第03話 雛、公主殿下と亡兄を偲ぶこと

 大陸を流れる絳河こうが

 大河の下流域は栄養をたっぷりと吸い込み、豊土を育んだ。肥沃の大地にそれぞれ生まれた国は、争い、奪い、姦計を巡らせ、盟約を結び、やがて一つの大国として生まれ変わった。

 北方の騎馬民族の一つ、驥姓きせいを開祖とした銀漢ぎんかん帝国の誕生である。

 第九代皇帝――極光帝きょっこうていの御世は、四囲の属国と健やかな緊張感を保ちながらも、皇帝がおわす京師に暮らす人々にとっては、太平そのものであった。


 *


 玉蝶が侍衛官じえいかんを名乗る青年、亨珪雀こうけいじゃくに案内されたのは、瑶鏡殿ようきょうでんの折れ曲がった廊下をいくつも通り過ぎた先にある、貴人のための区画だった。

 技芸を披露する宮妓や見習いの雛妓が、一人で勝手にうろついていたら、不審者として捕縛されるだろう場所に、青年にくっついて、雛が親鳥の後を追うがごとき存在の玉蝶を見咎める宦官はいなかった。

 徐々に警備の宦官が増えていく空間で、青年は穏やかな空気をまとったまま、彼らに会釈していく。

(この方は一体何者なの?)

 本来ならば、公子と呼ばれる立場の青年には、姓名が最初につく。稀に花街で名を轟かせる「花々かか公子こうし」など揶揄されるものもあるが、「後宮公子こうきゅうこうし」なる役職も敬称も、玉蝶は聞いたことがなかった。

(私が知らないだけだと思うけど……)

 十二歳の玉蝶は、六歳の時に六つ離れた兄を亡くし、その御霊みたまが安らぐためにと三年間、喪に服していた。喪に服す間は、華美を控えなくてはならない。だから六歳から九歳まで、華やかな京師の流行も宮廷事情も人一倍疎い自覚がある。

「あの。畏れながら、侍衛官とは、どのようなお立場のお方なのでしょうか」

 人気がなくなった廊下で、こっそりと尋ねる玉蝶だが、息を弾ませながら問う彼女を見て、彼はすまなさそうな表情を浮かべると、歩幅を玉蝶に合わせて歩き始めた。

「侍衛官は、後宮公子――皇子殿下や公主殿下の乳兄弟に与えられるお役目だ」

 お嬢様の意味を持つ女公子じょこうしは、侍女として仕える――と珪雀は説明した。

「私は殿下の従弟で護衛を務めている。殿下の御尊母であらせられる妃殿下、亨氏と私の父は双子なんだ」

 帝国では、男女の双子は龍鳳胎りゅうほうたいと呼ばれ、縁起が良いとされる。

 護衛が主人から離れて良いのかと、玉蝶がおずおずと尋ねれば、華やかな笑顔で「大丈夫」と返答があった。

「それでは、公子は武官であらせられる……」

「いいや。侍衛官は、正式な武官でもなく、一軍を率いる立場でもない」

 青年の含みのある発言に、玉蝶は言葉を詰まらせた。

 玉蝶の知識では、朝廷にいる偉い人と言えば、皇帝陛下そのお方であり、次に国家祭祀を司る礼部れいぶ尚書しょうしょで、宮妓や玉蝶のような雛妓、楽人と呼ばれる芸能に秀でた宦官を取りまとめる教坊司きょうぼうしと呼ばれる官僚が、その礼部に属しているということだけだ。

 正直、将軍と一介の武官の区別も教えてもらわなければ、わからないし、侍衛官なる役職も初めて耳にした。

「……あの。それでは公子の姉上様や妹君様も、殿下にお仕えしているのですか?」

「私に姉妹はいないけれど。員数法があるからね。私がいるから、私の従姉妹たちは殿下にお仕えできない」

「いんすうほう?」

「ここだ」

 聞きなれない言葉を繰り返す玉蝶を気にせず、珪雀の足が止まった。扉を一度叩き、中から応じる声があると、彼は扉を開けて玉蝶に入室を促した。 

 玉蝶は身構えた。いくら宮廷に歌舞音曲を捧げる身――の見習いであっても、玉蝶にとって、皇帝陛下や公主殿下は遥か遠くにおわす雲上人である。

 そんな玉蝶を出迎えたのは、緑襦紅裙りょくじゅこうくんを纏った宮女たちだった。宮中の身分序列で言えば彼女たちは雑役にあたり、雛妓の玉蝶は、踊りや楽才に秀でた宮女と変わらない。

 公子が彼女たちの代表になにか告げると、二十を超える女たちの視線が玉蝶に突き刺さった。

「それではまた後で」

 部屋を出ようとする公子に玉蝶が「えっ?」と声を上げた。公子を引き留めようと彼の後を追う玉蝶だが、あちこちから伸びてきた宮女たちの手が両肩や両腕に絡みつき、動きが止められる。

「え、えっ?」

「殿下にお目文字めもじいたしますから」

 両目を白黒させて戸惑う玉蝶は、己より五つ以上離れた宮女たちによって浴室に連れ込まれた。

 もっとも美しく見えるように、真横を向いた顔の顎先から耳を通る位置で、後頭部で団子のようにまとめられていた髪から髪夾ヘアピンが外された。ぐっと広がる毛髪の解放感に玉蝶が気を取られていると、誰かの手が伸びて帯をほどかれてしまう。

「ええっ!?」

「ご安心なさって。すぐに気持ち良くなりますから」

「さぁ身体からだの力を抜いて、私どもに身を委ねて」

「まあ羨ましい、なんて肌理きめ細かいの」

「若いっていいわねぇ」

「うふふ」より「ぐふふふ……っ」という表現がぴったりな宮女たちは両手の指をワキワキと開閉させて、玉蝶を追い詰める。云い知れない恐怖と困惑で、後退る玉蝶の背後で扉が開いた。わっと白い湯気と暖気に包まれる。

「おや、お嬢ちゃん」

「どうしたのかえ?」

 振り向けば、好好爺ならぬ穏やかな表情の老婆が並んでいる。眼前の宮女たちより話が通じそうだと、安堵しかけた玉蝶だが、次の瞬間。老婆たちに腕を掴まれた。

「うひょひょひょひょ。まあまあお入りなさいよ」

「あんらまぁ、綺麗なおべべね」

「あたし達が綺麗に洗うわよぉ、あなたもおべべも」

「先輩方、私たちの分も残してくださいませねっ!」

「なにを!?」

 玉蝶の叫びも虚しく彼女の身体は浴堂へと吸い込まれた。



 諸々あったが、初舞台を無事に終わらせ、いつもと異なる一日を迎えた玉蝶は、心地よいお湯と「人体の疲労回復にきく」と老女たちにあらゆるツボを押されたためか、浴堂で眠ってしまった。

(なんてこと!)

 気づいた時には、長榻に仰向けに横たえられていた。目を開けて真っ先に飛び込んだのは、玉蝶の身体を仰ぐためか、宮女たちが紙を張った団扇うちわを取り合っていた。彼女たちは玉蝶の覚醒を知るや否や怪しい微笑を浮かべて、玉蝶を引っ張り起こし、三面の鏡台の前に座らせる。

 中央の鏡に映る玉蝶は、青空色の眸に戸惑いを浮かべた。胸先まで届く真っすぐな黒髪はいつの間にかすっかり乾き、その背後では、簪が並ぶはこを持つ宮女と銀櫛ぎんぐしを手にした宮女が何事か相談し、右の鏡では色鮮やかな襦裙を手にした宮女たちがさざめき、左の鏡では大小の化粧筆を並べた盆を持つ宮女に別の者が「素材のままで勝負よ!」と言っている。

 鏡の中で目まぐるしく動く彼女たちに玉蝶が口を挟もうものなら、「殿下にお会いできるまで待ってて!」「私たちに任せて!」「最高に完璧に仕上げるから!」と己の胸を拳でドンと叩きながら答えられた。

 これから舞台に出る役者を舞台袖から見送る、舞台裏の仲間のような、頼もしさを感じ、玉蝶は素直にうなずいてしまう。

 結果、肘から下が扇形に広がる真珠色の上襦に、裾の部分に深緑で蔓が刺繍された臙脂色の長裙を着せられる運びとなった。

瑞香ずいこうにしてみたの」

 と、口にした宮女の一人に、玉蝶は己が身に着けていた白装束を思い出した。

 本来、玉蝶が舞で用いる領巾には目印として瑞香が刺繍され、第三公主、紫晶ししょう殿下の宴に参加した際に用いていた領巾は、自身のではなく、友人の彩紅のものを借りたのだ。

 自分の赤領巾は、彩紅のそれと交換するように預かってもらったから、彼女が教坊に持って帰ったはずだ。

「……あの。私が着ていた服は、一体どうなったのでしょうか」

「もちろん洗って返すわよ」

「私たちと先輩たちで! 綺麗にね!」

 宮女たちは、己の拳で再びドンと胸を叩く。

 玉蝶の髪の毛は、左右の一房を後ろで纏め、頭頂部に二つの輪が作られた。両肩に垂らした部分はこてを巻かれて螺旋を描いている。絹でできた肌触りの良い服も、他人に髪を鏝で巻かれることも、玉蝶は教坊の稽古でしか経験していなかった。

 同じだけの努力や練習を重ねても、舞台という「箱の大きさ」から出演者の数は限られる。

 だから舞台出演を勝ち取る選考試験も経ていないのに、いきなり着飾られて玉蝶の心はかえって落ち着きを取り戻す。多少――結構かもしれないが、居眠りした効果もあるかもしれない。

(私はこれからなにをするの? させられるの?) 

 十二歳と言えど、無条件で喜び舞い上がるほど無邪気でいられる年齢でもないため、玉蝶は神妙な顔で黙っていた。

(……あの方は、あに様と知り合いだと言っていた)

 宮妓の見習いである玉蝶にとって、眉目秀麗な人間は身近な存在だ。舞台で美女と美男を演じる役者――帝国で楽人と呼ばれる彼らは宦官だが――を見慣れているものの、あの青年は、舞台役者とはまた異なる美しさと気品を漂わせていた。

 宮仕えする宦官は、高貴な人の世話係、深閨の婦人が暮らす後宮の警備、そして去勢された肉体を生かした歌唱力や美女に劣らない容姿でもって、歌舞音曲を披露する楽人に大まかに分けられる。

 玉蝶の兄は、生まれつきの白銀の髪が吉祥をもたらすとされ、また当人に歌舞音曲の才能ありと刀子匠とうすしょうが判断したために、楽人となるべく育てられ、おまけとして妹の玉蝶も共に稽古に励んだ。

 貴人が宦官の名前と顔を覚えるには、よほど彼らの生活にかかわりが深いか、覚えられるような技芸を披露したくらいに限られる。

 そして玉蝶の胸にひっかかるのは、あの見目麗しい青年より発せられた亡き兄の名前だ。

 そう玉鸞ぎょくらん、享年十三。

 吉祥の証である白銀の髪を生まれながらに持ち、楽人として育てられるだけの楽才と容姿を持った彼は、齢十三で儚くなった。

 可憐な容姿と、観た者が今もなお語り継ぐ舞の持ち主。

 それが玉蝶の、唯一の肉親である兄だ。

(あの方は……一体、なにを御存じなの?)

 一体これから自分はどんな役を演じるのか、求められているのか、科白を何一つとして与えられないまま「舞台」に上がることを要求されている。

 そんな予感がしてならない。

「あ」

 鏡の中に、思い描いていた人物が現れて、玉蝶は雛妓にあるまじきことに、目玉と口を丸くした。演劇の指導者が見ていたら「そこは淑やかに微笑むところ!」と指示していただろう。

「こんばんは」

 再び会った青年は相変わらず麗しかった。

「公子」

 青年を認めて、玉蝶を取り囲んでいた宮女たちが一斉に、玉蝶から距離を取った。彼女たちはそれぞれ自分の仕事道具を抱えたまま、洗練された動きで、するすると壁際に後退していく。

 慌てその場に額づこうとする玉蝶だが、公子自ら「よいよい」と止められる。

 公子は紫色の眸を細めた。

「可愛いね」

「ありがとうございます」

 聞きなれた世辞を丁重に受け取った玉蝶だが、心の奥底には不満も残る。

(――殿下も公子も宴がおありなのに)

 それも主催者側だ。彼は宴を中座したのだろうか、それとも宴自体は終わったのだろうか。

 今日は玉蝶にとっては初舞台で、教坊から瑶鏡殿に移動したり、そして不覚なことに入浴や居眠り、着替えで、時間の感覚がおかしくなっている。そんな考えが面に出てしまったのか、珪雀が「どうかした?」と柔らかな笑みで問うた。

「あの、宴はいかがなさいましたか?」

「先ほど恙無く終わったよ。君たちも君の姉貴分たちも、素晴らしい舞だったね」

「ありがとうございます!」

 珪雀の答えに、玉蝶はほっと胸を撫で下ろした。

 いかに見事な技芸を披露しても、客がいなければ意味も価値もない。

 ――観客がいるからこその宮妓なのだ。玉蝶はまだ見習いだけれど、技芸の感想を聞かされるのは嬉しい。

「改めて。殿下の元に」

「はい」

 玉蝶は珪雀に促されて退室した。廊下をしばらく歩けば、二人の宦官が扉の前に立つ部屋に到着する。

 中に入れば、心が落ち着くような良い匂いに包まれる。

 どんな履き物でも足音をすべて吸い込みそうな毛足の長い絨毯。身体を丸めれば、玉蝶一人くらいはすっぽりと入れそうな巨大な白磁の花甕はながめ紅檀こうたんの箪笥の上に置かれた三叉の銀燭台には火が灯り、壁に掛けられた深山幽谷を表現した螺鈿細工を七色に輝かせる。深閨の女性が過ごす部屋を、玉蝶は芝居と絵巻物でしか見たことがなかった。

「殿下。お連れいたしました」

 珪雀に促され、玉蝶は彼の隣で立ち止まった。

 鳥の群れが描かれた三曲の屏風を背後に置いた椅子に、威厳と上品さを漂わせた、一人の女性が腰かけていた。

 第三公主、紫晶ししょう殿下。玉蝶が先ほど〈彩雲〉を奉献した姫君だ。

 緩く波打つ黒髪は、一部が頭の後ろで蝶のように編まれ、三連にわたる数珠繋ぎの真珠の髪飾りが両耳の上を走る。たっぷりとひだを寄せた白襟を、淡紅色の交領くみえりから覗かせた橙色の上襦と、幾重にも重ねた広がりを見せる紅裙は蝋燭の明かりを受けて、まるで玉茗花ぎょくめいかの化身のようだった。

 ほぅ、と思わず相手に見惚れている玉蝶の耳に、銀の鈴を振ったような声が届く。

「……玉鸞に似ているわね」

 亡兄の名を聞いて身を固める玉蝶に、珪雀が耳を寄せた。

「殿下と私は、君の兄の友だった」

「お二方は……あに様を、我が兄をご存知なのですか?」

「ああ。君も殿下や私に訊ねたいことがあるだろう? 忌憚なく話してほしい」

「――それでは」

 玉蝶は背筋を伸ばした。凛とした眼差しを、傍らの珪雀と正面に座す貴人に向ける。

「畏れながら、殿下、公子にお訊ねします。我が兄、双玉鸞の遺骸の行方を、ご存知でありましょうか?」

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