしていなかった。「雪女神に拐われた」とはこの時点で誰かが言い出し、結果的に、玉鸞の死後は暖冬が続いたために、彼は天に招かれる舞手として名が上がった。もし厳冬であったり、儀式を失敗した罪咎を、身内である玉蝶にまで追及されたら、玉蝶は今のような生活は送れなかっただろう。

「玉鸞の氷舞は美しかった」

 公主は言った。美しい顔を歪ませながら――死者を悼む者の、苦痛を宿しながら。

「本宮も、あの場にいた誰もが、足下の兄を……玉鸞を見殺しにした!」

 公主の声は後悔と、己を攻め立てる慚愧の念が籠る。

「私も殿下も玉鸞を助けようと立ち上がった。けれど周りの大人たちに押さえつけられた」

 私たちが子供だったから、と珪雀が続けた。

「それは……致し方ありまぬ。殿下も公子も万が一があってはならない御身なれば」

 玉蝶は言葉を選びながら慎重に答えた。

 もっと言えば、下々が貴き方の肉の盾になることはあっても、逆はない。

 兄の最期を見た人から、直接話が聞けた。それだけで、もう十分だ。

「殿下は……お優しい方にございます。音に聞く天覽氷舞は国家儀礼の一つ。尊き方の御心にて今もなお生きられる愚兄も、草葉の陰で喜んでおりましょう」

 兄は人ならざる身になったけれど、優しさも賢さも心身の美しさも損なわれることがない人だった。だから見目の良い宦官に取り囲まれて生活するのが常の公主の心を惹き付けたのではないかと玉蝶は思う。

 そしてなにより。

 兄は舞台で死ねた。

 どんなに名のある宮妓や楽人も 、己の技芸を披露した直後に、舞台の上で死ねる人間は少ない。

 ――役者冥利に尽きる、というのか。

 雛妓であるからこそ玉蝶は、兄、玉鸞を羨ましいと思う。

 玉鸞は十三歳で、たくさんの人々を、己の舞いで喜ばせ楽しませ、そして亡き後も、公主や公子の記憶に残っている。

 多くの宮妓や楽人が、生涯で名声を手に入れるのを目標とし、夢半ばで破れ。

 ただ一度、栄誉を手にした宮妓と楽人が、その名声を生涯、維持できる保証はなく。

 さらに己の死後に、己が舞台で手に入れた名誉を後世にまで語り継がれるような芸能者は数少ない。

 ゆえに玉蝶の兄は、伝説だ。

 その容姿で、その齢で、皇帝陛下に拝謁賜る舞台で、この世を去ったことで人々の記憶に残って、語られているのだから。

 ――宮妓や楽人、その見習い特有の、こうした考えが、世間的には、褒められる感性ではない、というのも玉蝶は十分知っている。

 けれど、身内だからこそ、兄と同じ芸能の道を歩むからこそ、兄を羨ましいと感じてしまうのだ。

「畏れながら、殿下に申し上げます。不肖我が兄の最期を、教えてくださり、まことにありがとうございました」

 宦官墓園と教坊で習った通りの宮廷作法に従い、玉蝶は公主に向けた感謝の礼――額を床に打ち付けるしぐさをしようとし、公主に両腕を掴まれた。互いの鼻先がぶつかり合うほどに顔が近い。

 甘い匂いが玉蝶の鼻先をくすぐった。

泰山たいざんで初雪が観測された」

 公主の囁き声を、玉蝶は理解したと同時に、彼女に己の震えを悟らせまいと、両眼を見開く。

 泰山は京師で最も高い山だ。冠雪の時期によってその年の冬の寒さが予想され、十月半ばの現在においては、今年から来年にかけて厳冬が予想されると公主は語る。

「つまり半年後に、天覧氷舞が開かれる可能性が高くなった。――足下、氷舞の心得は」

「……兄と同じく、養父に教わりました」

 兄の遺品である滑氷鞋も持っている、と玉蝶が矢継ぎ早に言うと、公主の紫水晶のような眸に喜びと、躊躇いにも似た揺らぎが見えた。

 秋海棠のごとくふっくらとした公主の唇が割れ、銀糸のような細い声が玉蝶にかけられる。

あたうならば、足下も兄のように天覧氷舞に出たいか?」

 玉蝶が答える前に、青年の声が割って入る。

「殿下、まさか彼女にやらせるおつもりですか!?」

 亨珪雀の耳は、公主の発言をしっかりととらえたらしい。彼もまた膝行の状態で、公主の肩に手を置いて玉蝶から引きはがした。

 性別が違えど、従姉弟同士ゆえか、顔が良く似た――男女の双子と言っても差支えがない――珪雀と公主の間に交わる視線に火花が散ったように玉蝶の目に映る。

 紫晶が言った。

「けれど、これほどに適した人材はいないでしょう? それに彼女は玉鸞の妹、兄を弔うという大義名分がある!」

「危険です、彼女を宦官たちの群れに送るおつもりですか?」

「一体、なんの話ですか!?」

 玉蝶を置き去りにして言い合う二人に、玉蝶はたまらず声を上げた。

 顔がよく似た二人は、同時に息を呑み、公子はばつが悪そうな顔で、公主は先ほどよりも幾分険しい眼差しで玉蝶の顔を覗き込んだ。

 公主が先に口を開く。

「……玉鸞が亡くなり、その身が行方知らずとなった事件を、本宮は最近になって調べ始めた。そして、本宮に仕える家令が襲われた」

「襲われた?」

 玉蝶は声を上げた。公主が続ける。

白氏はくし――本宮の家令は、玉鸞が消えた宦官墓園で何者かに突き落とされた。確か、足下は宦官墓園で暮らしていたな?」

「はい」

 宦官墓園は、京師の外れにある山にある。山の頂上からは宮城を仰ぐことができ、老いた宦官たちの終の棲家であり、彼らの同胞が土の下で眠る場所だ。

 玉蝶は子供だったから、女でも宦官墓園で暮らす老宦官の小間使いとして、麓の村と行き来が許されていたのである。

 宦官墓園は、老いた宦官と、小間使いの子供の男女――通常は、麓の村の子供が任命される――しかいない。

(殿下が、お調べになった?)

 けれど、それ以前に、玉蝶の中で疑問が沸き起こる。

「あの。畏れながら、殿下に申し上げます。……なぜ、今になって愚兄について調べようとなさっているのですか?」

 公主は――紫晶は、玉蝶が抑えようとして、けれどできなかった、責めるような視線を真正面から受け止めた。

「本宮が後悔しているからよ」

「後悔?」

「目の前で、友を助けられなかったから。殿下も、私も」

 玉蝶の耳元で、珪雀が補足する。

 公主は嫁ぐ一年前になると、公務の数を減らし、代わりに私的な時間が手に入るという。

 珪雀と比べて色が濃い公主は、紫色の眸に鋭利な光を宿した。

「……さきほど、足下は言ったな。本宮が覚えているから、心の中にいるから、玉鸞は……足下の兄上様は喜んでいるだろうと。けれどな、宮中は、足下が思うほど美しくも、風通しも良い場所でもない。だから、嫁ぐ前に、せめて……と」

 あの時、知らなかった、知らされなかった出来事を、六年経った今、調べようとした。その矢先に家令が襲われたのである。

 紫晶に仕える公主家令、白氏は幸い、命に別状はなかったものの今もなお宦官墓園で養生しているという。

「これは、偶然か、それとも――玉鸞の死と関係があるのか」

 紫晶は言った。

「玉鸞に天覧氷舞を指導した宦官は、翠輝すいきという。そして玉鸞がいなくなった時の宦官墓園の管理者は、翠輝の養父よ」

 子を成せない宦官だが、当代においては、父子の契りとして疑似親子の関係として認められる。

 そしてまた宦官は、皇帝のみに仕える存在。その存在、役割は、帝室女性である公主や貴顕の家に生まれた公子、玉蝶のような女性芸能者の見習いとも異なる、独自の不文律が存在している。

 玉蝶は生前、兄から己に氷舞を教える宦官の名前を知らされていた。

 だから名前は知っている。

 翠輝なる宦官は、御抱え楽官だ。

 御抱え楽官とは、言葉通り皇帝陛下の御前で歌舞音曲を披露する宮妓や宦官のこと。宮廷楽師は宮廷の催しにて技芸を披露するのが職掌だが、御抱え楽官は「官」とあるものの、皇帝陛下の私的な宴で献じるだけではなく、音楽や踊り、画の描き方を教える役目をも持つため、技芸に関わる宦官や宮妓にとっての最高位にあたる。

 そして彼は、玉鸞と同じく吉祥を表す白銀の髪の持ち主だ。

 けれど玉蝶は、彼の養父の役職までは知らなかった。

(どういうこと? 私が宦官墓園にいた時の管理者は……)

 玉蝶の疑問に答えるように、紫晶が朱唇を開く。

「足下が墓園にいた時の管理者は、金氏きんしだったな?」

 先帝に仕えていた老宦官の名前を聞いて、玉蝶はうなずいた。 

 親への孝徳を、主人への忠誠よりも重んじる帝国において、老宦官を養父と呼ぶ、養父と同じ身の上の息子がいたら、その息子は一か月に一回以上は顔を見せに墓園を訪ねるはずだ。

 金氏には養子はいなかった。生涯独身を貫く宦官も多い。

「まさか、翠輝様のお養父様って……」

「そう。玉鸞が……消えた責任を取らされ、堂守の役目を降りる結果になった。その後任に金氏が選ばれた」

 玉鸞はただの若くして儚くなった宦官ではない。皇帝陛下の御前で舞いを披露する実力者であり、吉祥の象徴たる白銀の髪を持つ。その類い希なる容姿は瞑府の住人となっても、否、黄泉路を下るからこそ、人の心を惹き付けて止まないし、吉祥の証を持つ者を食らえば不老長寿に至るという俗説もある。玉鸞はそうした迷信の被害に遭った可能性が高い。

「玉鸞の指導者が翠輝だった。そして事件から六年後の、今になって本宮が命じ、白氏が宦官墓園で襲われたことと、玉鸞の遺体が消えた時の堂守の養子が翠輝というのは偶然か?」

「殿下は、翠輝様をお疑いに?」

「……六年も前の出来事だ。今でこそ御抱え楽官だが当時の翠輝は楽人の一人。これは本宮の推測――憶測だが」

「はい」

「翠輝は玉鸞を妬んでいたのではないかと本宮は思っている。己と同じ稀少な白銀の髪に将来性。芸事の世界は、追い、追われて、選ばれた一握りが舞台で光を浴びるのだろう?」

「……確かに、同じだけの力量があり、容姿や年齢、経歴に遜色がなくとも、選ばれる者と選ばれない者が存在しておりますが」

 玉蝶は慎重に答えた。

 紫晶と珪雀は「やはり」という顔になる。

 けれど、玉蝶には御抱え楽官になるほどの人物が、で兄の命を奪うだろうかとも考える。

 技芸に携わり、極めようとする者ほど、嫉妬は己の技芸を磨く原動力になるこそすれ、その妬心を生み出す相手を排除しようなどとは思わない。排除する暇があれば、己を磨くことに専念するからだ。

 教坊ではそのような風潮がある。

 そして、おそらく楽人たちも同様だ。

「私には、わかりません。翠輝様が、嫉妬や他の感情、事情で、兄の死と関係があるかどうか……」

「知りたいと、思わないか?」

「殿下?」

 玉蝶は紫晶の問いに首を傾げた。

「先ほど足下に聞いたな? 能うなら天覧氷舞に出たいか、と? おそらく来年の一月か二月に、天覧氷舞が開かれる。指導役は、翠輝よ。彼は玉鸞の前に、天覧氷舞に出たから」

「それじゃあ……」

 玉蝶は息を呑んだ。

 消えてしまった玉鸞に対して、玉蝶ができることなんて、今までなにもなかった。

 けれど今、玉蝶が望めば、兄の師であり、兄と同じ舞台に立った人に近づける。

 危険かもしれない。公主に仕える宦官が襲われたのだから。

(でも、今なら――――)

 玉蝶が、天覧氷舞に出れば。

 亡骸なき玉鸞の御霊は、安らかになるのではないか。

 玉蝶の眸に宿る光に、紫晶は気づいたようだ。

「足下。天覧氷舞に出てくれないか?」

 玉蝶は力強く頷いた。

「はい」

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