第02話 雛、後宮公子に招聘されること

 ――玉蝶ぎょくちょうが姉貴分に連れてこられたのは、控室の一つであった。

 ざっと五十人ばかりが一室にひしめき合う玉蝶たちの大部屋と異なり、今宵の宴に参加する姉貴分の中には、単身での歌や楽器、舞の披露が認められている者もおり、そうした彼女たちには個室が与えられている。

 その一室に、姉貴分と共に玉蝶は足を踏み入れた。

(綺麗なお部屋)

 表現者の卵ゆえに、日々のすべてを観察する癖が身に付いた玉蝶は、部屋の中を見渡した。

 二台の長榻に挟まれた長い方卓は、玉蝶なら余裕で寝ころべそうだ。天に登る龍が三脚に絡む銀の香炉。牡丹が彫り込まれた水差しも銀でできている。

 先を行く姉貴分に気取られないように、興味深く室内を見回す玉蝶は、秋を告げる満月と麓で薄が頭を垂れる深山が描かれた三曲の屏風の向こうへと案内された。

 玉蝶は声を上げた。彩紅さいこう床榻しょうとうに横たわっているではないか。

「彩紅!」

「玉蝶。ありがとう、来てくれて」

 彩紅は玉蝶を認めると肘をついて起き上がった。かすれ声ながらも笑みを浮かべる彩紅に、玉蝶は戸惑った。玉蝶が声をかける前に、彩紅の切れ長のひとみから滴が零れ落ちたのだ。

 彩紅は涙をさっと手甲で拭うと、玉蝶が口を開く前に言った。

「……あたし、もう〈彩雲さいうん〉は踊れないの。まさか本番当日に来ちゃうなんて」

 あーあ、と泣きはらした顔で笑顔を作る彩紅に、玉蝶はその真意を悟って、彼女にかける言葉が見つからなかった。

 宮妓の見習いである雛妓すうぎは、教坊きょうぼうにて技芸以外の嗜みとして、読み書きや算盤の他に、年齢に応じた男女の肉体の変化についても学ぶ。

 歌や踊りも、間違った練習を重ねれば、身体からだが壊れてしまうのだ。

 だから玉蝶は、彩紅の様子から、彼女の「踊れない」という発言が一時の不調によるものではないと気づいた。

〈彩雲〉は生娘が仙女を演じて、花嫁を祝うために献じる舞なのだ。

 ゆえに玉蝶は彩紅の発言をすぐさま悟った。

(彩紅は……)

 きっと自分たちが雛妓でなければ、喜ばしい、祝い事なのだ。彩紅は、大人の女性の仲間入りを果たしたのだから。

 しかし玉蝶は救いを求めるように、傍らに立つ先輩宮妓を見上げてしまう。

「踊れない、というわけじゃないわ。ただ雛妓として〈彩雲〉を披露する機会がなくなっただけよ」

 きっぱりとした姉貴分の声に、彩紅と玉蝶はハッとした顔つきになった。

「そうか。踊ることはできるんだ……」

 玉蝶は思わず呟く。己の身体が、少女から大人に変化したところで、志さえあれば、踊りができなくなることはない。

 彩紅はぐいと両目をぬぐうと顔を上げた。

「あね様」

「それにあんたの言い方だと、とっくの昔に破瓜はかが来た私はなんなの? あんたたちに〈彩雲〉を教えたのは、この私なんだけど?」

「ふふっ、ごめんなさい」

 ようやく彩紅がいつもの朗らかな笑みを見せたことで、その場の空気も和らいだ。

 玉蝶が口を開く。

「あの。それで、私が呼ばれた理由は?」

「玉蝶。私の代わりに、踊ってほしいの」

「えっ? でも私は……」

 彩紅の言葉を聞いて玉蝶は眼を見張った。

 何度も舞台経験がある彩紅と異なり、玉蝶は今夜が初舞台である。

「さっき瑶鏡殿ようきょうでんで練習したから、わかるでしょうけれど、彩紅がいた場所は、殿下の御目に最も留まる位置なの」

 姉貴分の言葉で、玉蝶は大広間を思い出した。

〈彩雲〉は群舞であり、一人一人の動きは共通しているが、最初の立ち位置が、彩紅が属する白組と玉蝶の赤組では異なる。

 白組は真っ先に広間に入場し、他の四組が整列するまで、北方に座す公主殿下と東西に居並ぶ百官の衆目にさらされる時間が長いのだ。

「誰でも、最初は初めてを迎えるのよ」

 姉貴分の宮妓は、床榻の横にある円卓を指さした。四角く畳まれた白い舞布は彩紅が領巾として使っていたものだ。

 名前が、雪を意味する玉蝶と、紅の字が使われた彩紅は、舞布の色が逆じゃないかと周りにからかわれたのが三ヶ月前が懐かしい。

「もう〈彩雲〉を献上できない私たちの代わりに、なんて不遜なことは言わないわ。私たちが踊り、歌うのは、喜ばせるお方がいらっしゃるから。だから、どうか殿下の御為に、踊ってちょうだい」

「お願いよ、玉蝶」

「――わかったわ」

 姉貴分の言葉と床榻から右手を伸ばす彩紅に、玉蝶は自身の右手で彼女の手を握るとうなずいた。

 持ち歩いていた赤い領巾を彩紅に託し、彼女の白い領巾を持って、姉貴分たちの部屋を出た玉蝶は小走りで、扉の鉄環に白絹が結ばれた部屋に向かった。室内に入れば、すでに衣装に着替えた娘たちが肩で息をする玉蝶を出迎える。

「彩紅は、そう」

 彩紅と同じように舞台経験がある娘たちは、玉蝶の口から姉貴分の伝令を聞くとすぐさま悟った顔つきになった。彼女たちも、そして玉蝶も、いつかは〈彩雲〉を披露する機会を失い、代わりにもっと別の舞踏で才能を開花させる日が来る。

 だから、しんみりとした空気は一瞬だけで、娘たちはこれから披露する群舞に集中する顔つきとなった。

 優し気な面差しの娘が玉蝶の肩を叩いた。

「私たちがいるから大丈夫よ」

「止まっちゃだめ、目立つからね」

「それじゃあ着替えようか。あんたは彩紅と背丈が変わらないから、どこも直す必要はなさそうね」

 衣装は歴代の雛妓たちが、採寸から裁縫まで自ら手掛けたものを、受け継いでいる。

「あらあら。こちらも似合うわね。紅牡丹の蕾から、芍薬の花仙みたいだわ」

 玉蝶の緊張をほぐそうとしているのか、同じ衣装に身を包んだ姉貴分たちが口々に誉めそやした。 

 全身が映る姿見を前に、玉蝶は視線を奪われた。ほんの数刻前まで予想だにしなかった玉蝶の衣装は、予定していた紅糸で花模様が刺繍された紅の襦裙ではなく、純白の上襦に向こう側が透けるような白羅紗を同色の長裙に重ねた衣装をまとっている。

 帝国における「白」とは本来、死者を悼み、喪に服すための色。

 なれど宴の席においては、汚れ一つすらつかない、高度な技術の持ち主だと宣言している証。

 初舞台、直前になっての立ち位置変更――雛妓と言えど、玉蝶の人生にはこれが当たり前になるのだ。

 青い眸を何度か瞬かせ、息を吐いて腹を括る玉蝶の肩を、周りにいた一人が叩く。

「あんたはこれからよ。私たちは、これが最後かもしれないけれど」

「舞台はいつだって一度っきりでしょ」

「いいこと。とにかく動くのよ。止まったらご破算だかね」

「わからなくなったら、周りの真似をなさい」

「はいっ!」

 娘たちに口々に励まされた。

 領巾の色に関係なく、踊りの振り付けは共通している。

 けれど、場所が、立ち位置が違うだけで、今までの稽古と一線を画すことを、玉蝶は先ほどの総稽古で知った。

 南方に構える楽師たちに一番近かった赤組と異なり、白組は、北方――すなわち公主の御前に一番近いところで舞う。

 音の発生源に惑い、残響に圧倒されながら、左右に動き回り、飛び跳ねた総稽古と違う条件で踊るのだ。

(それでも、やるんだ……!)

 玉蝶は一人ではないのだから。



 ――〈彩雲〉に出演する雛妓は、舞台袖にあたる底冷えのする廊下で無言のまま整列すると、扉近くで楽器を構えた楽人がくじんの合図を受けて、蝋燭の丸い明かりで満たされた大広間へと次々に入場する。

 赤、黒、白、黄、緑。それぞれの色の衣装と両肩に領巾をかけた雛妓たちは東西に居並ぶ百官、北方に座す公主に、己の技量に対する矜持と自信でもって着飾った華やかな笑顔と煌びやかな衣装で存在感を示す。

 とっくに日が沈んでいる時刻だというのに、大広間は廊下と異なり熱気があった。

 人の多さ、食卓や広間に用意された燭台、客が暖を取るための火盆のおかげだ。

 観客がいるだけで、自分たちしかいなかった総稽古の時とはまた違う瑶鏡殿の光景に、玉蝶の心臓が高鳴った。

 竹林を束ねたようなしょうが、降り注ぐ月光のごとく絶え間なく高らかな音色を響かせ、楽人の繊手せんしゅや握られたばち箜篌くご琵琶びわの弦をそれぞれ走り、舞姫たちが五色の雲を模して旋回する。

 三百の雛妓が前後左右に移動し、飛び跳ね、輪を作り、旋回する光景は、まさに〈彩雲〉――吉祥を表す瑞雲そのものであった。

 音に合わせて、腕を上げ、跳躍する玉蝶は、時間が引きのばされたような感覚に陥る。流れる景色が緩慢となり、はっきりとした輪郭を描く。

 前方――北方の、一段高いところに儲けられた黒檀の長榻に座す女性――公主と目が合った気がした。

 雛妓が一斉に跳び、着地する。

 曲の終わりを告げる銅鑼どらの残響が消えるまで、地面に伏した少女たちの袖や裾は、まるで牡丹の花をその場に咲かせたようだった。

 ――玉蝶は、自分がどのようにして大広間を退室したか、覚えていない。ただ白い衣装に身を包む朋輩たちから、「お疲れ様」と声をかけられて、両肩にかけていた領巾を掴んだ時にようやく実感が沸き起こった。

 達成感。舞い終わった後の耳をろうさんばかりの百官の拍手。美しい場所で、美しい舞を踊り、踊れたことへの感謝。

 あらゆる感情が一気に押し寄せ――、そして己の手が掴む領巾に刺繍された花模様を見て我に返った。 

(彩紅に返さなきゃ……)

 瑶鏡殿から教坊に戻る馬車に早く乗れと急かす先輩たちの声をよそに、玉蝶は人で蠢く室内を出た。

 彩紅が休む姉貴分の控室に向かうと、襦裙を豊かな胸元まで引っ張り上げ、白く引き締まった二の腕と鎖骨を晒し、透き通った紅の領巾を肩にかけた姉貴分と出会う。

「彩紅なら一足先に教坊に戻ったわよ」

「そうですか」

 言われてみれば、確かに瑶鏡殿の部屋にいるよりも、教坊の宿舎の自室で休む方が心と身体が安らぐだろう。

 先走った己を反省しながら、玉蝶は姉貴分に「がんばってください!」と声をかけて、その場を去った。

 皆と同じく自分も教坊に向かう馬車に乗ろうと再び回廊を小走りする。すると強い風が吹いて、両手に抱いていた領巾が夜空に舞う。

「あっ!」

 まるで自らの意志があるように空を飛ぶ白い布は、しかし幸いなことに金木犀きんもくせいの枝に引っかかった。慌てて木に駆け寄る玉蝶は、だらりと垂れる舞布の先を掴もうとその場で飛び跳ねる。

(届かない!)

 幹に抱き着いて、枝を揺らそうと試みるも効果がない。衣装は、後でみんなで洗うまでが雛妓の仕事だから、多少の皺や汚れは気にしない。玉蝶たちの出番はもう終わったのだから。

 周りに目を向ければ、金木犀が障壁沿いに植えられていることに気づく。

(壁を上ったら、届きそう?)

 煉瓦を積み上げた壁に指を這わせ、半月型にくり抜かれた飾り窓に両手をひっかけ、腕の力で自身を持ち上げる。

「よい――しょっと!」

 瑠璃瓦が並ぶ障壁の屋根に立った玉蝶は、落ちないように平衡を保ち、両手を広げた。ゆるりと風が吹いて、長裙の裳裾をはためかせる。足首を撫でる冷たい風に、玉蝶は塀の上で体を震わせるという器用な真似をした。

 篝火の明かりが、生い茂る葉に遮られて、闇と同化した枝に手を伸ばす。むせ返りそうな金木犀の甘い匂いに頭がくらくらしながらも、玉蝶は枝を揺らして、引っかかった舞布を落とした。

 ふわり、と地面に着地した白い物体に、安堵する。

 あとは、また風に飛ばされないように自分が拾うだけだと、得意げな笑みを浮かべる玉蝶だが、枝葉で遮られた地面に落ちた白い舞布とともに誰かの足先が見えた。

 どうやら誰かが拾おうとしているらしい。

「あの、すみません! それ私のです!」

 金木犀の幹や枝に片手をつきながら、玉蝶は急いで塀の上を歩いた。枝が途切れた瞬間、舞布を手にした男と目が合った。

 上った時と同じように、塀から下りようとする玉蝶だが、鞋底くつぞこがずるっと滑った。

(落ちる!)

 思わずぎゅっと目を瞑った玉蝶だが、想像していたよりも柔らかな衝撃に襲われた。

 誰かに受け止められたらしい――玉蝶がおそるおそる目を開けば、満月を背景にした青年が視界に飛び込んだ。

「……玉鸞ぎょくらん?」

 発せられる声は低く、けれど穏やかで、玉蝶の頭はようやく今の状況を理解する――――。

 塀から落ちた間抜けな自分と、初めて会った男に、亡き兄の名で呼ばれたことを。

(――この方は、あに様を知っているの?)

 玉蝶と同じく雪の異名を持つ兄、玉鸞は生きていれば十九歳。

 兄は宦官で、十三歳でこの世を去った。

 兄が生きていたら、玉蝶の目の前にいる青年と同じくらいの年齢だろうか――と、玉蝶は今の己が青年に抱きかかえられていることに気づいた。

 慌てて声をあげる。

「あの、ありがとうございます!」

「いいえ。怪我はない?」

 青年は微笑を浮かべたまま玉蝶を地面におろした。彩紅の白い領巾を渡されて、玉蝶は恐縮しながら受け取った。

「大丈夫です。少爺しょうやのお手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」

 青年の立場がわからないため「若様」の意味をもって、礼を述べる玉蝶だが、相手の腰に下げられた魚袋ぎょたいに目を見張る。白絹と銀刺繍であらわされた身分を示す装飾品は、帝室ていしつの人間に連なるものだ。

 宮中の身分位階で言えば、下から数えたほうが早い雛妓の玉蝶からすれば、相手は雲上人である。

 急いでその場に両膝をつき、額づこうとした玉蝶を、青年は「いいから」と己も片膝をついて押しとどめた。

 互いに膝をつきながらも、玉蝶はなおも相手を見上げる格好となった。教坊で日々、鍛えているおかげか、同世代の娘と比べて指四本は背が高い玉蝶は、相手が男性の中で長身の部類だと気づく。

「君は雛妓だね?」

「はい、左様にございます」

「先程、殿下に〈彩雲〉を披露した、前から三番目か四番目にいた、白い披帛に蓮の花が刺繍してある子でしょ?」

「はい、三番目にいました」

 青年の動体視力に驚きながらも、玉蝶は神妙に答えた。

〈彩雲〉で使う五色の舞布には、使用者の目印として六十種の花がそれぞれ刺繍されている。

 玉蝶は赤布に瑞香ずいこうで、彩紅は白布に蓮だった。衣装は先輩たちからの引き継ぎだが、刺繍の練習も兼ねる領巾は自分のものとなる。

 青年に答えた玉蝶だが、すぐに言葉を継ぎ足した。

「あの! でも本当は、あそこにいたのは私じゃないんです。友人の代わりに、たまたま私があそこにいて!」

 あたふたと説明する玉蝶に、青年は微かに眉を寄せた。

「……その、お友達はいくつかな。髪の色は黒?」

「十四で、髪は栗色です」

「ああ、そう。なら、大丈夫。私の主人が望んでいるのは、君だから」

 青年の発言の意図がわからず、玉蝶は両目を瞬いた。

「あの。畏れながら、御身は一体――」

 問いかけた玉蝶は急いで「私は、そう玉蝶と申します」と名乗った。

「私は、亨珪雀こうけいじゃく。第三公主、紫晶ししょう殿下にお仕えしている後宮公子こうきゅうこうし――侍衛官じえいかんだ」

 じえいかん、と玉蝶はおぼつかない口調で繰り返した。武官の役職だろうか。

 視線を彷徨わせ、言葉を探す。

「……畏れながら、少爺は、我が兄、玉鸞をご存知なのでしょうか?」

 亡き兄は玉蝶と同じく、帝国の芸能分野に身を捧げた、楽人がくじんと呼ばれる宦官の見習いだった。

 六つ離れた兄は、玉蝶の憧れで自慢の存在だ。

 だから兄を知る人は、玉蝶にとって共に兄を偲ぶ拠り所でもある。

「もちろん。私も、私の主人も、君の兄上を……玉鸞を知っている」

 も、と掻き消えるような珪雀の囁きに、玉蝶の顔が強張った。

「……あのこと、とは」

 声を震わせた玉蝶に、珪雀は続けた。

「――君の兄上がこと。それについて話がある」

「話……ですか」

「そう」

 見目麗しい青年は続けた。


 君を公主殿下に会わせたい、と。

 

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