第05話 雛、宦官たちと出会い戦うこと

 鳥の眼になれば、宮城きゅうじょうがおわす京師みやこ太清たいせいは巨大な正方形を描く城壁の中に、無数の方形と碁盤のように走る大路小路を見ることができるだろう。

 北に構える一際大きな三つの方形一帯を宮城と称し、中央に皇帝が起居し執政する皇宮こうぐう、東に成人した皇子たちが住む東宮、西に皇后こうごう妃嬪ひひん公主こうしゅが暮らす西宮――後宮でできている。

 後宮の東南にある宮殿群を巽宮そんぐうといい、公主たちが住む区画を指す。

 男子禁制の後宮と異なり、巽宮は、事前の手続きを踏めば、公主の母方祖父や伯父、従兄弟との接見が許されている。 

 ――あの後。

 玉蝶は、皇宮にある瑶鏡殿ようきょうでんから馬車で、第三公主、紫晶殿下の侍女たちとともに、巽宮の公主の宮殿に招かれ、一晩過ごした。

 翌朝、玉蝶は荷物を取りに、皇宮の一角にある教坊の宿舎に戻った。今後は、教坊に属する雛妓ではなく、第三公主殿下に仕える宮女という身分を授けられることとなった。

 天覧氷舞の舞手に志願する際に、教坊の雛妓にしろ宜春院ぎしゅんいんの楽人見習いにしろ、帝室の人間や百官が後見人を務めたほうが、技芸以外での支援を得やすいからだ。

 幸いと言っていいのか、玉蝶は兄の死ゆえに、教坊での訓練も同世代とは遅れていたため、芸事の世界とは無縁であった。だから教坊で親しい人間もごくわずかであり、世間では玉蝶の顔も名前も知る人は少ない。

 無名ゆえに、天覧氷舞に出場ともなれば、その希少価値は跳ね上がる。周囲に印象づけるには、もってこいだ。

 そして、氷舞そのものは、技芸に秀でた宮妓や楽人の中でも、経験者はそれなりにいるが、天覧氷舞は、年齢や体格など細かい条件が舞手に課せられること、六年前に死亡者――玉蝶の実兄だ――がいるため、宮妓や雛妓を含めた中では玉蝶しか志願者がいないと、珪雀が言っていた。

 外廷と区分される、いわゆる官衙が建ち並ぶ場所において、唯一異彩を放つのが教坊である。他の建物同様に、宮殿の証たる黄金の甍を戴く屋根に、緑で染めた壁、朱塗りの円柱が並ぶ歩廊。出入りする人間の多くは年齢・性別を問わずに、十人中八人が振り向く当代の美形か、一度見たら忘れられない印象的な面相ばかり。

 絶え間なく楽器の音色が鳴り響き、舞稽古の最中か、床から微かな振動が伝わる。時として師からの怒号や叱咤、励ましが聞こえてくる。

 技芸者は時代によっては、田畑を持たぬ身ゆえに、国をさ迷い、訪れた先で、技芸を、場合によってはその身を売る賤しき職業とされていたが、当代は庶人でさえも教坊の試験に合格すれば、妓楼と異なり清いままで琴棋書画を身につけることができ、さらに芸才が開花すれば、三代先まで食える財産が蓄えられる。

 だから玉蝶が巽宮の侍女たちから着せ替え人形のように、太い毛糸を編んだ耳当て付きの赤帽子を被り、綿を入れた外套を纏い、全体的にもこもこと着膨れした状態で歩いていても、すれ違う官僚らには雛妓が稽古場に赴くのだと見られていた。

 宿舎の部屋で、自分の寝台に置かれていた赤い領巾を含めた荷物をまとめて外に出た玉蝶は、通りかかった二人組の宮妓の背中に声をかけ――後悔した。

 振り向いた二人は、彩紅と同じ十四歳で、二か月前に雛妓から宮妓になったばかり。〈彩雲〉の練習の初期にいたのだが、彩紅に対抗意識を燃やしており、必然、彩紅と一緒にいる玉蝶にも敵意をむき出しにした態度であった。

 玉蝶はぐっと奥歯を噛んでから言った。

「彩紅、見なかった?」

「知らないわ」

 即答した片方の隣にいるもう一人が、整った顔ににたにたと下品な笑みを浮かべる。

「それにしても玉蝶。初舞台で上手いことやったわね。次はなにに出るの? 今度は〈霓裳羽衣〉?」

「あら。〈霓裳羽衣〉なんて難しい曲、この子は習ってないでしょ」

〈霓裳羽衣〉は、単身で披露する舞であり、〈彩雲〉と比べて振り付けも細かい。

 玉蝶は二人をキッとにらんだ。

「……上手いことって、なに。どういう意味」

「言葉通りよ。彩紅も残念よね。あの舞台に出られていたら、自分が宮殿に招かれたのに」

 玉蝶が瑶鏡殿から教坊に戻らなかったことは、すでに噂になっていたらしい。

 二人は意地の悪い笑みを浮かべた。

「あぁら。でもでもでもぉ、玉蝶が呼ばれたのは巽宮だもの。殿下と一瞬に西に旅立つのではなくて?」

「ここから西へは三月はかかるものね。彩紅なら道中の暇潰しになるでしょうけれど、玉蝶ではねぇ」

 第三公主、紫晶殿下は遥か西の草原を統べる王に嫁ぐ。そういう話は、玉蝶たちの耳にも入る。

「確かに私が踊れるのは〈彩雲〉と〈青峰〉、〈百花〉の三つだけ。それも全部群舞だわ。でも、今ここで、私に長口上を披露している貴女たちはなんなの? 下っ端役の練習? ずいぶんと自由な時間をお持ちなのね」

 言い返す玉蝶に、二人の宮妓は明らかに不機嫌になった。教坊の人間にとって「暇」とはすなわち、芸能者たる己の仕事のなさを表す。

 そして、玉蝶も二人も、お互いが「相手が自分にどんな言動をぶつけても、自分は相手の外見や才能を尊敬しているから許せる」という、教坊ではよく見られる関係ではないと承知している。

 だから玉蝶は二人の声を聞く前にくるりと踵を返して、その場を後にした。胸の辺りに生まれる苛立ちを消そうと無意味に両手を振って歩く。

 教坊の門を潜り抜けた玉蝶は、今度こそ見慣れた背中を見て声を上げた。

「彩紅!」

「玉蝶!?」

 坊門を背にしていた彩紅は驚いた様子で玉蝶を見つめた。彼女が手にしているのは、風呂敷に包まれた琵琶だ。彩紅と話していた小柄な禿頭の老人が玉蝶を見て会釈した。

「……こちらは、祖父のところで働く職人さん」

「こんにちは」

 玉蝶も頭を下げる。顔を上げた時は「宦官が、どうしてここに?」という疑問は消して。

 彩紅も玉蝶に老宦官を紹介する気はないようだった。彩紅に頭を下げると、無言で背中を向けた老宦官に「じゃあね、おじいちゃんによろしく」とだけ声をかける。

 彩紅は琵琶を抱え直すと玉蝶に向き合った。

「それで、玉蝶。あんた、教坊になんの用?」

「あの。あなたに領巾を返そうと思って……」

「あら。わざわざありがとうね」

 玉蝶が差し出した白い領巾を受け取る彩紅の眼差しにあるのは懐かしさだ。

 彩紅は荷物を抱えた玉蝶に目を向けた。

「あんた、これから公主殿下のところに行くんだってね」

「うん。……ねえ、彩紅。あの時、彩紅が私にあの場所を譲ってくれたから、私、殿下のところに行くことになったの!」

 玉蝶は胸の前でいじっていた指を下した。

「だから、彩紅が踊っていたら、もしかしたら……!」

 あのまま彩紅が瑶鏡殿で踊っていたら、玉蝶は公子と会えなかっただろう。

 言いよどむ玉蝶に、彩紅は目元を和らげた。

「なにを気にしてるのか知らないけど。運も実力のうちっていうでしょ? 私は〈彩雲〉に出られなかったけど、これから宮妓として頑張るんだし。だから、あんたも頑張りなさいよね」

「うんっ!!」



 明るい気分で玉蝶は教坊から、宜春院に向かった。紫晶より賜った、腰に下げた翡翠でできた玉佩のおかげで、教坊から東宮に向かう馬車に乗れるのだ。

 宜春院は東宮の敷地にある。かつて異国より献上された舞姫たちに与えられた宮殿一帯を指す。共に後宮で坐臥することを厭った当時の後宮の反発により、舞姫たちは皇帝以外の男が存在する東宮を住処としたのだ。 

 何代か前からは、異邦人である芸能に秀でた楽人や宮妓の鍛練所となっている。

 南北にある二つの大門は白煉瓦が積まれ、黄金の甍が葺いた四つの建物を結べば菱形を結んだように見えるだろう。

滑氷場かっひょうばって、どこなんだろ……」

 馬車を降りて、玉蝶はきょろきょろと周囲を見渡した。

 宜春院。玉蝶の兄が過ごしたこの場所は、楽人の養成所だ。名前は知っているものの、見習いの玉蝶が宜春院に赴く用事はなかったため、今回が初の来訪である。

 そこへ一列で歩く四人の宦官が通りがかった。両手を後ろに組んで歩く細身の宦官を先頭に、丸めた赤い敷物を両手に抱えた二人目、文箱を持つ三人目と紙束を持つ四人目の宦官が続く。

 全員、宦官の証である浅青せんせい色の長袍を纏っている。ちなみに皇帝陛下に仕える宦官は黒袍、宮中の工事を担う宦官は灰色と働く場所によって衣服の色が決まっており、楽人は浅青色だが、その外見や能力を含めた職掌から、公序良俗に反しない限り、服装や髪形は自由であり、ある意味で「個性」を出さなければ「無能」「野暮」と謗られる風潮があり、官僚の一部には髪の毛を結わない楽人を見ると顔をしかめたりもする。

(……この人たちは?)

 玉蝶は雛妓らしく、相手を観察した。

 四人とも髪の毛は、頭頂部でまとめ白い布帛で覆っている。持ち物はてんでばらばらで、顔を見ても、玉蝶が見たことがある舞台では出演していないようだ。

 けれど話しかけやすそうな雰囲気を漂わせている。

 玉蝶は意を決して声を上げた。

「あの、すみません! 滑氷場はどちらでしょうか?」

「――カッヒョーバ? なにそれ?」

 先頭を歩く宦官の、やつれた面差しは骸骨がいこつを連想させる。眉根を寄せた骸骨宦官は、両手を後ろに組んだまま、くるりと回転した。後に続く三人に問う。

「お前ら、カッヒョーバを知っているか?」

「カッヒョーバ? ああ……滑氷場のことですか」

 丸太のごとく丸めた赤い敷物を右肩に寄せた宦官が、玉蝶に視線を向けた。

「そうです。私、天覧氷舞に出たいので、翠輝すいき様にお会いしたくて……」

「滑氷場って、あれだろ? 湖で練習するやつ」

「いやほら。川や湖での滑氷は危険だからやめろって禁止されてただろ。だからあいつが造ったっていう、なんたら池だか、なんたら湖で稽古しろって」

「ああ。なんだけっけ? 肝臓池かんぞういけだか膵臓湖すいぞうこだかだよな」

 文箱を持つ宦官と、玉蝶の肘から手首までと同じくらいの分厚い紙束を持つ宦官が言い合った。

心臓湖しんぞうこ心臓池しんぞういけではなかったかな? ――っと、君はもしかして雛妓ですか?」

「はい」

 絨毯を抱えた宦官の丁寧な問いに玉蝶は頷いた。

 着ぶくれしている玉蝶の格好だが、外套の下は、すぐさま氷舞の練習ができるようにと、教坊における稽古着だ。木綿でできた上衣は筒袖で、下半身は褲子ずぼん。帽子を被っているが、その髪型は、目の前にいる四人と同じく、頭の後ろで団子のように丸めて布帛を被せ、綾紐で結んだもの。帝国の子供は男女問わず、大抵この髪型と服装で、こと教坊と宜春院では十代半ば以下は性別の判断が、一瞥しただけではわかりにくい。

 宮城内における身分を表す玉蝶の佩玉は、見習い宮妓たる雛妓を意味する従八品に、第三公主に仕える翡翠が加わっている。

「男装だ!!」

 突然、骸骨宦官が叫んだ。

「いいえ、普段着です!?」

 だから玉蝶は律儀に答えた。

 宦官は、同胞とそれ以外の識別ができる。声変わり前の去勢されていない少年や破瓜を迎えていない少女、小柄な男が宦官の扮装をしても、彼らには呆気なく看破される。

 特に宜春院は、音楽や芸術など特定分野に特化した才能がある宦官が集められているから、玉蝶と同い年の少年少女や「十代半ばの宦官」に見まごう女性が「宦官」に扮していても、顔、声、指先、耳の形、話し方で見破られてしまうのだ。

 しかし男装のつもりはまったくなかった玉蝶の主張を無視して、四人は一方的に盛り上がっていた。

「先生、もしかしてっ!?」

「降りてきたんですね!?」

「紙と筆はこちらです!!」

 骸骨宦官以外の三名が、敷物をその場で広げ、その上に文箱から墨や筆を取り出し、文鎮で紙を押さえる。

「どうぞ!」と三人が一斉に声をそろえ、両手を敷物に向けた。

「うむ」と骸骨宦官がうなずいて、敷物に木履ぼくりを履いたまま、紙と硯の前に座り込み、筆を取るや否や、猛然と紙に文章を綴っていく。

 玉蝶は、教坊きょうぼうでこの手の人間を見たことがあった。傍らで骸骨宦官を見守る、敷物を持っていた宦官に小声で尋ねる。

「あ、あの。あちらのあに様は一体……」

「あちらにおわすは陶亥惚とうがいこつ先生にございます」

「とっ、陶先生って、あの? 『血風剣客伝けっぷうけんかくでん』や『碧落仙女譚へきらくせんにょたん』を書いた?」

「そうです! ご存知ですか?」

「はい! 二ヶ月前に宝礼堂ほうらいどうの舞台を観ました!」

 客席から舞台を鑑賞するのも、雛妓の訓練の一つだ。役者の演技、声量、呼吸。衣装から小道具から背景の舞台芸術に観客の様子。すべてを観察し、己の技芸の糧にする。

 教坊や宜春院にいる者は、歌舞音曲以外の才能をも持っている。

 伝統的な歌や踊り、演奏だけでは、聴衆は飽きてくる。客が望むものは己の期待を裏切らない、伝統以外の新鮮さ、目新しさ。

 だから無から有を生み出す創作者――たとえば脚本家、作曲家も、当然いる。

 彼らの才能は、すべて銀漢帝国の宮廷に捧げられているのだ。

 骸骨宦官改め陶氏の舞台劇は、玉蝶のような雛妓――子役の出番はめったにない。けれど、だからこそ、舞台役者を目指す雛妓の多くは、大人になったら陶氏の作品に出たいと研鑽を重ねる。

 陶氏の付き人らしい三人の宦官は、玉蝶が陶氏のような人間の対応を知っているとみなしたのか、彼女の話を聞く姿勢になったようだ。

 ちなみに、無言でひたすら筆を動かす陶氏を見守りながら、四人は囁き声で会話している。

「あのね、宜春院の滑氷場は一つしかないんだ。腎臓湖じんぞうこみたいな名前なんだけど、俺ら滑氷はやったことがないから、どこにあるのかわからないんだ」

「この先をね、真っ直ぐ行くと舞楽館ぶがくかんっていう、名前の通り、踊りや音楽中心の楽人の宿舎があるんだ。そいつらに聞いたほうがわかると思う」

「ありがとうございます!」

 尊敬する脚本家が、いつか玉蝶が演じる機会があるかもしれない作品を生み出しているのを横目に、玉蝶は舞楽館につま先を向けた。

「そこな雛妓」

 はい、と玉蝶は陶氏に呼び止められた。

「――双玉鸞は、俺達の心に、作品の中に生きている。だから、彼は永遠なのだ」

「――はい!」

「あれ? 君、玉鸞の……?」

 成人男性と同じくらいの背丈の、敷物担当の宦官が玉蝶を見て首を傾げた。文箱と紙束を持っていた二人も、玉蝶の顔を凝視する。

「妹です」

 と、玉蝶が言えば、三人は「おおっ!」と小声で頷く。

「えっえっ? じゃあ、君、もしかして天覧氷舞に――?」

「出たいです!」

「ああ、うん……そう」

 書き物に集中する陶氏をはばかり、玉蝶が小声で主張すると、敷物担当と他二人は、一斉に同情的な眼差しを玉蝶に送った。

「俺らは君も応援するけど……天覧氷舞はさ、あの、うん」

「まあ頑張れよ」

「滑氷場に、行けるといいな」

 歯切れの悪くなった彼らに見送られ(陶氏は相変わらず筆を動かしていた)、玉蝶は舞楽館に向かった。

(まあ宦官は宦官の流儀や同属意識が強いからなぁ)

 宦官を兄に持つからこそ、玉蝶は宦官の思考も多少は想像がつく。

 天覧氷舞は、玉蝶の兄・玉鸞とその前、さらにその前は、宦官が奉献していた。

 女の、つまりは宮妓あるいは雛妓が、御前にて氷舞を披露する機会は、天覧氷舞なる宮廷の行事ではなく、後宮での催しと、目に見えない線引き――宜春院の楽人か、教坊の宮妓の誰が出演するか――があるのだ。

 帝国の宮廷行事では、芸能に秀でた宦官と宮妓が共演、競演する。男の芸能者は、市井にはいるが、彼らは宮中で深閨の婦人に披露する機会はない。

 美女になれる宦官もいれば、男装の麗人として後宮の妃嬪をときめかせる宮妓もいるため、教坊では好敵手同士にあたる宮妓が、宦官である楽人と舞台出演を争うことになると、日頃は挨拶もせず目も合わせないのに、宮妓たちは、こぞって同胞の味方になる。

「宦官に美貌やかっこよさで負けてたまるもんですか!」とは、玉蝶に〈彩雲〉を教えた姉貴分の一人の発言だ。

 宮妓の見習いである雛妓は、まず教坊で好敵手を見つけ、次に宜春院で好敵手(宦官だ)を見つけ、そして舞台に立つのが一人前とされる。

 なにせ、歌も舞も楽器演奏も、そして役者であっても。

 その者に人を魅了する才能と技巧があれば、性別は関係ないのだから。

(私は好敵手を見つけられるほど、稽古も出演歴もないからなぁ)

 滑氷鞋かっひょうあいが入った袋を背負い直しながら、玉蝶は舞楽館から出てきた宦官に滑氷場を訪ねた。

 多くの宮廷建築物のように、舞楽館もまた朱塗りの円柱に墨痕鮮やかな扁額が掲げられている。

 一人目、二人目と道行く宦官に尋ねるうちに、玉蝶は目当ての場所にたどり着いた。

 宜春院の北門から北東の舞楽館に向かい、そのまま南下して、演劇に特化した楽人の宿舎の演劇館に向かい、そこでも滑氷場を訪ねた玉蝶は、宜春院を南北に貫く大路ではなく、塀が立ち並ぶ小路を教えられたことに気づいて苦笑した。

 滑氷場を教えてくれた宦官が、雛妓の玉蝶に意地悪で間違った道を教えたのか、陶氏の配下のように、どこにあるかわからない、曖昧な記憶で教えたのかまでは、玉蝶にはわからない。

 けれど面と向かって罵倒されたり、暴力を振るわれないだけましだ。気を取り直して玉蝶は足を動かした。

「わあ……」

 白い塀が途切れ、竹林を通り、桃林を通り抜けた玉蝶は、緑色のなだらかな丘の麓に広がる、楕円形の湖を見つけた。

人造湖じんぞうこ」という場所は、正方形の宜春院を真上から見た際に、南東にある。

 見ればわかる、と道中、何名かの宦官が言っていた。

 字義の通り、この湖は人の手によって作られている。湖というほどの深さはない。せいぜいが大人の男の親指と小指を結んだくらいの深さ。そして、楕円に掘った穴に、砂や砂利、水を混ぜた水泥で固めた混凝土コンクリートを流し込んでいる。

 浅いために、万が一に氷が割れても、玉鸞のような悲劇が防げる。

 湖畔には、白玉石でできた背もたれのない長椅ベンチが、四方を示すように一台ずつ配置されている。

 玉蝶は手近な長椅に背負っていた袋を置いた。湖畔にひざまずいて、水が張られた湖面をじっくり見れば、人造湖らしく、その氷の向こう側には生物は一切いない。 

 混凝土で固められた壁には、排水溝と思しき黒い丸が見える。

「地下から水を引いているのかな?」

 拳でトントンと氷を叩いて硬度を確認した玉蝶は、立ち上がった。

 袋から滑氷鞋を取り出す。滑氷鞋は、鞋底に刃を取り付けた白い長靴だ。

「――よし」

 青白く光る刃に映る己の顔に向けて、玉蝶は気合を入れる。

 この滑氷鞋は、兄の形見だ。

 玉蝶が故郷で子供のころに履いていた滑氷鞋は、水害で失われた。

 天覧氷舞に、あるいは後宮で催される宴席で、氷舞が披露できればいいと思ったことはある。

 玉鸞の死によって、後宮も、貴族の邸第でも、氷舞の実現は敬遠されてしまったから、玉蝶は、公主殿下と公子から滑氷鞋について尋ねられた時、感情を抑えるのに必死だった。

 帽子と外套を脱ぎ、長椅子に置き、滑氷鞋に履き替える。

 足慣らしに、玉蝶は人造湖の縁をなぞるように、緩やかに滑り出した。両手を広げて、全身に風を感じる。

 子供のころに、故郷で兄と養父から教わった滑氷が思い出される。

 玉蝶の養父は、滑氷に心得がある人だった。彼の手にしがみつきながら、おっかなびっくり氷を滑り、練習するうちに、一人で片足を上げて滑走できるようになった時の喜びと自信は、今でも覚えている。

 養父は明るい人だった。彼は玉蝶と兄が見ている前で、氷上で独楽のように回転し、柵を飛び越える仔馬のように跳躍した。

 だから、玉蝶も兄の玉鸞も、養父の真似をしたくて、何度も教えてくれとせがんだ。

 養父は言っていた。氷上で無理に跳躍すると、足の骨に負担がかかり大きくなれない、と。

「だから、お前らが大きくなったら教えてやるよ」と。

 その言葉通り、年齢に応じた滑氷の動きを教わり、養父の指導が良かったのと、玉蝶と兄に才能があり、そして家を出ればすぐに凍った湖があちこちにあったという環境と、いろいろに恵まれたおかげで、今がある。

 玉蝶は、脳裏に蘇る養父の回転を思い出す。

 一歩、二歩と滑り、三歩目で跳躍、回転。色鮮やかに変わる周囲の景色。そして着氷。

 玉鸞が披露した天覧氷舞は、いったいどんな振り付けだったのだろう。音楽も加わるから、玉蝶の想像以上に素敵な氷舞に違いない。

(翠輝様に会って、なんとか稽古をつけてもらいたいけど――)

 その翠輝は、これまで出会った宦官たちの口ぶりから察するに、雛妓である玉蝶が天覧氷舞の舞手に志願することについて、どうにも反応が鈍かった。

 おそらく宦官にも志願者はいるだろう。玉蝶が彼らとともに、宦官の翠輝から指導を受けられるかどうか――――。

「おい」

 作り物めいた低い男の声に、玉蝶の考えが途切れた。つま先に力を入れて、氷上で立ち止まった。氷が軋む音がする。

 声の方向を見れば、湖畔に背が高い赤毛の宦官と金髪の小柄な宦官がいた。どちらも、楽人とその見習いである浅青色の上襦に、玉蝶と同じく褲子ズボンを履いている。

 赤毛はあちこちに跳ねさせた髪を頭頂部でまとめて毛先をなびかせ、金髪の方は玉蝶と同じく、後頭部で丸めて白布で覆っている。

 赤毛は珪雀けいじゃく、小柄な宦官は玉蝶と同じくらいの年齢に見える。

 赤毛が口を開いた。高い位置にある腰の佩玉はいぎょくには黒鶫くろつぐみが施されている。

「お前、どこの誰だ?」

 彼の声は意識しているのか、それとも変声期を終えてから宦官となったのか、玉蝶にはわからないが、張りのある低音だった。

「私はそう玉蝶ぎょくちょうと申します。天覧氷舞への出演を希望しています!」

「玉蝶? 聞いたことねぇな」

 玉蝶の声に、赤毛の宦官は両肩をすくめた。

 帝国では、長幼の序を重んじる慣習があるが、こと芸能の世界である教坊や宜春院においては当てはまらない。

 十五歳で弾けて当然の楽曲を、五歳で演奏できたら神童と扱われる。

 十六歳で音楽も踊りも画才も人並みの域を出なければ凡人と謗られる。

 十七歳で己の年齢と外見しか誇れるものがなければ、みじめな存在。

 かつては技芸者が若ければ若いだけ、持て囃す風潮があったが、昨今では、幼い技芸者たちの養成と、心身の摩耗を防ぐ名目で、年齢によって年間の出演数や練習時間が厳しく決められている。

 玉蝶は、十二歳。教坊が運営する育英堂に入ったのが二歳の時で、その頃から歌舞音曲の基礎的な教育は受けているのだが、六歳の時に兄を亡くし、喪に服すために九歳までの伸び盛りの三年間を、音楽や芸術と無縁の環境で過ごしていた。

 だから同い年の雛妓と比べて、知っている歌や踊りの数は少ない。

 氷舞も水害で廃村となった故郷で、養父と亡き兄に教えられた程度で、独学だ。

 初舞台は十二歳。先日行われた、第三公主、紫晶殿下の降嫁を祝う宴である。

「お前いくつだ?」

「十二です」

「出演歴」

「……三日前に瑶鏡殿にて開かれた、第三公主殿下の宴が初めてです」

「初舞台が十二! ハッ、教坊の連中の教え方が悪かったのか、お前に才能がなかったのか、どっちだよ? どう思う、桃簾とうれん

 赤毛の宦官が隣の小柄な宦官に視線を向けた。

「両方だと思います、紅榴こうりゅうあに様」

 菊の花同士がぶつかったような涼やかな声で、桃簾と呼ばれた宦官が赤毛の相手に言った。

 玉蝶はむっとした表情で二人を見た。

 紅榴という宦官は知っている。千人の観客に歌声を届ける、歌唱力に優れた宦官だ。その証に、彼の腰に下がる佩玉には、歌鳥である黒鶫が刻まれている。

 そして玉蝶は、観客の心や目や耳を奪うような才能を持つ姉貴分や宦官たちが、舞台裏では、美しさとは反対の言動を見せるというのも、知っている。

「どれも違います。私は三年間、兄の喪に服していましたので」

「兄?」

「兄は宦官でした」

「……兄貴の名は」

「双玉鸞ぎょくらんと言います」

 紅榴という赤髪の宦官は、無言のまま長身を折り曲げた。ずいと玉蝶に顔を近づける。形の良い黄金の瞳に、玉蝶が映った。

「……お前、あいつの妹か?」

 相手は身を起こすと、玉蝶を見下ろした。その視線には見下すものがある。

「嘘だろ。玉鸞の妹が、こんなちんちくりんなわけあるか」

「ちんちくりんは認めますが。舞台に立つ者が己の輝きを自在に操れるというのは、音に聞く紅榴様ならすでにご存知かと思いますが」

「あァっ!?」

 凄む赤髪の宦官だが、玉蝶の眼には彼が「場末の破落戸ごろつき」を演じているように映る。また雛妓という立場から、顔が整った人間から稽古の最中に大声や怒声を浴びせられることもしょっちゅうあったために、怯えや驚きよりも、相手の言動を観察する冷静さが先立った。

「……お前、本当にあいつの妹なのか?」

「あに様をご存知なのですか?」

「ああ、知っている。なにせあいつは、この俺様の競争相手だからな」

 で、と紅榴は湖畔に立ったまま、氷上の玉蝶を見下ろした。

「ちんちくりん。お前も、天覧氷舞に出たいのか?」

「はい」

 だから指導役の翠輝すいきに会いたいのだと玉蝶が言うと、紅榴は鼻を鳴らした。

「翠輝様は、まだお戻りじゃない。今日も明日も、南陽なんようで舞台がある」

 京師から船で五日ほどかかる南の土地で、翠輝は興行中だという。

「そうなんですか」

「で、俺らはここで練習をしているんだが?」

「私も参加したいです」

「うんうん。そう言うと思ったぜ。だがな、俺は今からここにいる桃簾を、翠輝様の稽古に耐えらえるくらいに鍛えなきゃならんのだ。お前がいると、邪魔」

「そんな!」

 玉蝶は声を上げた。人造湖は広い。桃簾がどんな練習をするのか気になるが、玉蝶が隅で滑るくらいは問題ないだろう。

 それとも彼らは玉蝶が振り付けを盗むとでも疑っているのか。

 こうした状態――練習場所の独占だったり、無関係な者を意図的に排除したりされたり――というのは、教坊でもよくあるが。

「あと、この人造湖は、俺が作った。俺が大家と宜春院の許しを得て、な」

 決定的な一言を紅榴は玉蝶に告げて、玉蝶は固まった。

 私有地なのだ、ここは。

 紅榴の技量なら、宜春院に己のための人造湖を作る財産を用意するくらい、わけないだろう。

 それほど氷舞への情熱を、彼は持っているのか。

「だ、だとしても横暴ではありませんか!」

「横暴? そうか? そうだろうな。じゃあ、こうしよう。お前、桃簾と勝負しろ。内容は氷球アイスホッケーなんてどうだ?」

氷球アイスホッケー……? 氷球アイスホッケーってあの、あれですか? たしか棒で球を相手の陣地に入れたら勝ちっていう……」

「わかってるじゃねぇか」

 困惑気に尋ねる玉蝶に対し、舞台では華やかで明るく、健全な雰囲気を醸し出す紅榴は、完全にその辺にいる不良じみた若者同然の言葉遣いになった。

「勝負は一週間後。相手の陣地に三回、球を入れたら勝ち。球と氷上曲棍球棒スティックはこっちが用意するし、棒についてはお前に選ばせてやるよ。仕掛けがあるなんて騒がれちゃたまらねぇからな」

 どうだ、桃簾、と紅榴が水を向ければ、玉蝶に桃色の眸を向けていた宦官はうなずいた。

 玉蝶は、桃簾の視線に勝ち誇ったような気配をかぎ取る。舞台に出るために限られた出番を手に入れ、争いあうという雛妓の闘争本能に火が付いた。

 紅榴を見上げる。

「わかりました。私が勝ったら、ここで稽古をすることを、許してくれますか?」

「勝ったらな。ほいじゃ、わかったなら、さっさと帰んな。俺様は弟子を特訓しなきゃなんねぇ」

「え?」

「愛弟子を特訓するのに、他人の前でやるわけないだろ。なあ?」

 片手をひらひらと揺らす紅榴と、無言で自分の滑氷鞋に履き替える桃簾に、玉蝶は最後とばかりに質問する。

「……紅榴様も、天覧氷舞に出られるのですか?」

「俺ぁもう十八だ。天覧氷舞はできねぇ」

 氷面の具合が不安定な以上、天覧氷舞に選ばれる者は自ずと限られる。

 背丈、体重、年齢。氷舞の才能と、御前にて披露目が叶う容姿は有していて当然。

 紅榴は、玉蝶が怒ったり泣き喚かないことに、関心したようだ。

 玉蝶と同じく滑氷鞋を履き、氷上に立つ桃簾の肩を湖畔から引き寄せる。

「俺はお前の兄貴と天覧氷舞を目指し、負けた。だが、今回はこいつがいる。だから桃簾の好敵手となるお前に、氷舞の練習はさせない」

 練習したければ、自分で居場所を見つけるんだな、と紅榴は悪役そのものの台詞で笑い出した。



 衝撃を受けた様子で、湖畔に上がった玉蝶が滑氷鞋を脱ぎ、人造湖に背中を向けて去ったのを見送ると、紅榴は寸刻までの「場末の破落戸」よりも、なお険しい顔で桃簾に視線を注ぐ。

 琥珀色の眸に、こちらを慈しむ熱があるからこそ、桃簾もまた臆することなく真剣な表情で受け止めた。

「あいつ、十二だってよ。お前より一つ下だ」

「はい」

「だのに、なんであんなに飛べるんだ、糞が。玉鸞の妹だからか?」

「……僕も、あんな風にできますか?」

 桃簾は焦っていた。氷舞の練習については、成長途中にある桃簾の足の骨を阻害する恐れがあるため、紅榴から跳躍や旋回の練習は十二になるまで練習が禁じられていたのだ。

 だから専ら、これまでの滑氷の稽古では、立つ、滑る、止まる。この三点しか練習していない。滑氷鞋は、宜春院で冬を迎える毎に新しく買った。

(……あいつは)

 桃簾の脳裏に浮かぶのは、玉蝶と名乗った一人の少女。彼女は手慣れた様子で持参した滑氷鞋に履き替えると、躊躇わずに氷上を滑った。

 前方に固定された視線、真っ直ぐに伸ばされた背筋。片足での滑走が長く、楕円形の滑氷場を内側からなぞるような滑らかな動作。

 そして跳躍。独楽のような動きは見事な三回転だ。

(……僕はまだ三回転の練習を始めたばかり)

 去年からようやく氷上での回転の練習が始まり、最近になって三回転が板についてきたというのに。

 桃簾は悔しさで歯噛みした。

 けれど氷球アイスホッケーでは、三回転する技術は求められない。

 あの娘は、紅榴や己がその名前や存在を知らない雛妓ということは、帝国芸能界においても無名か、よほどの隠し玉の可能性がある。

 雛妓にしては、控え目な立ち居振舞いで、紅榴の問いかけに対して、出演歴がついこの前の一回だけという。

 その出演内容も、個人による技芸の披露ではなく、舞台度胸をつけさせるための群舞であった。

 ゆえに。玉蝶は、三回転や四回転が自分の足に負担をかけていることに気づかない、知らないのではないか?

 相手がそれに気づかず――楽人も宮妓も見習いも、銀漢帝国の宮廷に歌舞音曲を捧げる身ゆえに、表現者である己の肉体について無知でいることは許されない――一週間後の氷球までに、彼女の足に万が一があったら?

 六年ぶりの天覧氷舞の舞手は、自動的に決まる。

 それを喜ぶことは悪ではない、けれどその喜びは蔑まれる対象だ。

 紅榴は、顔を曇らせる弟分の頭に手を当ててぐりぐりと撫でまわした。

「できる、できないじゃなくて、やるんだ。お前なら、やれる。俺が教える。――いいか?」

「はい!」

 人造湖に師弟の声が響いた。



 一方、人造湖を体よく追われ、玉蝶はしょんぼりと肩を落としながら歩いた。

「どうしよう。翠輝様にお会いするまでに練習したいのに」

 滑走、旋回。いかに自分が氷舞に相応しい表現者だと主張しなくては、指導者になにも伝わらない。

 だからこそ練習をしたかった。けれど巽宮にある、紫晶の宮殿では、広間や園林に広場はあっても、人造湖のような氷上はない。

 行きよりも重たく感じる滑氷鞋が入った袋を背負った玉蝶の背後から石畳を走る軽快な車輪音が響く。

「退いた退いたァ!!」

 玉蝶が振り向けば、百合の花びらのように先端が反り返った板に乗った宦官が「ヒィヤッハァーッ!!」と甲高い奇声を上げながら、眼前を駆け抜けた。

 彼は、石煉瓦を積み幅が細い坂道のような手摺に、板ごと飛び乗ると、そのまま滑走し、地面に着地する前に、片手で板の端を掴み空中で回転する。

 鮮やかに一回転する宦官を目撃した玉蝶は持ち前の動体視力で、板の裏側に四方に車輪がついていることに気がついた。

 ――あれだわ!

 玉蝶の頭に閃光が走った。

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